19 主と反旗と守り方
重なった唇を少し離すと、ショックと驚きとで呆然としているエルの深い青い瞳が目に入る。
怒りすら忘れてぽかんとしたアホ面とはいえ、色も形も睫も含め、この僕ですら一級と認めていいと思うこの目をまじまじと至近距離から見られるのは貴重な機会だ。
エルが唯一受け継いだと自慢してくるこの瞳は、彼女の姉であるマーガレット嬢と瓜二つで素材自体も美しい。が、この瞳が人を惹きつける理由は、なにより、強く清んだ内面を映し出すからじゃないかと僕は思っている。
瞳以外全て父親譲りの顔であるはずのエルが決意を固めたときの毅然とした表情は、容姿の似ている兄ではなく、王家の前で演説をしきった時の姉を彷彿とさせた。エルの瞳は、常に、あの時の彼女ですら敵わないほど、様々な感情で強く輝いている。
それにしても、僕に口づけられても、一切頬を染めたり目をとろめかせたりしないあたり、いかにもこいつらしいな。ちょっとは照れるとかないのか、この女。
「口づけの時は目を閉じる」って人間に備わっている反射だと思っていたけど、そうじゃないってことを証明してくれるほどの間抜け面をどうもありがとう。次の機会にはその段階まで持っていってやるよ。
頭の片隅で楽しい計画を立てているうちに、先ほどの強い感情の波がだんだんと引いていく。
感情は理性にはないエネルギーを生み出し、時に一発逆転の力となるが、理性を鈍らせる迷惑な存在でもある点では諸刃の剣だ。常時フルスロットルなのは腕の中のこいつだけでいい。
さて。この状況をどうしようかな。
今の僕の行動は、婚約者を選ぶ会場で、最有力候補である公爵家令嬢をさしおいて自分の連れてきた底辺男爵家を優遇し、あろうことか皆の前で口づけまでした大馬鹿者そのものだ。
自分でもそう思うよ。感情に動かされるとアホになるって実感してる。
だけど、後悔はしてない。
この状況をどう打破するか。いかに早く、最も有効な抜け道を探すか――そこは僕の理性の出番だ。じじいの側から挑戦状をたたきつけられたのだから、この状況を利用してやる他になにがあるだろう。
この世で最も憎い相手に一矢報いるチャンスだと思えば、僕の頭は、高揚感を糧に、急速に回転し始める。
この行動が毒の応急処置のためだと気づいているのは、目の前の主犯と、かのご令嬢のみ。が、ここで大声を上げて毒入りだと主張するほど僕は愚かじゃない。こいつがそんな主張をむざむざと通すはずがないし、こんな行動を取った後の僕には、よくて「体調が悪かった」「悪い女にたぶらかされた」評価が下る程度で、信ぴょう性はまるで得られないだろう。下手すれば「頭がおかしくなった」として評価を下げかねないし、証拠をあげて糾弾しようにも、こいつも逃げ道くらい確保しているだろうからそうやすやすと証拠を掴めるとは思わない。
今後エルを表だって排除させられないようにじじいを封じ込み、エルに危害を加えたこいつらをけん制する最も効果的な方法は――
余韻として許されるくらいのわずかな間に、今後の展開を思い描く。次に、ようやく正気に返った様子のエルが余計なことを口走らないように軽くおしおきをしておくと、これまでの経験からか、エルはその意を正確に汲み取ったらしく、口をぎゅっと真横に引き結んだ。
それを確認してからゆっくりと顔を離し、周囲に向けて最上級に愛らしい邪気のない(エル曰く、邪気しかない)笑顔を振りまく。
「お目汚し失礼いたしました」
「ぐ、グレン様――今のはいったい――」
「あぁ。なんてことはありません、味見を兼ねていたのです」
「あ、味見、ですと……」
「先ほど彼女が、皆様から自慢の郷土料理を振舞われておりましたでしょう?」
「え!?囲んでいたのにどうしてそれを――むっ」
言いかけたご令嬢の一人を周りが止める。でも遅い。言質は取ったよ。
すぐさま色っぽく、妖艶さがにじみ出るよう目を細め、エルとのキスで濡れているだろう唇をわずかに開き、見せつけるようにゆっくりと続ける。
「僕はその波に一歩乗り遅れてしまいましたから、彼女の口を味わえばその味も残っているかなと思いまして。一緒におりましたら直接味わえたのに、残念です。次こそは是非、僕も一緒にいるときに振舞ってください」
イアンやフレディでは絶対に使えないだろう言い訳も、僕なら通じて当たり前――そう言わんばかりに余裕をもって微笑んで見せ、同時に、牽制する。
どうせ食べ物とは言えないようなものをこいつに食べさせようとしたんでしょ?それを僕が口にする可能性があったって気づいていないわけじゃないよね。それを僕の前に出すことはできるのかな。
ねぇ、次、もう一度やったら、分かってる?
