7 小姓は姉様が大好きなのです
グレン様のお屋敷に着いた時、僕は、全力疾走した後のように疲弊していた。少なくとも一時間は本気で走り続けられるくらいには体力をつけたはずなのに、こんなに息切れするなんて。日ごろ酷使され過ぎた心肺機能が衰えてきたんだろうか。もしあれが新しい心臓特訓法なんだとしたら、僕は一生グレン様の裏なんてかけないと断言できる。物理的に火に追い掛け回される方が精神衛生上はありがたかった。
「到着いたしました」
御者のおじいさんの声に、呼吸も整わないままに馬車のドアまで向かう。小姓である以上、馬車から先に降りてご主人様の手を下から支える必要があるのだ。
だが急がば回れとはよくいったもので、僕は、おじいさんが出してくれた足台を急いで降りようとした挙句、段差を踏み外し、後から降りようとしていたご主人様に襟首を掴まれて支えられる羽目になった。
支え方がまるっきり犬や猫へのそれでどこかほっとする。
「ありがとうございます」
「たった三歩の段差でまでターンの練習?練習熱心だね」
「はは、あまりに短い時間で大役を仰せつかったのでいくら練習しても足りないんです」
「その成果、後で楽しみにしてるよ」
悲しいかな、このいつも通りの呆れ切った目と痛烈な皮肉のおかげで心臓が平常の鼓動を取り戻していく。
大体だ。グレン様があんな風に優しい顔して、その……ほ、ほっぺたを撫でてこなければこうはなっていなかったんだ!もう!優しいグレン様なんて反則だ!
「兄上様、どうかされましたか?呼吸が荒いようですよ?館までの道もグレン様に支えていただいた方がいいのではないですか?」
ぐっすり寝ていたはずなのに、ヨシュア君の顔には涎の痕も目ヤニもない。円らな瞳はぱっちりと開いていて楽し気に生き生きと輝いている。
「ヨシュア君、寝てたんじゃないの」
「僕は義弟として兄上様のお幸せを心からお祈りしつつ、微力ながら全力で応援したいと思っているだけです」
「グレン様のところに追いやられることを幸せと思っているのなら一度ならず何度でも代わってあげるよ?」
「グレン様の下に僕が行ってもまるで意味はないでしょう。兄上様でないと」
「なんかさっきから意味ありげだけど、一体何なの――」
「足の短い者同士でぐずぐずするのは構わないけど、扉は閉めさせるよ」
「はぁい!ただ今参ります!」
とうに姿が見えなくなっていたグレン様の面倒そうな伝達魔法が届き、僕はヨシュア君との問答を辞めて屋敷に向けて足を急がせた。
グレン様のお屋敷に入ると、主人であるグレン様、その小姓である僕、そして客人であるヨシュア君の元に使用人の皆さんが集まって来て当然のように上着を預かってくれる。ずらっと並んで頭を下げるその間を通り、客間に迎えられた。
客間は予め人払いが命じられていたのか、使用人の人数は限りなく少なく、その人たちも、グレン様が入った時に、例のおじいさん以外退出した。
『エル』
「姉様!」
客間の奥、豪奢なソファから立ち上がり僕に微笑んでくれるのは、会いたくてたまらなかった姉様だ。
僕と唯一そっくりな深いコバルトブルーの瞳を細め、こちらに腕を差しだしてくださる姉様が見えた途端、僕は貴族としての礼儀もなにもふっ飛ばして奥に走り寄り、その華奢な体に抱きついて姉様の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
もちろん抱きつく勢いは加減して、細く折れそうな体には配慮してますよ。僕の周りの体格のいい男どもと同じ扱いをするはずがない。
「グレン様、兄上様を止めるべきでしょうか?」
「好きにさせときなよ。あれだけ潔く貴族の概念を放り捨てられたらどんなに幸せだろう、と夢想する格好の材料だと思えばいい」
「は?はぁ……」
グレン様が許可をくれたのを耳だけで確認する。よし、事後承諾はもらった。姉様の腕の中を堪能させてもらおう。
「もうこんな機会はないだろうし、君も行って来たら?」
「でも、僕は……」
『ヨシュア、おいでなさいな』
僕とは違って礼儀を打ち捨てられないヨシュア君が、グレン様に勧められ、その場で敷き詰められた絨毯に目を落とすと、姉様が僕から少しだけ体を離して微笑まれた。
