10 小姓は教えに忠実なのです
僕がクッキーの欠片を詰まらせて咳きこんだ音を聞きつけ、部屋に付いている使用人の方々が僕のところにお茶を持ってきてくれ、それを一気に飲み干し、呼吸困難を解消する。
正直、僕は窒息には慣れているので、物を詰まらせるとか、気道を閉塞されたときの耐久力なら人より上である自信がある。こんなことに自信を持つようになってはいけないのは百も承知だ。
それより今この方はなんて言った?僕がグレン様の婚約者だって?
「仮に僕がグレン様と恋仲でもそれが無理なことくらいお判りでしょう」
「あの時は恋仲だとはっきり言っていたくせにここでは言い澱むんだな。その『無理』な理由は身の程を弁えての話か、それとも、違うのか」
「何の話ですか」
「心当たりがあるんじゃないか?」
キール様の目が一際鋭く眇められ、僕の頭にじんわりと汗がにじむ。さながら蛇に睨まれた蛙の気分だ。
この目といい、この質問といい、完全に疑われてるな、これ。疑われているどころかほとんど確信されているじゃないか。一体どうして?そんな大失敗を僕はいつした?いや、それより早くこの状況をなんとかしないと。
予想外の事態に目の前がぐるぐると回りかける。
ダメだ、一旦切り替えなきゃ。
「うりゃあ!」
僕は、部屋の隅に置いてあった台の上から冷たい水の入った水差しをひっつかむと、それを頭からかけた。そして水滴が周りに飛び散らないうちに服の濡れごと蒸発させる。この作業はグレン様の毎日の寝起きでやっていることだから僕にとってはお茶の子さいさいだ。
あ、日ごろの教え通り動いただけで、別に狂ったわけじゃないよ。
「時間に余裕ができれば心にも余裕ができる。直ぐに対処できないなら時間稼ぎくらいできるようになれば?どんな場面でだって、焦っているときに生まれるものなんて何もないんだよ」
グレン様の小姓になって初めての朝、今となっては自動で対応できるほどに慣れたあのお目覚めの時の突然の火球攻撃を初めて体験し、見事に焼かれるという洗礼を受け、鎮火と手当てに必死になる僕を見て、笑い過ぎて目に涙を浮かべたグレン様が言ったことがこれだった。
「ご自分でその状況を作りだしている事実とこの痛みと怨みを遠くお空の彼方に放り投げられれば、グレン様もためになることを仰ることがあるんだなぁと感動できるほどのご立派なお教えですね」
「たまには?僕、ためになることと本当のことしか言わないけど。あぁ、そういう意味でなら訂正しなきゃいけないかな。他人が焦って必死になっている滑稽な姿は、僕のこれ以上ない娯楽にはなってくれる」
「総合評価では最低な人間に変わりないということも確認できましたありがとうございます」
「いいことを教えてあげたのに。人の親切を無下にすると痛い目に遭うって知らないの?」
「それは比喩ですよね」
「それが比喩かどうかはこれから身をもって知るといいよ」
有言実行とはまさにこのこと。ご存知の通り、その後は常に闘いの日々だった。グレン様の(お仕置きを除いた)僕への特訓という名の嫌がらせは、不意打ちと隙を与えない猛撃ばかりだったし、会話だって、取れるときはいつでも揚げ足を取ってくる。言質をとられて苦しい思いをしたことなんて数限りない。数えようと思ったらムカデを数十匹連れてこないと指が足りない。
そんな日々を過ごしておよそ二年。
僕はどんな場面であれ、「なんとかして時間を稼ぐ」という手段を体に染みつけられた。そうしないと生きていけなかった。
こんな時にもグレン様の虐め兼教えが役に立つなんて、とっても腹立たしいが、お教えは間違っていないので助かった。
僕の予想外の行動に目を丸くして言葉を失うキール様を前に、僕はご主人様のお教え通り、(グレン様曰く)なけなしの脳みそを復活させる。
一番簡単な答えは、当たり前ながら、冷静に「いいえ」もしくは「何を仰っているんですか、僕は男です」だけど、学園に男として通う僕にあえてこんな質問をしている時点で少なくとも何かしらの疑いを持っている。疑いどころか、この感じならほぼ確信しているんだろうから、嘘をついても見抜かれるだろうし、迂闊な返事をしても追及されそうだ。
例えもう確信されていようとも、僕の口からそれを肯定する発言をすることは許されない。それは、僕が個人的に困る以上に、グレン様を裏切る行為だからだ。
命を握られているという事実がなかったとしても、小姓としての矜持にかけて、主人の秘密は守る。
この人はグレン様が能力を認める相手で、僕よりは絶対的に頭の回る人だから、言葉や表情のほころびを見つけられたら終わりだろうことは火を見るよりも明らかだ。一方の僕は、頭部透明人間とバカにされるほど隠し事や嘘が大の苦手。こうなったら――
キール様が呆気に取られているそのわずかな間に、僕はつかつかと皿まで進み、目の前にあるクッキーを一気に掴むと、それを全部口に放り込んでもしゃもしゃと咀嚼した。
もったいないことをしたが、仕方がない。
名残惜しい想いはあるが、美味しいクッキーをさっさと飲み込み、胸を張って、宣言する。
「最初のご質問ですが、小姓として主人の情報をむやみに明かすことはできません。というわけでして、残念ですが、それがクロフティン様の伺いたいことなら、これ以上美味しいお菓子をいただくことはできません。帰らせていただきます」
僕の行動に、キール様は再び絶句し、なぜか長い間を取ってから大きなため息をつかれた。
「……食べた後に言うな」
「目の前に出された後の高級菓子がむざむざ廃棄されるのを見逃すわけには参りませんので、クロフティン様にとってゴミ箱と同じところに収めたまでです」
「それだけ分かっているなら、菓子は礼だと言ったことも覚えているだろう。礼の前提を放棄する気か?」
「差し上げたのは、『僕の時間』です。これだけ美味しい物をご馳走くださるのですから、僕も誠心誠意そのお心に感謝を捧げようと思っておりました。例え、僕の苦手科目の点数遍歴でも、これまでにあった一番恥ずかしかったことでも包み隠さずお答えするつもりでした」
「ゴミ以下の情報だな」
「僕にとっては名誉と尊厳にかかわります。……ですが、例え僕の持つ情報でも、ご主人様に関するものは差し上げられません」
挑むようにキール様を睨みつけると、キール様の方は少しだけ考えるように間を置き、親指で後ろを指さす。
「貴様は甘い菓子が大の好物らしいな。菓子ならまだあるぞ。今日は牛の乳から作った濃厚なアイスの上に温めたチョコレートをかけ、酒に浸けたチェリーを載せたこの店の一押しの品などはこれから用意させる」
キール様がちらりと店の奥に目をやると、少し開けられたドアからふわっとチョコレートの香りが漂ってきて、使用人の女の人がケーキがたくさん積まれたカートを押して入ってくる。
次々とやってくる美味しそうな子たちが僕を呼んでいる。これを逃したら一生機会はないかもしれない
――でも!誘惑になんか、負けないんだからな!