僕を怒らせたくないなら、最初からこいつに手なんか出すんじゃないよ。
命を懸ける覚悟ができているやつだけ相手してあげる。
僕の言外の意図はきちんと伝わったみたいで、エルを囲んでいた連中が一様に顔をこわばらせた。
「……学園にいる間に随分奔放になったようだね、グレン」
「僕は元から変わりありませんよ、お祖父様」
くるりと振り返ると、老人の柔和な笑顔と目が合う。
細められた紅の瞳の奥が絶対零度であることを分かっているのは、そこで震えている当主夫妻と、冷静に状況を見ているだろう偽小姓とシャルドネ嬢、そして野生の勘でかわずかにみじろぎしたこいつ。僕を含めても手の指で足りるとは、嘆かわしいな。
「いいや、お前の印象は随分変わったように見える。女性と談笑しているだけでこれほど嫉妬されるとはね。驚きのあまりグラスを取り落とすかと思ったよ」
「いいえ、嫉妬などではございませんよ」
じじいに向けて挑戦的に微笑んで見せる。
「大事な婚約者だと皆様に一目で分かっていただきたく、少々無粋な真似をいたしました。僕が彼女を連れて来るのが遅くなってしまったせいでこれほどの方々にわざわざご足労いただいたわけですから、どれだけ大切かを是非直に感じていただきたかったのですよ」
「そのためには貴族としての礼をも破ると?」
「王家の御前でもない私的な催し物でございますし、時にはそのようなことも必要かと。現に言葉よりも伝わったかと思われます」
彼女以外とは番にならない、と暗に告げたことでざわめきが生まれる。
「以前のお前はそんなに派手ではなかったように記憶しているがね」
「そうですか。では長年のお傍に仕えさせていただいていることで主の影響を受けたのかもしれません。確か、僕を殿下のお傍に置いたのはお祖父様でしたね」
主が自分の婚約者選定の場でマーガレット嬢に愛を誓ったことを知らない者は、この場にはいない。
周囲のざわめきと対照的に静かに笑った男は、こつこつと杖の音を響かせながら僕の眼前まで移動し、エルに視線を落とした。
「なるほど、愛らしい華だ。私がお前でもそれだけ大事にしたくなるかもしれない。だが、美しく咲く華ほどあっけなく散り、手の中で温めていたものほど、思いもよらぬことで壊れるものだ。私もいくつもなくしてきたからね、その辛さが想像を絶するものだと知っている。――その華とて、いつ雨に打たれ萎れるかもしれん。いつ誰に手折られるかもしれん。遠くに咲いた華をどう育てるつもりかな?」
アルコットの血を誰よりも重視し、その中でも能力に秀でた者を愛でる男は、凡庸な弟と比べられないほど優秀で聡明な母が女として生まれたことにひどく嘆き悲しんだという。
だけど、それは道具が不良品だったことを悲しむ感情だろう?そして、母を壊したのはお前だろう?
生憎、僕はこれがお前の言う「不良品」だということくらい分かっている。不良品だと分かっていて懐に入れた。
「元は遠くに咲いた華ですが、今は僕の手の中にありますよ。どんな天候からも、いかなる無粋者の手からも、僕が守り抜きましょう。そして、僕の手で、それまでよりももっと美しく咲かせます」
大事にするということは、すなわち弱点になるということだ。シャルドネ嬢に警告された通り、こいつはエルの命を狙うだろう。
じゃあ、お前の一番大事なものと引き換えにすると言ったらお前はどうする?それでも表立って暴れることができる?