ヨシュア君は、姉様に手招きされて遠慮がちに近寄ってきたはいいが、姉様の手の届く少し前辺りで再び躊躇いがちに歩を止めてしまったので、僕が無理矢理一緒に抱き込む。
「うわっ!」
「なに遠慮してんの!ヨシュア君は僕と姉様の弟なんだ!遠慮することないんだよ!」
ヨシュア君と姉様をまとめてぎゅっと抱きつく。
十数年間、僕と兄様が独占してきた(まぁ兄様の方が卒業は早かったけど)この温かく柔らかい腕の中がとうとう殿下だけのものになるのかと思うと、少し腹立たしくて、なんだか無性に寂しい。あー殿下がいらっしゃらなくてよかった。
「あ、兄上様!お気持ちは分かりました!分かりましたからお放しください!」
『ふふ、エルの場合は男の子じゃなくても兄になるのよね』
「うん!面白いでしょ」
「呑気な会話どころじゃないです!僕は生物学上も男ですのでっ!兄上様とは違うんです!」
「お、そっか。ヨシュア君も立派な思春期の男の子だもんねぇ」
「それ以上は言っちゃだめですよ!」
『ふふ、照れちゃって。ヨシュアは可愛いわ』
「姉上様……僕はこのままだと殿下に厳罰を下されてしまいます……グレン様にもです……」
ヨシュア君が、僕と、特に姉様から体を離し、げっそりとした様子で呟く。
ヨシュア君にとって姉様は母代わりだろうけど、共に過ごしたのはたった一年で、血の繋がりなんて全くない。それに姉様は華奢で可憐なお体に見合わないスタイルをお持ちだ。健康な体を持った年頃の男の子には少々刺激が強かったんだろう。悪いことしたなぁ、完全に忘れてた。ちなみに僕自身はそういう事情に理解のある姉だから気にしないよ。
場の主たるグレン様は、腕を組んで僕たちの様子を大人しく観察していたみたいだが、ヨシュア君が蒼ざめると、その不安を鼻で笑い飛ばす。
「フレディはともかく、僕は何もしない。あのネズミを抱きしめているときと同じと直ぐに分かるからね」
「兄上様の方は……僕の時は動揺されていないというのが唯一の救いだと分かるくらいには僕は弁えております」
「それが賢く生きる方法だよ」
何を当然のことを言っているんだろう。ヨシュア君は(純粋無垢とまでは言えないけど、それを引いても)普段からいい子なんだから、グレン様と違う反応になるのは当たり前だ。
グレン様の場合、普段行動が嗜虐趣味で占められているからこそ、砂山の砂金レベルで垣間見える無償の優しさが際立つんだ。
誰だって、岩だらけで草一本生えていない山の頂上を歩いているときに泉を見つけたらびっくりするでしょ?あれと同じだよ。多分。
「グレン様はお心が広くていらっしゃいますわね」
姉様の侍女になり、見せかけ淑女具合に磨きのかかったナタリアが、ふふ、と笑いながらグレン様の前に進み出た。
それは違うぞ、ナタリア。グレン様の懐の広さは、グレン様の評する僕の脳みそレベルだぞ。獣と見下しているはずのチコと縄張り争いなんてしょっちゅうなんだからな。
「それはそれは。エルとは違う反応をありがとうございます、ハットレル男爵嬢」
「よろしければナタリアと名でお呼びくださいませ。面倒でいらっしゃいますでしょう?」
「では遠慮なく。マーガレット様もナタリア嬢も不自由なく過ごせておりますか。何かあればいつでもどうぞ」
「もう十分なほどですわ。主人も『お邪魔しております。このたびはこのような機会を設けて下さり、ありがとうございます』と申しております」
「主の婚約者様からのお言葉、ありがたく拝聴いたします」
グレン様は姉様に向けて臣下の礼を取り、姉様も微笑んで淑女の礼を返した。
グレン様は上位侯爵家のご嫡男だから、殿下の妃となった後の姉様ともそれほど大きな身分差が生まれるわけじゃない。が、それでも臣下になるので、少し下の立場に立つことになる。そして、謙虚だが自分の置かれた立場を正確に理解しておられる姉様も、こうやって上位の身分の挨拶を自然に返されている。
姉様は本当に雲の上のお方になられるんだな。
僕は急激に心細くなって姉様の絹で作られた上等のドレスにぎゅっとしがみついた。
