5 小姓は弟と絆を深めます
二話分の長さになりましたが、切りどころがなかったのでそのまま掲載します。
天気は晴れ。曇り一つないいい天気だ。なんて素敵な天気だろう!今日の僕の心の中のように晴れやかだ。今日は、僕の唯一のくせ毛である頭頂部の髪も変な方向に跳ねていないし、朝ごはんの目玉焼きの黄身も大きくて、とてもまろやかな半熟具合だった。調子は絶好調だ。
きっと今日ならグレン様にこき下ろされようが、大きめの焼き菓子をヨンサムに横取りされようが、危ないやつに邪な目で見られようが、はいはいといなしてあげられる気がする。
僕がうきうきと出かける準備をしていると、こちらも訓練に出かけるところであるヨンサムが、僕に声をかけてきた。
「お。朝からご機嫌だな」
「うん!そりゃあね!」
なんてったって今日は、待ちに待ったあの日。
「学生街のグレン様のお屋敷に行くんだっけか。グレン様の高級馬車に乗れるからってそんなに浮かれなくても」
「違うよ!そっちじゃない!」
ご機嫌の理由は、もちろん、女装できることでもない。
「今日はお忍びで学生街に来てくださってる姉様とお会いするんだー!もう二年ぶり!」
「へぇ、お忍びでマーガレット様と……って、それ俺に言っていいのかよ?」
「うん。殿下はこっちにいらっしゃるけど、グレン様がお傍を離れる分、イアン様と一緒に警護するのがヨンサムの今日の任務だって言ってたから、伝えておけってさ」
「グレン様の代理!?ってことは殿下の直属の護衛ってことだろ!?なんも知らされてねぇんだけど!」
「知ったらヨンサムが緊張しちゃうかなーって思って隠しておいた」
「隠しておいた、じゃねぇよ!」
「ちなみにね、学生街っていう目と鼻の先まで来てるのに、護衛の人数を最小限に絞った関係で同行を禁じられた殿下は今日、とってもご機嫌が悪いらしいんだ。何するか分からないから気を付けてね」
「……やべぇ。腹痛くなってきた」
ヨンサムが不浄場に向かいかけたとき、こんこん、と部屋のドアがノックされ、まだ子供であるとはっきりと分かる高めの声が僕を呼ぶ。
「兄上様、用意はできましたか?」
「うん、開けて開けて。入っていいよ」
「ヨシュア・アッシュリートンです。失礼いたします」
ためらいがちに細く開いたドアから覗くのは、お日様に近い黄色の円らな瞳。僕を兄と呼ぶのは一人しかいない。僕の義弟、ヨシュア・アッシュリートン君だ。
ヨシュア君は先日の年明けで14歳になったばかり。これでもマグワイアの手を逃れ、アッシュリートンに養子に来たときよりは頬もふっくらとして、腕にも足にも肉がつき、健康的な血色になった。が、まだまだ男の子としては足りず、僕以上に女の子らしく見える。僕よりも小柄で華奢な男の子なんて、入りたての新入生を除けば、この学園にはこの子くらいしかいない。
ドアをそっと開けて、静かに入ってきたヨシュア君は、蒼ざめ気味のヨンサムに挨拶している。対して、それどころじゃなくなったヨンサムの方は、「エルをよろしく頼むな」と爽やかな笑顔を浮かべると、すぐに不浄場に駆けこんでいった。
現五年生騎士課で随一の実力者が、その勇ましい背中を丸ませて、みっともなく不浄場に逃げ込む姿にはなんとも言えない哀愁を覚えるなぁ。誰のせいだとかは言っちゃいけない。
「セネット様、どうされたんでしょう?大丈夫でしょうか?」
「平気平気ー。騎士になるなら今のうちに慣らしておかないと。あいつ、王家の方の御前とかになると異常に緊張するんだもん」
部屋を出て、ヨシュア君と軽口をたたきながら、グレン様のお迎えに向かう。
今日の僕の試着会はアルコット家の別館で行われるので、秘密裡に動かせる姉様の護衛としてグレン様が派遣されることになっているからだ。
と、言いつつ、グレン様の真の目的が、今日完成されるナタリア渾身の僕の完全武装を笑いに行くことあることくらいは長年の経験で僕には分かっている。
「王家の面前となればそれが普通ですよ兄上様……」
「そうかな?ヨシュア君は二年前に王家や上位貴族の皆様が集う前でも堂々としてたと思うけど」
「あれは精神も体力も限界の状態でしたので考える余裕がなかったんです。元マグワイアのご当主様の面前でしたし」
「あ……嫌なこと思いださせちゃった。ごめん」
