20 小姓は検分されました
背中の傷と言われて、思い当たる節は十分にある。
背中だからまじまじと見たことはないが、さらしを巻いているか上着を着ていないと肌着とシャツから透けてしまうくらいはっきりとした、赤黒く醜い傷跡のことだろう。
「僕がつけたものじゃないやつだね。その一番大きな傷は」
「グレン様は僕のどこに傷をつけたか覚えていらっしゃるので?」
「僕の記憶力の良さを褒めたたえるところだよ、ここは」
「確かに素晴らしいほどのド変態ですね」
僕が笑顔を見せると、目の前までやってきたグレン様も眩しいほどの可愛らしい天使の笑顔で首を傾げて見せた。
「あぁ、そうだね。お前の言う通り、僕は堪え性もないし、脱がす方が性に合ってる。今だってその脱ぎかけたようなシャツを肌着ごと裂いてお前を剥きたくてうずうずしているところかな」
「脱ぎますっ!脱がせていただきますともっ!!」
いつもなら、上半身裸になることへの恥じらいよりも何よりも家族しか知らない――ナタリアすら存在を知らない傷の醜さの方を思い、暫し躊躇うところだ。
……が、この方の場合、放っておくと「本当にシャツを引き裂きかねない」ので、迷うことすら忘れた。
ちょっと裂けたものを繕って使うのは、貴族としての外聞があまりに悪いので、新品を買い直さなければいけない。貧乏学生にはシャツ一枚だって十分な痛手なんだ。
天敵に背中を向けるなんて恐ろしいことはしたくないのだけど、背に腹は代えられない。くるりと後ろを向いて、シャツのボタンを外し、肌着も脱ぐ。急いで出てきたおかげでさらしはないから、脱ぐのは楽だ。
「初対面で言ってたことは嘘じゃなかったってことか……」
「あなたに嘘がつけるとはハナから思っておりませんでしたので」
「これは一体どこでもらってきた傷?」
「僕を浮気性の男みたいに仰らないでください。……昔、魔獣に襲われて出来た傷です」
「魔獣……?これが?噛み傷、じゃないね。種類は?」
「切り裂き傷だと言われた気がします。物心ついたばかりの頃のことですから、魔獣の種類までは分かりません」
「魔獣に襲われたにしてはお前は魔獣に苦手意識がないけど、被虐趣味でもあるの?」
「ご主人様と同じ観点で扱われるのは心外です。大怪我で意識を失ったそうなので、僕は当時のことをよく覚えてないんです。だからでしょうか、魔獣たちに苦手意識もありません」
まぁ、仮に覚えていたとしても、このことで魔獣たちを嫌ったり憎んだりすることはなかったと思う。僕は、なんと自我が目覚める前から動物や魔獣たちと一緒に戯れていたらしいから。
「状況も、何もかも覚えてないの?」
「はい」
「昔って正確にはいつ?」
「五歳の時――だから十二年近く前になります」
傷に沿ってだろう、左の肩ごしから、右の腰にかけて、グレン様のひんやりとした指が触れ、それがつう、と僕の裸の背中を伝う。
「魔獣……?それにしては傷の形状が……いやでももっと注目すべきはこの大きさ……十二年も前の傷なのに、この大きさ……?そんなことはありえないはずなのに……それに、このピリピリ来る感覚は…………生きてる……?」
何か考察しているらしき意味不明の呟きが耳に入るのだけど、残念ながら僕にはそれに気を割く余裕はなかった。
多分ご本人は今は一点集中の観察状態なんだろう、斜め上から斜め下に、そっと触れられた指先が、何度も行きかう。
最初はただただくすぐったさを我慢することで必死だったのに、感覚に慣れるにつれて気になってしまう。
家族以外に触れられたことのない、醜い傷跡。
そこに他人が初めて触れた。
そもそもこの傷は、入学したての頃、人目を避けて入浴していた僕が初めてはっきりと裸を(もちろん背中側だけ)見られた時に、同級生を怯えさせてしまったことがあるほどのものだ。
余計な被害者を出すのも申し訳ないから、その目撃事故以来、風呂など、背中が見える時には幻術をかけて傷もないように見せかけており、それが慣習化していたせいで傷を直視した他人がどう思うかを意識するのを忘れてしまったとはいえ、紛れもなく、その存在が他人を不快な気分にさせるほどの酷い傷だ。
ちょうど二年ほど前までは、姉様が殿下との婚約を嫌がったら、国外逃亡して誰か伴侶を得て町の獣医師としてのんびり生計を立てて姉様を支えていこう――なんて軽く思っていた。けれど、よくよく考えてみれば、女性にとっては致命的な欠陥を持つ相手を伴侶にする物好きなどそうそういない。現実を直視すれば、姉様が殿下に心を寄せてくれ、殿下の婚約解消がうまくいったことにつくづく感謝の念を感じてしまう。
まぁ、そんな傷だから、今この状態で考えても仕方のない無駄な雑念が頭をかけめぐる。
見ていて気味悪くないのかな。いや何より怖いのは――……ダメだダメだダメだ!考えるな、別のことを考えなきゃ!
