15 小姓の責任は重大です
声を失うっていうのは単なる比喩じゃない。本当に声が出なくなるんだ。
ある程度予想はできた結末だというのに、それでもポールさんの話を聞いた僕の全身の震えは止まらない。
ポールさんは、僕が絶句し、目を見開いたまま震えていることに気づくや否や僕に冷たい水を差し出し、それから僕の前で片膝をつき、深く頭を下げた。
「大変申し訳ございません。このような生々しい話を繊細な女性に安易にお伝えしたことをご容赦ください」
「お前が謝るべきはそいつじゃなくて、主人である僕じゃない?」
違います、僕がこうなっているのは、そういう、描写のせいではありません。
口を開く前に、ここにいるはずのなかった声が聞こえた。声だけで誰か判別できる、ポールさんにとっても僕にとっても主人にあたるその人は、いつの間にか部屋の入口あたりにいて、扉にもたれかかってこちらに――ポールさんに冷たい目を向けた。
「誰がそこまで話していいって言った?」
「申し訳ございません」
「お前、そんなことも判別できなくなったの?それとも、判別できてやった?主人の意思に背くなんて、筆頭執事にあるまじき行為だと思わない?」
「……覚悟はできております」
黒っぽい緋色――アガット色に金糸の縫い取りがされているフロックコート姿のグレン様は、いつもなら「邪魔」と切り捨てる大量の装飾品すら身につけ、一際麗しいお姿のまま、万人が見惚れる完璧な微笑を浮かべて優雅に歩み寄る。
「なんの覚悟?辞めるとか?そんなこと、アルコット当主である義父と支配者に人事を握られているお前の一存でできるわけがない」
「存じて、おります。この命を捧げることすらも許されておりません」
「そう、僕が死ねと命じない限り、お前には責任の取り方がない。お前の意思なんて、この家には関係ないんだよ」
床に這いつくばるほどに低く頭を下げる自分の実の祖父の目の前にやってきて、高みから睥睨するグレン様の目は人間味を感じさせないほどに尖っていて無機質だ。
「――しかし、あなた様はそれをご命じにならない」
「そうだよ。お前を生かしておくことが母上の望みだからね。責任も取れないやつが勝手なことをするな。――二度目はない。さっさとここから出ていけ。今、お前の顔は見たくない」
赤く燃え盛る炎の色の目が、その色に反して冷たくポールさんに向けられた後、興味を失ったようにふいとポールさんから外された。そして、ポールさんが部屋を出ていくのを背景に僕に移される。
ただの宝石のように感情を失くした目が、完璧に計算されて作られたような美貌が、冷たい言葉を吐く姿が、僕の目に映ったとき、僕の目の奥は一層じんわりと熱くなった。
怖いんじゃない。ひたすら、悲しい。
どうしてそこまで自分を一人で追い込むんだろう。孤独を嫌うくせにどうして真逆のことばかりするんだろう。
――グレン様にお仕えしてから今まで、時たま浮かんでは消えていった疑問の答えがちょっとずつ明らかになっていき、同時に、新たな疑問が浮かぶ。
一人でいなきゃいけない事情に囲まれ、一人で生きなければいけないほどに周りを奪われたご主人様の傍に、周囲の優しさと愛情に囲まれて幸せに育ってきた僕がいるのは、もしかしたら、それだけでいけないことなんじゃないの?