「グ、グレン様は、僕個人のちっぽけな可愛い欲望よりも優先すべきものです」
切実な欲求なら僕の方が大事ですけどね!例えば生存本能とか!
――と心の中だけで追加し、僕が顔を運ばれてきたケーキ類からぷいっと顔を背け、目を固くつぶって誘惑を視界にいれないように注意して言い切ってから、出口の方に行こうとすると、「待て。待たないと首輪に縄をかけるぞ」との声がかかった。
「僕は犬ではありません」
「犬とさして変わらないだろう。吠え、走り、物を取ってくる程度のことしかできない能無しであるところも、深く考えもせずに主人に忠実であることを仕込まれ、尻尾を振るところもそっくりだ」
「そこはかとなく馬鹿にしきった口調ですが、彼らは頭がいいんですよ?一度嗅いだものは忘れませんし、勇猛果敢ですし、警戒心を忘れません」
「なるほど。無駄に賢ければ反抗も嫉妬も抵抗もするからな、洗脳しやすいやつの方がやりやすい。グレン様のことだ、どういう仕込みをするかまで考慮したうえで貴様を小姓にされたに違いない。本人の能力値の低さは目を覆いたくなるほどだが、一応自分の欲求に打ち勝つ程度には忠誠心があるらしい。足し引きすればプラスになると一目で見抜かれるとは。さすがグレン様だな」
「僕をこき下ろしながらグレン様狂信者っぷりを発揮されるとは、クロフティン様もさすがですよ。僕、帰っていいですか?」
「グレン様は既存の概念にとらわれない。女性を官吏登用させることを推して実験的に学園に女性講師をいれた発想と手腕などどれだけ驚かされたか。俺にはまだまだ足りないところだ。やはり学ぶべき点は多いな……」
思いもかけない情報に、キール様への抗議を一瞬忘れた。
今年から学園の基礎課程の植物学と歴史学に女性の講師が試験的に導入された。
多かれ少なかれ魔術に触れることになる公務に就かせるためには、女性に専門的な魔法の使い方を教えることが必要になり、それが貴族男性の特権を失わせ、今後の権利意識の拡大や内乱に繋がりかねない――そんな身勝手な理由で女性が公務に就けないということがこの国ではまかり通っている。
宗教上も、慣習上も常識だと思われていることを覆すのは難しいと昔父様が言っていたけれど、その通りで、貴族男性は、僕のような特殊な一部を除けば、女性もこのことに大きな不満は持っていない。
そんな現状で、王家の女性を護衛する関係で例外的に女性登用を認めた騎士と並ぶ例外が、今回の女性講師の採用だ。
学園での講義は準公務にあたるので、これまで強行な反対を受け実現していなかったことだったのに、それが通った経緯には、グレン様のお力添えもあったのか。
「あれはグレン様が中心となって推された案なのですか?」
「もちろん会議にはかけられているし、陛下の許可もお取りになっているが、反対派を黙らせた立役者はグレン様だ。あの方がどういう理由でこれを推し進めたのか、俺は知らない。が、この結論自体は俺は支持している。今後、魔力を有する半数近くの者が使えないまま無駄になるのは国家の損失だからな」
キール様がちらりと意味ありげな視線を僕に送ってきたので、流れたはずの話題が蒸し返されるのか!?と僕も臨戦態勢を取る。
が、キール様はふっとそこで視線を僕からずらし、独り言のように呟いた。
「グレン様は凡人には見えない先の先まで見通して行動されるお方だ。三日後のそれについてのグレン様の判断も何か深いご理由がおありになるのだろうな……」
あの方が僕を婚約者(仮)にした理由は、使い勝手がいい下僕を苛めて嗜虐趣味を満たすことにあると思います。
「グレン様の御心のため、そして貴様の犬精神に一定の敬意を表し、俺から一つ忠告だ」
キール様がソファに座り直し、僕と正面から目を合わせた。
「本気でグレン様の婚約者になりたいのなら、当日、ナーベラ公爵家のシャルドネ様に気をつけろ」
「シャルドネ様……?それはどうして――」
「それくらい自分で考えろ馬鹿者」
「だったら『男の』僕に話してどうするんです」
「……と、お前の妹だか知り合いだかに伝えろ」
しぶとい、と言わんばかりの表情で顔を顰めたキール様は、面倒くさそうに付け加えた。




