32 小姓とはどうしても馬が合わないようなのです
さて、今の僕の右手に広がるは新緑の木々。左手に広がるも新緑の草花。自然豊かなここは森の中。
視界一杯に広がる目に優しい光景を堪能する暇もなく、僕は今、草をかきわけ、わき目もふらずに全力疾走している。
「これは一体どういうことだっ!?」
「どういうことなんでしょうねっ!」
隣を併走しているキール様が苛立たし気に僕に尋ねるけど、そんなことは僕が知りたい。唐突に走りたい気分になったわけでもないし、単に筋肉を苛めたくなったなどという変な趣味も性向ももちろん持っていない。
「あの生き物らしきものは何だっ!?新種の魔獣か!?」
「存じ上げません!」
「お前は獣医師志望だっただろう!?」
「獣医師志望がなんでも知っていると思わないでください!大体あれが生き物かだって怪しいじゃないですか!」
「ちっ、使えないな!」
キール様がちらりと視線を送った先には、高くそびえる木々と同じくらいの高さ、そしてその高さの四分の三ほどの横幅の楕円形の黒い球体がある。
ただあるだけならひとまず放置してもいいのだが、それがこちらを押しつぶさんばかりに猛然と転がって来ているんだから、悠長に観察する暇などありゃしない。
生き物か、それとも違うのかも分からない、見たことも聞いたこともない未知の物体に、僕たちは追い掛け回されているのだ。
なぜ競技場で大会出場中だった僕たちがこんな目に遭っているのか。事の始まりは少し前に遡る。
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キール様と僕の勝負は一進一退の攻防を繰り広げていた。
僕は、リッツから賭けの対価として受け取っていた通称・悪夢の実まで使ってキール様と互角くらいには争っていた。
若干防御寄りだったとはいえ、キール様の攻撃も僕にはあまり通じない状態だったわけだし、いい勝負だったと思う。特に、純粋魔法状態で起こされた高い火力の炎を利用した僕の水蒸気攻撃はなかなか秀逸だったはずだ。
グレン様にやられた中では恐怖ランキングベスト30に入るくらいのお仕置きを応用したわけだし!
まぁあの後は完全に押されてしまったんだけどね。
さすがの魔術師志望優秀者と言うべきか、僕の起こした水蒸気攻撃にキール様が動揺したのは一瞬だった。
急激に水が気化した影響で、白い霧が発生したあの後すぐ、キール様は身を守る防御魔法を展開して自分を熱から守ると、霧に隠れて僕に強烈な蹴りを放った。キール様を利用した僕の行為が更に利用されたわけだ。
避けきれない速さで迫った蹴りを防ぐため、僕は風をおこし、防御と視界の確保を図ろうとした。
その時だ、不審な声が聞こえたのは。
イヤダ
雑音交じりでよく分からないけれど、そんな感じの気持ちがじわりと伝わってきた。
あの、子蛇さんの時と同じ、魔獣の気持ちが直接伝わってくる感覚の方向に僕が目を向けた時、黒い弾丸のようなものが一直線に殿下のいらっしゃる観覧席に飛んでいく幻想が見えた。
速すぎて直に視覚で確認することはできなかったけれど、直感的にまずいと思うほどはっきりとした想像だったし、悲しいことに僕の嫌な予感や直感はよく当たる。
だからこういう時は迷わず自分の本能に従うことにしている。今回も、用意していた風の力を声の聞こえた方に飛ばし、殿下に向けて危険を知らせる声を上げた。
僕の風でうまく軌道がそれたか、または抵抗力としてその速度を落とせたか、僕の声が殿下に届いたかは分からない。
それを確認する前に、キール様の蹴りが完全に治しきれていなかった脇腹に再び直撃し、僕は宙に投げ出され、そして地面に叩きつけられた――と思いきや。
「!?」
ザバン!という音と、体が何かに沈み込む感覚、空気の泡が体を伝って上に抜けていく感触がした。