もし姉様が僕たちと同じくらいの身分の人、どこかの男爵家の次男や三男とご結婚するのなら、もっと頻繁に会えるし、こうして今まで通り接することも許される。
けれど、このままの何の妨害もなければ、姉様は第二王子妃になる。そうなれば、身分の差は段違いどころか山違い。これからの接見の際は、ナタリア以外の侍女や護衛の騎士様たちの目もあるだろう。次に会う時には、姉様は王家の一員だから、まず臣下の礼を取り、頭を下げたまま敬語を持って話し、基本的に目は合わせず、一定の距離を保って接しなければならない。
……僕が正当な王族であられる殿下に対してこういう態度で接していないのは例外中の例外で、あれは殿下が許可されており、かつ、人の目がないか、もしくはグレン様がそのイカサマな魔術で適当に誤魔化しているからできることだ。
僕たちアッシュリートン家は貧乏ゆえに使用人も少なく、家族同士の繋がりが強い家だ。多分、貴族としてはありえないくらい親密だと思う。幼い時分に母様を亡くした僕にとって、姉様は、姉であり母であって、たくさん甘えて、たくさん叱られて、たくさんのことを教えてもらった。
親離れできない子供と笑われてもいい。そんな姉様と、こうして触れ合える機会がこれで最後なんだったら、僕は後でどんなに笑われようと甘え尽くすつもりだ。
と、そこまで他人行儀かつ猫かぶりをしていたはずのグレン様が、無造作にソファに腰掛けると、少々くだけた調子で傍にいるナタリアに話しかけた。
「そういえばナタリア嬢。あのシュミーズはなかなかの一品でした。お手製と聞きましたが、よほどの才能がおありなのでしょう。生かせないままなのが悔しくなるほどです」
「あら、これ以上ないお言葉ですわ。こうしてエルのため、グレン様のために使えるだけで十分ですのよ。エルが着た姿をご覧になりましたか?」
「いえいえ、恥ずかしがってなかなか見せてくれないのです」
……ちょっと待った。
「グレン様、語弊を生むお言葉はいけません。僕は恥ずかしがってではなく、単に身の危険を感じるから逃げているんです」
「エル。だめじゃない、逃げちゃ」
「だってグレン様が試着だって言って僕の服を脱がそうとするから!これは逃げるしかないじゃんか」
「グレン様御自ら?ふぅぅぅん」
ナタリア、淑女仮面が剥がれてるよ。獲物を見つけた目で僕とグレン様も見比べるのはやめよう。女の子たちが喜ぶ甘ったるい話はないよ、もっと殺伐としているよ、食うか食われるかの世界だよ。
僕がさりげなく姉様の陰に隠れてその視線から逃れると、今度はグレン様がにやりと笑った。
「まぁある意味、食うか、食われるか、だね。女性に下着を贈って受け取ってもらえたら了承って常識じゃない?」
「こんな時に限って心を読むとか、あなた様こそデリカシーという大事なものを身に着けてくださいませ」
大体、誰が受け取ったって言うんだ。あなたが押し付けたんでしょうが!
「エルだって分かってるくせに。それとも何への了承か分からないの?」
「ナタリア、面白がってあえて言ってるよね?ね?怒るよ?」
「あらあら怖ーい。それはさておき、着てみてどうだった?あれ、胸のところを盛りに盛ってウエスト部分を絞っているから、多少重くて窮屈に感じると思うんだけど、あれでも緩い?上にコルセットをつけることを考えて仮縫いにしてあるから、今日最後の調整と本縫いをするわ。もう一つついに完成した秘密兵器もあるし、手早くいけるところは手早く――」
「あ、ごめん。忙しくてそれどころじゃなかったからまだ着てない。女だってばれたら大変だから、なかなか着る場所もなくて――」
途端にナタリアの目が研ぎたての刃物のようにぎらりと光った。今度こそ、立派な猛禽類の目をしている。本能的に逃げ隠れようとしたところ、素早く近寄られて、淑女らしからぬ強さでがしりと肩を掴まれる。
「ドレスも肌着も化粧も髪結いの道具もそして昨日完成した秘密兵器も本人も、必要な物は全て揃ったわ。さぁエル、思う存分、じっくり試着をしましょう?」
ナタリアがにっこり笑って、有無を言わさず僕を引っ張って隣の小部屋に移動した。
拒絶したら、きっと頭からバリバリと食べられちゃうんだろうなぁと分かるくらい、凄みのある笑顔だった。