「あ……」
二人になった部屋で向かい合っても、何と言っていいか分からず、開いた口から無意味な音が漏れる。
――と、グレン様は僕の眼前までやってくると、そのまま手を伸ばして僕の鼻を思いっきり摘まんだ。ぎゅうと力いっぱい抓っているのか、指で挟まれているのに鋏で挟まれたように痛い。
「はひふふんへふは!」
「阿呆が、ない脳みそを回した結果自ら飛び跳ねながら崖に飛び降りるのと同じくらい明後日の方向に思考を走らせているから、身の程を思い知らせてやっているまで」
そう言ってなかなか離してくれず、ようやく離してくれた時には痛みが分からないくらいじんじんしていた。おそらく今、僕の鼻の頭は真っ赤だ。
「いっ、いたかった――――!」
「僕を高みから見下ろそうとしたことがどれだけ間違いだったか、分かった?」
「見下ろそうなんて考えてません。僕はただ――」
「知ってる?同情って、自分が同等かそれより高い位置にあるからできるものなんだ。永遠に僕よりも下に立つお前にそれをする資格なんかない。僕は、お前の泣き顔が好きだけど、同情や哀れみで流される涙なんかごめんだ」
心を読めると分かっていても、ちらと芽生えた感情を見透かされた動揺から目を逸らす。
「生憎、僕は父のことをほとんど覚えていないし、遠い過去の感傷に浸るほど暇でもないから、近い未来と現実だけで十分だ。僕ですらそうなのに、現実の問題の一つも満足に片付けられないお前にその余裕があると思うなんて、傲慢もいいところじゃない?」
う。確かに男装とか、傷とか、もろもろグレン様に隠ぺいを手伝ってもらっている現状、処理能力不足を追及されても文句は言えない。
「で、でも――」
「お前はどこもかしこも使い物にならないけど、他人の感情に感応されやすいどころか、他人が思ってもいないことに勝手に感情を動かされるところはほんと、最悪」
どこもかしこもって言うかな。僕だって少しくらいは他人(他動物)の役に立てることもあるんだぞ。
「情緒豊かなことは僕の美点です。それとも、使い物にならない小姓はいらないから改善しろ、と命じますか?」
「いや、改善したところで使い物にならないのは変わりない」
「じゃあなんでわざわざ仰ったんです。使い物にならないことを強調したいだけですか」
グレン様は、唐突に逸らしていた僕の顔を無理矢理勢いよくご自分の方に向けた。
首の筋が切れるかと思った。
「首がねじ切れます!」
「そのままもっと出来のいい頭と交換できたらよかったって思わない?」
「そんなこと思うもんですか、僕は今の僕の思考がいいと思っておりますから」
「お気楽で能天気で危機意識に欠けるアホさ加減の有用性を感じたことは一度もないけどな」
「グレン様がそうだからこそ、小姓の僕がこれくらいでバランスが取れているんじゃないですか?」
「それでいい」
「――は?」
ご主人様は突然、満足げな笑みを浮かべた。さらりとした薄いトパーズ色の髪が、首の動きに合わせてさらりと揺れる。
「何もできないくせに、僕の小姓だって無駄な自信で胸を張るお前は、見ていて楽しい」
「僕は、小姓失格、最低レベルじゃなかったんですか?」
「そうだよ。それでも僕は命じ、お前は自分の意思で受けいれた。『エルドレッド』としても『エレイン』としても僕に忠実であろうとするお前の意思をこの僕が生ませたってことは、なかなか興味深い」
グレン様が僕の長く背中を流れる直毛の金髪に触れた。もちろん、僕の髪と言っても、地毛ではない。これこそがナタリアの最終兵器、かつらだ。
女性は長い髪を持つのが常識なんだから、僕の髪が短いせいで余計に女性っぽく見えないんじゃないかと、聡明な彼女は気づいたのだ。姉様が長く美しい蜂蜜ブロンドを持っていることは有名な話だし、それならいっそと用意したものがこれ。
双子のもう一人の兄になっている「エルドレッド」は直毛だから、姉様のような緩やかなウェーブがなくてもいいんじゃないかと急遽思い立って用意されたこれをつけると、あら不思議。
僕と姉様は、目元だけはそっくりなので、ばっちり姉妹に見える。
あの淑女の手本の姉様に、だよ!本物の姉妹だと突っ込んだら負けだ!