「仰る通り、大事なものを失ったときの空虚な感情は想像以上でしょう。将来彼女が失われたとき、僕はショックで物が喉を通らなくなるかもしれません。今あるなにもかもを捨てて、彼女の面影を追い求める亡霊のようになってしまうやもしれません。その時までに次代が生まれるといいですね」
目の前の男は優秀だ。凡庸な当主を傀儡にして、僕をここに縛り付け、思うように動かそうとし、それを成し遂げるほどには全てを有している。
が、こいつだって勝てないものがある。歳だ。
魔術に秀でたアルコットの血を狂うほどに愛し、地位と身分を追い求めるこいつにとって、優秀な次代は不可欠だ。
裏でどれほど女性を宛がっても子をなさない当主は種馬にはなりえない。
親族には他にも若い男はいるが、数十年前と比較して魔力が薄まっていく自然の摂理に逆らえず、アルコットの名を負うにふさわしい者はいないし、絶大な力を有する先祖返りが生まれる可能性も限りなく低い。男の養子にとり、アルコットの女性を宛がうのはどうかと考えたとしても、手を回して養子にとれるほどの地位の人間で、僕以上に優秀な同世代はいない。
自分の子を新たに作るのも可能だろうが、僕以上に優秀な駒に育てるまでは生き永らえられないだろう。
一方の僕は、この男がちょっとした気まぐれと欲で押し付けたちっぽけな機会を最大限利用した。
こいつが予想していた以上の成果と実績を上げ、危険視され王家から離される前にフレディの傍付きと要職を得た。第二王子の傍付きや宰相補佐は王家からの任命職だから、こいつに奪う権限はない。安全圏に避難し、そこで自分だけの確固たる地位と能力と価値を身につけ、独力で爵位を賜れる程度の功績はあげている。
アルコット家から放逐された場合、多少の痛手にはなるが、それだけだ。能力と築きあげた地位でなんとでもなる程度に僕の中で「アルコット嫡子」の地位は小さくなっている。つまり、僕の側の不利益は小さい。
反抗的であることを除いた僕の価値はこいつが一番よく分かっている。こいつにとっての僕の価値の程度は、瀬戸際にいたるまで母の身柄を引き取り、母の生活と引き換えに僕をアルコットに縛り付け、反逆を封じていたことからも証明できる。
この男にとって、母は僕を縛り付けるための道具だった。だから、全く異なる理由ではあるが、僕だけでなく、この男も母の命を長らえさせるため、手を尽くしていた。
が、それでもなお母を救う手段はなかった。となれば母はこの男にとって用済みだ。
今のこの男に、血を分けた娘が亡くなることを悼む気持ちなどありはしない。
あるのは、僕を閉じ込めていた檻の鍵が、あと数刻で消えてなくなることへのわずかな焦りのみ。
その状況下で降って湧いたのがエルだ。
目の前で、恥よりも外聞よりも上の存在だと見せつけた、僕にとっての弱みを前に、お前が計算することなんて読めている。
僕をしばらくの間再びアルコットに閉じ込めておけるという一定の価値を持った材料が思いもよらぬ形で落ちてきた。
そいつが好都合なことに、脆弱な存在であるとなれば、どれだけ癪でも、飛びつかない手はないだろう?お前は僕の策略に乗ることへの怒りや屈辱すら堪え、理性と計算づくで、表立ってエルを消すことを頭から消すだろう?
時機を見ていたのはお前だけじゃない、僕だってそうだ。僕そのものが、お前にとって、代えられない価値になるまでずっと堪えていたんだ。将来の礎を築きながら、それを生かせるほど僕の余命が長くないことを誰にも悟られないようにずっと息を潜めてきたんだ。
お前は、アルコットという血と名を重視するがゆえに、僕を捨てられない。
お前は歳を取り過ぎたんだよ。
予想通り、じじいの眉間の皺がわずかに深まったので、僕は勝機を確信した。
「――まぁこれほどの仲ですから、彼女となら貴方様が望んでいる次代の誕生も早いのではないでしょうか」
押して、押して、窮地に追い込んだところで、引く。最も有利な条件を引き出す鉄則だ。
「――ほう。彼女はこれからのアルコットの家にとっても大事な、守るべき華になるというわけだ。息災であることを私からも祈ろう」
目の前の老人は、致死の毒を盛った上で、さも本心からの発言であるかのようにエルに微笑みかけてから、目の奥に怒りの炎を燃やしつつ、僕の横を通り過ぎる。
僕の真横に来た時、その場で誰にも気づかれないほど小さく口を動かし、ぼそりと言った。
「母の死さえ好機とするところは、さすが私の孫だ。あの不出来な娘の残りの時間に心躍らせながら、死の床についたあれを見送るといい」
一番言われたくない嫌味は目を閉じて涼しくやり過ごしてやる。どんなに腸が煮えくり返ろうと、負け惜しみに反駁して台無しにする愚か者ではないんだよ、僕は。
この世で最も憎い仇は主賓であるシャルドネ嬢にわずかな挨拶を述べ、歳を理由に先に退出した。
※ 小姓に素敵なイラストをいただいております。前回くださった方、そして今回くださった方お二方ともから公開の許可をいただきました。
さらに!なんと!もう一枚ずつ描いてくださった(!)ので、私の準備が出来次第、活動報告の方にURLを貼らせていただきます。のちほどの活動報告ご覧くださいませ。
ありがとうございました!
※ 追記:2016年10月5日の活動報告にて掲載させていただきました。




