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19 主と記憶

 

「ユージーン、お前がいないと()()()()()()のは分かってるね?」

「あぁ」

「グレン殿、これを」


 男爵が近寄ってきて、僕の胸ポケットに青い花弁の一輪の花を差した。この花は以前にも見たことがある。エルの青い目によく似た深い青い色の花だ。確か、僕が一度みっともなく倒れたときに僕の部屋にエルが飾ってくれていたやつだ。


「これは?」

「うーん、お守り、ですかな?」


 男爵はそれ以上何も言わず、微笑んでから離れていき、代わりにユージーンが僕の傍に来て、僕に肩を貸した。

 正式にフレディからの命を受けたとはいえ、アルコット家が借り切っている病室から僕が抜け出してから、それなりの時間が経っていて、あまり時間はない。加えて、今の僕には、魔術も体術もほとんど使えない。普段ならお守りなんて気休めは受け取らないのに、その花を捨てる気にはならなかった。


「あんた、言わないの?」

「何を?」


 僕にしか聞こえないと思っているからだろうか、僕に対する言葉を取り繕う様子もなく、ユージーンが呟く。


「さっきの父さんの言い分だと、俺が学園に通ってなかったのが、まるでエルのためだけだって聞こえるだろ」

「実際そうでしょ」

「父さんは、俺が学園に入っていないのが殿下にばれたらまずいと思って嘘ついたのかもしれないけどさ、俺、別にエルのためだけではなかったし、父さんが言っていたように、小姓契約の存在を知ってたわけじゃないし、エルがあんたに近づいたのが父さんの差し金だってことだって全然知らなかった」

「だから?そんなのどうだっていい」

「なっ、どうだっていいって――」

「お前が学園に入っていないことなんて、調べれば後からいくらでも分かるんだし、別にお前がエルのために学園に入っていなかったのだって嘘ではないでしょ。そんな些末なこと、今気にしてる場合?」


 僕の言葉に、ユージーンが黙り込んだ。

 容姿だけはエルに似ているが、その性格はまるで似ていない。どこか振り切れてて、能天気で、豪快なエルとは違い、どちらかというと慎重で、気を張っていないと済まないタイプに見える。

 別にこの男がどう考えようが、僕にはどうだっていいんだけど、その顔立ちがエルに似ているせいでどうにも気になって仕方ない。


「はー。辛気臭いなー」

「うっせーな。代わりになんか役に立ちそうなこと考えたけど、思いつかないんだよ。俺なりに『りー』について、ずっと思いだそうとしてんのに!」

「りー?って、確か、エルが助けた魔獣のことだっけ?」

「りー、ってエルは名付けてたけど、何か、元になった名前があるはずなんだよ。でもそれが思いだせない。『リー』から始まる単語、色々探したけど、どれもしっくりこなくて。小さいときのエルってそんなに物の名前を知ってた方じゃないし、難しい単語だって知らなかったはずなんだ。なのに、全然思いつかないんだよ」


 そんな話をしながら牢の前に行く。

 エルは、さきほどのユージーンの血の臭いが残っているせいなのか、牢の入り口付近に僕たちが立っても、襲い掛かって来ようとしなかった。


「で、どうすんの?」

「僕の体内にあるエルの魔力をエルに浴びせないといけない」

「その方法は?魔力って、血とかに含まれてるだろ?あんた、王子の前で今の状態で腕を切ったりしてそれ以上衰弱したら王子に強制的に止められるぞ」

「今考えてるところ。それより、男爵はお前がいないと成り立たないって言ってたよね。あんたの準備はできてるの?」

「できてるよ」


 そう言って、ユージーンは、ひらひらとナイフを振って見せる。


 小姓契約を結んだ僕は、確かにエルの人間の魂に繋がっているから、心の入り口を開くことができるかもしれない。しかし、万が一僕の中のエルの魔力が途切れたりしたら、僕の意識が獣の状態のエルに閉じ込められることになってしまう。

 その時に、帰り道のいわば道しるべになってくれるのは、双子――エルの魂の片割れになるこいつになる。


「俺がエルとあんたをこの世に繋ぎとめる。あんたたちの様子が変わったら、すぐに血を流すから、それを辿って必ず帰って来いよ。エルを忘れてきたら殺してやる」

「三歩歩いて目的を忘れるほど脳みそは壊れてない」


 ユージーンは、僕の言葉を聞いてから、フレディから預かっていたらしい鍵を使って牢の閂を開け、僕と牢の中に入り、素早く門を閉めた。

 その様子を見やってから、僕は借り物のナイフを手に、牢の奥で蹲っている魔獣の姿のエルに近づく。万全には程遠い今の僕の体には、小さなナイフさえ重く感じる。

 エルに十分近づいたところで、そのナイフを軽く手に当てようとしたその瞬間――


「危ない!」


 エルが、魔獣らしい瞬発力を持ってこちらに跳躍したのが分かった時、僕は、手に持っていたナイフを外に放り出した。身体に染みついた防衛本能が、自分の身を守るため、反射的にエルの喉元を掻き切ってしまうのが怖かったからだ。