邪念を振り払うため、体の前でシャツと肌着を握りしめたまま、大会の攻略方法を練る方に気を集中させる。
僕の場合、単純な攻撃魔法での突破は難しい。
前に一度魔法の具現化について言ったと思うけど、ここでおさらいしよう。
魔法には、ざっくりと言って器たる血筋、組成と放出にあたる鍛錬力、威力に係わる気力の三つの要素が必要だ。
僕の場合、器たる血筋については、男爵家平均レベル、つまり魔法を扱う人間として最低レベルは有していることになる。
そして鍛錬力について、これはセンスの問題なのだけど、得意な方に入る。そもそも医療系で使う魔術(魔法と呪術、合わせて魔術と呼ぶ)は細やかさと素早さと技巧が要されるものが多い。特に容体が悪化したときには瞬時に魔力を形に替えなきゃいけないから、鍛錬力は非常に鍛えられる。というわけで、鍛錬力については実はかなり優秀な部類。判断力や総合力もあるんだよ?えへん。
だが、問題は、気力だ。
気力は、呼吸力や感情に左右されるもので、練られた魔力を放出するときの威力に最も係わる。攻撃魔法とか防御魔法とか、回復魔法とか、そういう区分けの呼び名は色々あるのだけど、実は起こしている現象は同じで、それを「どのような形」にするかで区分されていて、ここが気力の領分だ。
簡単に言うと、鍛錬力は、魔法を具現化できるかどうかに関わってて、気力は具現化した力の形質と強弱に係わるってこと(魔力そのものの大きさはどちらにも関わる)かな。
攻撃魔法の威力を高めるときには、高揚、興奮、闘争心の強さの他、負の感情も有用だ。相手を傷つける力だから、相手を傷つけようとする意思の強さや、相手への怒り、憎しみ、悔しさ、嫉妬、怨み、熱意、それから殺意が力になる。
僕はそれが人間であれ、動物であれ、魔獣であれ、基本的に他者を傷つけたいと思えない。だから気力が足りず、攻撃魔法の形質を取った途端に威力が弱まることが多い。うまく行くのは、グレン様に対して並々ならぬ怒りを抱いているときくらいだ。
みんなは「夢中になってたら勝ちたいって思うだろ?そうしたらふつーに出来る」って言うんだけど、なんともできないから僕の課題になっている。
「エル。もう服を着ていい。ひとまずの観察は終わった」
攻撃手段がない状態でどうやって勝ち上がるか。ヨンサムの話では、発想を変えるんだから……いっそ、あからさまな攻撃魔法を使わない……とか……でもそれで相手から降参を取れないんじゃ……
「無視する気?」
相手に攻撃させて自分を傷つけさせるって言っても、簡単じゃないしなぁ。操作系の呪術は禁術で人にかければ犯罪者生活に逆戻りだから、元から僕の魔力量じゃ発動させられないことを除いても論外だし……
「へぇ。僕を無視するとはいい度胸。買ってあげるよ」
思考をめぐらすことに夢中になっていたら、首筋に触れるか触れないかくらいの位置で生暖かい吐息の感触がして、そのままふっと耳に湿った空気が入り込んだ。
慣れない感触に背筋にぞわぁっと鳥肌が立つ。
「うわああああ!何考えてんですかどういうおつもりですか下心ないですよねこの野郎!」
「情欲に駆られたならまだよかったんだけど。何度呼びかけても戻って来ないからショック療法として一番効果のありそうな手段を実行したまで」
「だからって……なんであんなに艶めかしくするんです!?ほら見てください、この腕一面に広がる鳥肌!」
「普通だったら腰砕けになってもおかしくないはずなのに、お前は見事に見苦しくぶっつぶつ。ここまでくると感動するよ」
「世の中には肩をたたいて知らせるとか、耳元で大声を上げるとか、もっと無難な方法があるんですよ」
「別に新しい火傷や切り傷を作ってもよかったんだけど」
「そんなに両極端の二択を迫る必要がありません」
「生ぬるい退屈な人生よりも、刺激的な人生の方がよくない?」
刺激がありすぎるんですよ、回復するのに肉体的にも精神的にも時間がかかるくらいね!
あぁもう、深く考えるな、この方のペースに巻き込まれたら負けだ。
「……あの、どう、思いましたか?」
「非常に興味深い傷だと思う」
「え?興味深い?」
「僕もこんなものは初めて見た。原因も、性質も、理由も、まるで見当がつかない傷跡なんて初めてお目にかかったよ。時間があれば深く研究してみたい題材だ。お前の体って、一つの曲り道のないあけっぴろげな思考回路とは対照的に色々隠し持ってるよね」
「どういう意味ですかそれ。僕の行動は予想の斜め上だったんじゃないんですか?」
「僕が読めない行動は大抵、お前の直感に従ったものでしょ。思考回路は入ってないんだよ、……少なくとも、その傷跡はお前の頭の中身よりは断然奥が深いってこと」
口元に指を当て、探るように考えている麗しい横顔には、言われたこと以上に何の他意も含まれていないように見える。
「………それだけ、ですか?」
「なに。まだお前の思考回路を貶してほしいの?」
「違います。……その……気持ち悪くなかったんですか?」
「何の話?」
肌着を着て、シャツのボタンを留めてから恐る恐る口に出せば、本気で質問の意図を掴めないという顔のグレン様が、こちらにルビー色の丸い目を向けてきた。