自分を長年虐待していた肉親、それも処刑された相手を思い出させるとか、何やってるんだ。僕、浮かれすぎだ。
僕が申し訳なさに肩を落とすと、ヨシュア君はいえいえと首を横に振る。
「僕、もう自分の家族はアッシュリートン家の皆様だと思っていますから」
僕の横を歩くヨシュア君は、そう言った後すぐに僕の表情を見て、一瞬でむ、と眉を寄せると、可愛らしく頬を膨らませた。
「あ―兄上様、疑われてますね。ほんとですよ?――確かに、引き取っていただいた直後は申し訳ないとか、僕が負担にならないようにしなきゃとか色々考えてました。それだけじゃないです。下手に出なきゃ不興を買って追い出されちゃうかも、とか、またあんな生活になるのは嫌だって思ってアッシュリートンの役に立とうと考えてました。僕、素直でもないですし、物事を打算で考えちゃうんですよ。可愛くないでしょう?」
「……打算的になるのなんて、当たり前だよ」
「はい。父上様もそう言ってくださいました。それを分かった前提で、『君の人生なのだから好きに生きなさい。私は君の父として、君が決めたことを応援しよう』と言われ、敬語だけ禁じられました。とはいえ、そう言われても、なかなか父上様を信じることはできませんでした。きっと僕のことをお荷物だと思っているんだろうとずっと疑っていました」
「うん」
ヨシュア君は、幼少期に恵まれた生活をしていなかった。そのせいで、僕以上に身体が発育不良で、それでいて思考は僕よりもっと大人だ。
他人の言葉を疑って、裏まで探ろうとして、でもそんな素振りは外に出さず、相手に気に入られるように顔色を窺う。気に入られるように立ち回ろうとする。
年の離れた義兄に虐待され、満足な教育も食事も与えられないという過酷な環境に放り込まれ、自分を守ってくれる人も、守る力も知恵もなかった幼い彼が、生き残っていくために幼心に必死で身に着けた防衛術だ。それを誰が責められるだろう。
「けれど、アッシュリートンの領地で、何を命じられるでもなく、どこに出かけるのも何をするのも何も咎められずに過ごすうちに、段々とこの方は本気でそう考えていらっしゃるんじゃないかと思ってきたんです」
「父様はそういう人だよ。そういう人じゃなきゃ、自分が常識外れの盗人になったりしないし、僕をこういう形で学園に入れないし、もう一人も好き勝手にさせておかないもん」
「えぇ、本当に。嘘だと思おうとするのに、僕の考えを否定する証拠しかないんです。姉上様だってそうです。こういう境遇なら甘やかな顔をされるのかと思いましたが、僕に勉強を教えてくださるときの姉上様は怖かったです」
「あぁーだよねー。姉様、容赦ないもん」
姉様は徹底された方だ。間違えて怒られたことはないが、その分、できるまでとことん教えられるし、妥協もされない。さぼった時なんか大変だ。あの美しい眉を悲し気に潜め、じっと見つめて来るのだ。
声が出ない分、手振りでその大事さを伝えられる。表情一つ、仕草一つに万感の思いが込められていることを思い返せば、なまじ怒られるよりもずっと効く。
「父上様も、姉上様も、僕の監視なんて全然しません。僕が間違っていたらきちんと怒ります。でも温かいんです。……実の子供でも兄弟でもない僕にそんな態度がとれることが信じられなくて、偽善に感じられて、苛立って苛立って……ある日、父上様に、僕を野放しにしていていいんですか、こんなに自由にさせておいて不安はないのですかと本気で迫りました」
「そっか」
ヨシュア君が入学したのは去年。12歳からの一年は、姉様と父様とアッシュリートンの森に囲まれた中で過ごしていた。その間、僕は学園にいて、兄上様は例の如く外を回っていたから、ヨシュア君がどういう気持ちでどう過ごしてきたのか、僕は何も知らなかった。
僕が実家に送る手紙にヨシュア君宛の贈り物をつけると、いつも丁寧なお礼の返事が来たから、とても素直ないい子で、平穏に過ごしているんだろうとばかり安易に考えていたけれど、彼の生い立ちや置かれた状況をよくよくきちんと考えれば、そんなはずはない。
きっと色々な思いをしながら、僕とは全く違う、濃密な一年を送っていたのだろうなと聞きながら思う。
「それで、父様は?」
「驚いていました」
「驚く?」
「はい。『野放し?私は君のことを見ていたつもりだったのだけど、野放しにされていると感じていたのかい?それは悪いことをした。じゃあこれからは私と四六時中べったりいようか』と言われまして」