「つっ――!」


 何にも止められなかったエルの牙が、僕が首を庇うために前に出した右腕に食い込む。


「ぐるるるるる!」


 僕の腕を噛み千切らんばかりのエルの姿にも、僕は恐怖を感じなかった。

 隅っこでこちらを窺う姿も、人を見て襲い掛かろうとする様子も、エルというよりは――まるで何もかもに怯えて、いつも気を張っていた一時期の僕のようだからだ。そんな僕にエルが何をしてくれていたのか、何をしてくれれば安心したのかを思い出す。


「エル」

「ぐるるるるる!」

「お前が、ありのままの僕を受け入れたように、僕も、どんなお前でも受け入れる。だから、僕にお前を見せろ」


 僕の言葉に、エルの赤い獣の瞳が揺らいだ。

 腕から溢れた血がエルの獣の口元を赤く染め、痛みすらも鈍くなっていき、後ろの方で騒いでいる誰かの声が聞こえたが、それもすぐに遠のく。









 そして、気づいたら、僕は、どこかの部屋にいた。貴族の家――にしては、少し調度品が古い。

 暑くも寒くもなく、吹く風はおだやかで、窓からはうららかな日が差し込んでいる。窓の外には広い森が見えた。いるだけで安心できるような心地になる。

 ここは、どこだ?



 僕が周囲の様子を見回していると、人が近づいてくる気配がして、とっさに近くの棚に身を隠すと、騒がしく走ってやってくる男――二十代半ばくらいの男性が、僕のいる部屋の隣の部屋に駆け込んでいった。

 様子は分からないが、声だけが漏れ聞こえてくる。



「アデラ、また倒れたって聞いたぞ!どこか痛くないか?俺に出来ることはないか!?」

「大丈夫、いつものよ。オズヴェルったら心配性なんだから」

「そりゃそうだろう!ユージーンとエレインが生まれてから、君は前よりももっと動けなくなっているんだから」


 名前が出てきたことで、ここがエルの記憶の中なのだと確信が持てた。

 エルの母君であるアデラ・アッシュリートンが生きているということは、おそらくエルすらも覚えていない、エルの奥深くにある記憶なんだろう。



「心配は嬉しいけれど……お仕事はどうなさったの?」

「そりゃ、放り投げてきたさ」

「やっぱり。そんなに自慢げに言わないで。私は大丈夫だから、戻って?」

「え!?せっかく一目散に帰って来たのに!?愛しいアデラに会いたくて走ってきた俺に何の労いもなし!?」

「そんなに必死にならなくても、つい先刻も見舞いと称して来てくれたばかりでしょう?すぐそばの離れにいるだけなのだし、マーサもいるから大丈夫よ」

「大丈夫じゃないだろ。アデラが倒れたなんて聞いて平気でいられるか!」

「あなたが急にいなくなったら領地の皆さんが困るでしょう?」

「だーいじょうぶ、大丈夫。王城にいたときとは違うんだし、一刻を争うような国の問題じゃないんだから、大丈夫だよ……あ、またそういう顔をする。アデラ、俺の仕事のことは気にするなって言っただろ」

「でも……私のせいで辞めることになったのでしょう?」

「ふふん。あれくらいで君が手に入ったのなら安いもんさ。何度同じ人生をやり直しても同じ選択をするね。俺がどれだけ君に愛を捧げてきたか……!ま、その結果がここにいる至高の奥さんと、可愛い天使たちなわけだけど」

「もう、オズヴェルったら」

「んー?みんなお休み中か?」

「オズヴェル、もうちょっと声を小さくして?やっとユージーンが寝てくれたの。それにほら、マーガレットも」

「おっと……ユージーンはなかなか寝ないからなぁ。エレインはよく寝るのに。珍しいな、今日はエレインだけが起きてるのか」

「ぱー!」

「あぁ……俺の天使……可愛すぎてどうにかなりそうだ……だけどしーっ、だぞ、エル。今はお兄ちゃんとお姉ちゃんがお昼寝中だからな」

「ふふ。エル、偉いのよ?いつもは元気いっぱいだけど、ユージーンが寝ているときはおりこうさんで、静かなの」

「偉いなー、エル。アデラ、君と同じ綺麗な青い目がぱっちりしてるよ。エレイーン。エル、パパだよー。エル、ほら、よしよし」



 隣の部屋から聞こえてくる会話を盗み聞いているうちに、手に水滴が当たった。

 それが自分から零れた涙だと気づいて、僕が一番驚いた。


「え……なに。なんで僕……泣いてるんだろ」


 あまりに優しく柔らかい。愛情に溢れた空気に触れたせいなのか、この後この家族に起こる悲劇を知っているからなのか、それとも、自分自身も思いだせない遠い昔に、自分もこうして両親に愛されたのかもしれないと期待したからなのか。