その元を、化粧やら、コルセット矯正済みのドレスやら、装飾品やらで飾り立てた今の僕は、姿だけなら、(大人しめで淑女感に溢れる)グレン様の婚約者として呼ばれた男爵家令嬢の「エレイン」だ。
「エレイン」としてグレン様のお役に立とうと、最大限努力を尽くした結果が今の僕だから、どんな姿であれ、立場であれ、ご主人様に一番であろうとしていることは事実……かもしれない。
「これは別に……今日、あなたの婚約者を務めることは約束ですから」
素直に認めるのが悔しいような、恥ずかしいような心持ちで目だけ逸らすと、グレン様が僕のセットされた髪を壊さないように軽く僕の頭に手を置いた。
「お前を泣かせるのは、お前の命も身分も掌握してる僕だけだ。僕がそうしたいと思ったときだけ。だから、僕が意図しない時に勝手に泣くな」
その笑顔は先ほどよりももっとずっと人間味があって、楽し気だった。
僕の気持ちまでこの人に掌握されるつもりはさらさらないけれど、この方にはそういう顔で笑っていてほしい。できれば、この先も、ずっと。
「通常運転でへらへらしてるお前を苛めて僕の手で泣き顔を作るのが最高に楽しいんだからね」
「元々壊れていた頭がついに修復不可能なほどになったんですね、それは幸先の悪い、残念なお知らせで――いひゃいー!」
「くだらない口を含めて動かすな。これが千切れたら一生僕の下僕だよ」
首元に走る電流に似た痛みに悲鳴を上げた僕への理不尽な命令が下る。
「下僕なら今もそう変わらないですよ――って、うん?」
一瞬痛みがあった首元には、今は痛みの代わりになにか少しだけ重く暖かい感触がある。
いつも視界の隅に見えるが現在は兄様が使用中でお留守の赤い首輪の代わりに、同じ場所に銀色と赤いルビーのような何かが見えた。
が、これ以上は見てはいけない。見たら高価すぎて目が潰れる。
「こ、こ、こ、これは一体?」
「ふぅん?お前でも感じるものはあるの?」
「今僕が身につけさせていただいている他の高価な装飾品と比べても段違いだということくらいは察しました」
「それは、僕が手ずからつけた、アルコット家の妻が代々継いでいる今は母上のネックレス。その意味くらいは分かるよね?」
「自分の首を切られてもこのネックレスを死守しなければならないということですね、分かりました」
首は、人間が反射的に守ろうとする傾向にある場所だし、僕も死にたくないから必死になる。もしこれを狙った不届き者が僕の首をちょんぱすれば血で汚れて価値が下がるだろうから、そんなことはしないだろうし、僕は脅しに屈して敵にこれを渡したりはしない。渡せば、首ちょんぱする相手がご主人様になるだけだと十二分に分かっている。
ありうる危険は、拉致されて一時的にか永遠にか眠らされた場合のみ。
つまり、拉致されるな、殺されるな、眠らされるなということだ。
考察に穴はない。なぜかご主人様にものすごい呆れ顔をされているけれど、どこも間違っていないはず。
「お前は本当に、本物の、真の阿呆なんだね……」
「心の底から感じたようにしみじみと仰らないでください。せめて冗談交じりにいつも通り仰っていただけた方が救われます」
「その間違いを一から叩き直したいところだけど、時間がないから今はいい。それを身につけたお前に母上が会いたがっていることだし、さっさとくだらない会を終わらせないとね」
「え?グレン様の、お母上?……実の、ですか?」
「うん。――会が一通り終わったら会えるように時間を作った。僕が合図したら、どんなに囲まれていてもどんな手を使っても連れ出すから、その空っぽな頭に詰めとくんだね」
「肝に銘じておきます。後で肝が盗られては困りますので」
「分かってるじゃないか」
他のどのご令嬢にも見せない挑戦的な素の笑みと共に差し伸べられたご主人様の白く美しい手を取り、その隣に並んで、僕も部屋の外に足を一歩踏みだす。
今日の僕は、「エレイン・アッシュリートン」。
グレン様の婚約者(仮・期間限定)として、いざ参る。