どうやら僕がいたのが用水路の近くだったせいで、蹴り飛ばされた僕は水中に落ちたようだった。蹴られた痛みと水面に叩き付けられる痛みで気を失わなかったのが、不幸中の幸いだ。
状況を理解した僕は無理せず、ばたつかず、地面を一回蹴って上空に顔を出した。
「ぶはっ!」
とはいえ用水路の水の勢いは尋常でなく、一度顔を上げられたからといってそのままでいられるわけじゃない。勢いのまま押し流され、水のうねりに負けて再び水中に引きこまれることも予想済み。
顔を出せた一瞬に僕がやったことは、「魔力で水を通さない不可視の膜」を作り、空気を溜め、それを顔周りに張ること。
なんだそりゃ、と思うでしょう?半年ほど前にグレン様に特訓され始めるまでは僕もそう思ってました。
「魔力を現実世界にある物質と同じ性質を有する状態として顕現させるのが純粋魔法状態。それができるなら、風とか火とか水とか、そんなまどろっこしい状態なしに、魔力をそのまま壁として出すことだってできるに決まってるじゃないか」
「そんな風に仰るのはグレン様くらいですよ。この世に模する元になる『物質』がないんだから普通はできません」
「この世にあるかないかなんて関係ないよ。魔力を物質化するという点では全く同じだ」
「そんなものですか?」
「作る前提として、構造を知るには――やっぱり壊すところからかな。さ、エル。僕が今『魔力壁』で囲んで作った空間を壊して抜け出してみなよ」
「お話によると、僕は今閉じ込められてるってことですよね!?予告もなしで閉じ込めたんですか!」
「予告したって何も変わらないよ。脱出にあまりに時間かかると酸欠になると思うから、せいぜいあがいてみてね」
「お待ちを!背を向けて歩き出すなんて外道です!最後まで見守るのが筋ってもんでしょう!?」
「どうせ助けるつもりないし、お前が息ができなくて顔を真っ赤に染めて涙目になるところを間近でとっくりと観察しろって解釈になるけどいい?僕はそれも大歓迎だけど」
「――――どこか出来る限り遠くに行ってください、この鬼畜ドS野郎っ!」
……こういう過程を経て、構造を無理矢理体で理解させられ、何度も窒息死一歩手前の猛特訓を受け、ようやく作れるようになったこの不可視の膜は、グレン様が作る不可視の魔力壁のとても弱い版で、僕の中での最高傑作だ。
強度と形状を好きなようにいじれるグレン様に言わせると「不格好な失敗作」らしいけど、こうして役に立っているんだからいいじゃないか!
あぁ、ほんと、父様に水難事故の時の対処法を教わっておいてよかった、あのグレン様の横暴なお仕置きと無茶振りに耐えてよかった。これで僕は溺れ死ぬ可能性がなくなった。ほんと危なかったなぁ。もう魔力が大分底をつきそうな予感がするもん。あとはタイミングを見て勢いが弱くなったところで水の流れを補助魔法で変えて――
のんびり流されながら今後を考え、少し視線を流れてきた方向にやった時、僕は瞬きを忘れた。
水の中でラズベリーブロンドの長身美青年がもがいてる。
どこからどう見ても先ほどまで対戦していた、僕のことが大っ嫌いなはずのキール様に見える。なんでこんなところに?蹴りの勢いで落ちた?まさか。そういう体勢でも場所でもなかったはずだし。
ってことは、もしかして僕を助けに来てくれたのかな?
泳げなくてすぐに死にそうな外観の僕を?水に落ちたのは、嫌いで嫌いで、憎んでいるくらいのはずの僕なのに?
あの人の価値観や主張を脇に置いておくとして――もしかしたらあの人、そんな最低な人間じゃないのかな。
でも、あんなに顔が真っ青だなんて、人を助けるという次元にいないよなー。自分に一番救助が必要な状態にしか見えないなー。一番かっこ悪いあのパターンね。
でもキール様だもん。泳げないけど飛び込んだとかそんな間抜けなことになんかなって…………るよ!貴族で遊泳ができる方って意外と少ないんだった!