なんとも父様らしい。
僕と兄様は、あの父様が頭を抱えるくらい色々なところに出歩いていたし、動物たちと危険な場所に潜り込んだりしていたんだから、きっとヨシュア君が出歩いた程度「そのあたりの散歩」くらいにしか思ってなかったんだろうな。
「父様にとっての『子供が自由に過ごす』は、僕たちのような暴れん坊を言うからなー」
「同じことを言われました。兄上様方は、父上様や姉上様の目をかいくぐることを至上の喜びとしていたと」
「かいくぐろうとしたわけじゃないんだけど……。あぁでも、嵐で雷がすごかった時に、木に登って感電した鳥を救助したり、川の中で溺れている子鹿を助けたりしたっけ。ずぶぬれ泥だらけで帰った時にはさすがに屋敷を抜け出したのがばれててさ、父様も顔面蒼白で、姉様には頬を張られたなー痛かったー」
「……なんだかそれを聞いてもっと納得しました」
あれ、ヨシュア君の視線が痛い。
「ごほん、とにかくですね、それ以来、『もうエルたちは拒否するからなぁ、私は寂しくて寂しくて……。ヨシュアのような寂しがりやがいてくれて私は嬉しいよ』と言いながら父上様がべったりと僕に構うものですから、とてもとてもとても鬱陶しくて」
「そういう時は脛を蹴るといいよ」
貴族の家庭はもっと寒々しいものだと聞くが、父様ははっきり言って子煩悩だ。
恋愛結婚で大事にしていた妻が早くに亡くなったせいもあるのかもしれないが、度を越えている。鬱陶しい時はひたすら鬱陶しい。
自領にいた頃の、稽古や勉強を教えるとき以外の父様の溺愛ぶりを思い出してげんなりしていると、横から真顔のヨシュア君の視線を感じた。
「――やっぱり、謝らないんですね。父がすみませんって」
「え?だって、父様はもうヨシュア君の父でもあるでしょ。だったら謝るの、おかしいよね」
「それです」
僕の答えに、ヨシュア君が、殿下のような圧倒される輝きとはまた違う、落ち着いた、秋の葉の色の瞳を細めてにこにこと上機嫌に笑う。
「本気で家族だと思ってくださらなかったら、きっとごめん、って謝られると思うんです。父上様も、姉上様も、兄上様も、皆さま、僕に遠慮がない。垣根がない。それを当たり前だと思っているって分かってから、僕、なんだか遠慮するの、馬鹿馬鹿しくなっちゃったんです」
「それはよかった」
「今の僕は僕の意思で、家族として、アッシュリートンの力になりたいんです。前と違って義務だとは思っていません。やりたくてやります。だから邪魔しないでくださいね、兄上様」
いたずらっぽくヨシュア君が笑う。この子のこの笑顔が見られただけで、僕は今日、こうして出かけることができて幸せかもしれない。
ちゃらんぽらんなときは本当にちゃらんぽらんだけど、父様、いい仕事してるじゃないか!
「まずは大きくならないと。これでももりもり食べてるんですよー?身長だって、一年で10センチ伸びたんです」
「おぉー成長期!」
「時間が経てば、兄上様よりも体つきも考えもしっかりするだろうと父上様が言ってました」
考えもしっかりするっていうのは余計だよ、父様!
「か、体はともかく、心と頭の成長は負けないから!」
「僕も負けません」
「ほんとにもう、父様は。僕だって、グレン様にぼろくそに貶されて、日々命を懸けた訓練で鍛えられて、精神的にも肉体的にも成長したんだよ?ヨシュア君からも父様にそう言っておいて」
「そうだ、兄上様。尋ねたいことがあるんですが」
「なに?」
「兄上様は、グレン様のことをどう思われますか?」
「え?グレン様?ドSで鬼畜で人を人とも思っていない冷血ご主人様」
「と、言うと思いました……」
大きくため息をついている意味は何だい?
「たまに小さじ一杯ほどの人間味や、爪先ほどの思いやりの欠片を感じることもなくもないよ?」
「グレン様の真のお人柄は、きっと一番一緒にいる、そして今後一生お傍にいる兄上様が一番お分かりになると思います。なにせ、小姓であり、夫人になられるのですから。病めるときも健やかなるときも一緒にいることが約束されたお二人です」
ヨシュア君、目を逸らしていた恐ろしい未来を言わないでおくれ。僕の私的時間は今ですら限界値までご主人様に食いつぶされているんだ。
……おや?
「あれ。よくよく考えたら、僕の婚約者代理はいつ終わるんだろう?婚約者選定会で発表された後いつくらいに解消されるのかな?」
「……グレン様が兄上様を捕獲した後に解放されることはないと思いますが」
「道具って、いつか壊れるんだよ……僕は耐久性も高くなければ用途も広くないよ……」
僕の呟きに、ヨシュア君がぱかりと口を開け、丸い目を更に丸くした。
「……まさか、兄上様は、グレン様が兄上様を道具だと思っていらっしゃると本気でお考えなので?」
「なんでそんなありえないという顔をしているのか僕には理解できないんだけどな?他の可能性があるなら教えてほしいよ」
「……グレン様が兄上……いえ、姉上様のことをどう想っていらっしゃるかを伝えるのも、姉上様のお気持ちを動かすのもグレン様がなすべきことですし、それについて姉上様がどういうお考えになるかはご自身が気づくべきところですので僕の口から言うことではないと判断し、割愛します」
「ちょ、ヨシュア君!」
姉上様連呼はまずいよ!ここまだ学園の中だからね!
グレン様の僕への想いは既に伝えられているって。あれだけペットって連呼されて気づかない方がおかしいよ。
それに対する僕の気持ち?――「僕は人間です」に決まってるじゃないか。
「そのあたりのお二方の認識のズレについては、今日いらっしゃる最強の姉上様方に僕からご報告させていただくとして、僕、兄上様にお伝えしておきたいことがあるんです。グレン様のことで」
そこで言葉を溜めて、ヨシュア君が言い澱む。
「どうしたの?」
「僕程度が、グレン様と同じ土台で語るなんておこがましいのですが……たまに、グレン様から僕と同じ匂いを感じます」
「もし使ってる石鹸がうちから送られてくるやつだとしたら、香料成分の質に越えられない壁があるはず。匂い間違いじゃない?」
「違いますよ!もう、これだから兄上様は……!」
もどかしさを体現するように、地団太を踏んだヨシュア君は、自分を落ち着かせるために一度大きく深呼吸した。
それから大きく瞳を開いたヨシュア君は、グレン様の部屋につく直前の場所で止まり、僕を正面から見据える。
「匂いっていうのは、雰囲気のことです。最初お会いしたとき、グレン様は、口ではお厳しいことを仰っておられますがお優しい方だと僕は感じました。そして今でもそう思うんです」
ヨシュア君はグレン様の本性を垣間見ている子だから、外面に騙されているとは考えにくい。
「二年前のあの時、証拠を提示する必要があったとはいえ、グレン様は、僕の体を大衆の前で晒させることについて許可を求めてくださいました。上位貴族のご子息が、殿下の婚約とマグワイア家という大貴族を潰すことを目標にされているときに、わざわざ、半血の僕に、です。同じ立場の普通の方なら通常尋ねません。尋ねるということすら思いつかないと思います。それが貴族です。……今回だって、グレン様がおられるなら僕という護衛にもなれない存在が同行する意味はありません。それでも僕を呼んでくださった理由は、きっとこれから兄上様以上にマーガレット姉様に会えなくなることを見越して、『家族』の時間を与えて下さるためです。グレン様の見えにくいお優しさについて、兄上様も薄々感づいておられるところはあるでしょう?」
ヨシュア君はまくしたてるように続け、そして声量を落とした。
「グレン様は他人に甘いお方ではないと思いますが、僕には結構ご配慮くださっています。それはきっと、僕に対してなにかしらの想い入れがあるからだと思うんです。過去、僕に求めた行為が正しいものであることは間違いありません。正しかったことに負い目を感じるような方でないとしたら、その理由は一つ。グレン様が僕を見ていて、何か思いだされること、もしくは僕に想い入れたくなるような事情があるからではないでしょうか?」
「それは、飛躍しすぎじゃない、かな?」
「そう思わなくはありません。でも、可能性の一つとして、兄上様には覚えておいてほしいのです」
「それは僕が、グレン様の一番お近くにいる存在だから?」
「はい。兄上様は、グレン様の一番の支えとなり、なられる方です。そして、これからグレン様にはもっとそれが必要になります」
この前の黒く変色し、肥大化したアリクイさんを思い出す。あの狂暴化変異の謎は解けていない。そういえば、グレン様に手渡した小瓶の解析結果は一体どうなっているんだろう。
「確かに気になることは色々――」
「兄上様。僕の実の姪……ハリエット元マグワイア令嬢が、教会で変死されているのです」
僕が思いを馳せる方向とは違う方向に、ヨシュア君から大きな打撃が与えられた。
ハリエット様が死んだ?一体なぜ?ただの事故死?それとも?
衝撃で目を見開く僕に、グレン様の部屋の目の前に立ったヨシュア君が、小さな、蚊の鳴くほどの声でぼそりと告げた。
「兄上様に父上様から伝言です。『エル、これからは一層身の回りに気をつけなさい。そして、特にお前の主人の彼に目を配りなさい。これから彼が向かう先は想像を絶する茨の道だ』とのことです」