慌ててキール様を回収し、水上の空気で空気膜を作ってキール様の溺死を防ぎ、半分意識を失っていたキール様が覚醒したところでようやく水流がおさまってきたので、キール様に陸に押し上げてもらった。
それで気づいたら森にいたってわけ。
用水路は川につながっているから、まぁ当然と言ったら当然のことだ。
川から上陸した後は、お互い背を向けたまま、無言で服を絞り、温風をおこして体を乾かしていた。
主義主張も全く異なり、仕えたいと思う相手又は仕えている相手が被っている。だから向こうは僕のことが大っ嫌いで、憎くて、顔を合わせれば常に敵意むき出し。
こんな関係なんだから、この様子も仕方がないのかもしれない。
ところが、そうも言っていられない状況にある。
例え森の中とはいえ、学園の寮から遠くまで流されたとなれば、例え動物たちと仲良しの僕ですら一人より二人の方が心強い。
どう見積もっても良好でない関係ではあるが、沈黙が金になることはないはずだ。友好関係とまではいかなくても、休戦状態にはならなくては。
そう思って、僕は声をかけることにした。
「どうやらかなり流されたようですね。お体の方は大丈夫ですか?」
すると、ラベンダー色の切れ長の瞳がこちらに向き、不躾に僕の頭のてっぺんから足先まで移動した。そしてぼそりと言ってくれる。
「……乾かしてもみすぼらしいんだな」
……大丈夫だ。僕は、グレン様という気分屋ドS鬼畜野郎を上司に持ち、常に振り回される身の上。寛容の心でもって受け止めよう。
「あー……先ほどクロフティン様との対戦中に泥の中を転げまわった上に、炎で焦がされてますから。きっと川の水で洗い流せないくらい汚れが残っちゃったんだと思います」
「別に服のことだけを指したわけではない。中身についても言ったが」
真面目な顔でわずかに首を傾げるキール様。
見たままを言ったという悪意の感じられない表情が余計に苛立ちを掻きたてる!――いや、我慢だー我慢!
「あ、あはははは。よく言われます。あの、僕、一応泳げはしましたが、体力も魔力も底を尽きてきているので、帰りは川沿いを歩きで――」
「……お前は遊泳できたのだな」
「え?えぇ、まぁ」
「水の中で踊るなど野蛮なことは俺にはできない。さすがだ」
これは褒めてるの?喧嘩売ってるの?表情から言うと半々ってとこ?
誰のおかげで助かったと思っていらっしゃるんだろうか、この方は……!
「それより先ほどお前が使った、空気を溜める魔法だが、あれは風魔法の応用か?」
そうだ、落ち着けー。深呼吸だー。
ひ、人づきあいが苦手なだけで、一応僕と会話しようという意思はあるのかもしれない。こういう不器用な人って、身近にいるじゃないか。うん。
「……いえ、グレン様が考えられたもので、簡単に申し上げるなら、魔力を直に物理化したものです」
「なんだと!?それを早く教えろ!」
「申し訳ございません。僕には完全な習得はできませんでした。先ほどのもグレン様には『不完全な失敗作』と評されているくらいなので、他人に教えるなどとてもとても――」
「使えん!お前などにグレン様の実用化した魔法を与えるなど宝の持ち腐れにしかならないのにどうしてかの方は……!この俺が直接教わることができていたら……!無能なやつはこれだから救えないんだ……」
もういいよね!?後ろに思いっきり匙ぶん投げていいよね!?
開き直った僕は、片方の口角を上げるという器用な技を使いこなして半眼でせせら笑った。
「そうですねぇ。泳ぎを除けば何でもできるクロフティン様ですから?きっと教わったのが僕でなければ、さぞ完璧に習得されたんでしょうねぇ」
「貴様、俺の傷を抉る気か……?!」
「ちなみに、グレン様はキール様の仰るところの『野蛮な水中での踊り』、できますよ?」
「なに!?」
「きっと泳ぎ方も丁寧に教えてくださるんじゃないかな。特別扱いの僕以外にはお優しいお方ですから」
「特別扱いではなく、実体に合わせて下僕扱いなだけだろう?」
僕とキール様がにらみ合う。
相手が長身で見降ろされているのがなんとも空しいが、こういう時は身長は関係ない。気合だ、気合!
「……貴様と俺はどうにも馬が合わないようだな」
「そのようですね、全くもって同感です」
「ではここからは別行動とするか」
「そうしましょう」
珍しくお互いの意見が合い、ふんっと顔を背けて、勝手バラバラに歩き始める僕たち。
しかし、帰りたい方向は一緒で、かつ帰る一番手っ取り早い方法は川を遡ること、となれば、当然ながら同じ方向に行くことになる。
「どうして真似なさるんです?」
「真似したくてしているわけではない。貴様こそ、その短い足に合った歩幅でのんびり歩けばいい」
「小柄で愛らしい僕の周りには、総じて足の長い方が多いもので、日ごろから足の回転数を上げることが染みついているんです」
「愛らしい?小憎たらしい、の間違いじゃないのか?」
「ほほう、口げんかなら得意ですよ?」
お互いに歯をむき出しにしながら一見仲良く隣を早歩きし続ける僕たちは、背後からパキパキ、めきめきと響く不穏な音に同時に振り返った。
そして、木々をなぎ倒す巨大な黒い球体がこちらに向かって猛然と近づいているのを目に入れるや否や、その不気味さと不可解さに一緒に顔を蒼ざめさせると、一斉に走り出したのだった。