 いつもだったら、敵の策略か、呪いか、何かの魔術かと疑うのに、これだけは違うと分かる。敵意が何一つ感じられない。盗み聞いていることが後ろめたくなるくらい、優しさで溢れていた。

 エルは、愛情をいっぱい注がれて育てられてきたのだろう。



「いい子だ。ほら、これはお土産だよ」

「きゃあ!」

「綺麗……。これ―――でしょう?どうしたの?」

「さっき森に咲いてたのを摘んできた。冬も明けたんだなぁ、春一番だ」

「いい香り……」

「だろう?……おや、エルも気に入ったのかい」

「いーいー!」

「違うぞ、エル。――――だ」

「いー!いー!いー!いん?」

「お。エル、上手いぞ。もう一回、――――だ」

「いー……い、あ、んー、りー、りー!」

「この年でこんなに……!すごいぞ!この子は天才かもしれないぞ!なぁアデラ!」

「オズヴェルったら……。エル、そのお花、気に入ったの?」

「りー!りー!」

「そう。お花、好きなのね。そのお花はね、この家にとって、とっても大事なお花なのよ」

「りー?」

「えぇ。()()()()()()()()()()()()()()()、とっても特別なお花よ。このお花は、この森でしか咲かないの。私にとっても、大事なお花なのよ」

「そりゃそうだ。だってこの花は、俺が君に捧げた花なんだから」

「この子も、いつかこの花をここに懐かしく見に来る日が来るのかしら」

「そ、そんな……!エルがどこかの誰かにとられてしまうだなんて……!」

「オズヴェルったら。もっとずっと先の話よ。……そう、きっとエルが大きくなって、素敵な女の子になって、きっと、私にとってのあなたのように大事な人を見つけたときのこと。だから、そんなに泣かないで」

「りー!」




 楽しそうな家族の声が段々と遠ざかっていき、あたりに広がっていた部屋も森も消え、一帯が白い靄がかった空間に変わっていく。

 そろそろ――か。


「エル、どこ?いるならさっさと出てこい」


 僕が呼び掛けて見回していると、遠くの方に寝転がる人影がぼんやりと見えたので、そちらに近づく。

 夢の中であろうここに、距離も常識もないのは予想済みだ。

 案の定、横たわって寝ているのはエルだった。


「エル、いつまで寝てるつもり?」

「うぅーん」

「起きないなら蹴るよ」

「もう、酷いなー。グレン様は」


 僕が前段階として手でその体を揺さぶると、エルは大きく伸びをしてから薄目を開け、僕を見て面倒そうに立ち上がった。

 記憶の中だからか、首に着いたままの赤い首輪を手で弄りながら、エルが小首を傾げる。


「母様と、父様と、姉様と、兄様のいる、素敵な夢だったのに起こすなんてひどい。僕を無理矢理連れていくんですか?」

「当たり前でしょ。こんなところでいつまで夢を見てるつもり?」

「夢だっていいじゃないですか。会いたくてたまらなかった母様に会えるんです。――それにここなら、グレン様がいないでしょ?」


 あまりにも自然に発せられたせいで、言葉の意味が一瞬わからなかった。言葉を失う僕に、エルは続ける。


「グレン様さえいなければ、僕は大好きな魔獣たちのために役立てる獣医師になれたはずだったんです。それが、小姓にされちゃったせいで、ぜーんぶ中途半端になっちゃいました。それどころか、毎日毎日、傍若無人に僕のこと振り回して、苛め倒して……今まで、散々我慢してきたんですよ?何されても文句も言わずに我慢して我慢して我慢して……最後には僕、グレン様のために命まで落としちゃう羽目になっちゃったんですよ、分かってますか?」

「エル、それは――」

「もうそれも限界です。でも、ここまで我慢した甲斐がありました」

「どういう意味?」

「僕をここまでコケにしてきたこと、グレン様に後悔していただこうと思って――だから、グレン様のこと好きだって言って、命までかけて、大盤振る舞いしてたんです。それもこれもこのときがくるだろうって思ってたから」


 エルはそう言ってから、僕に笑いかけた。


「僕、グレン様のこと、これっぽっちも好きだなんて思ってません。僕に告白されて嬉しかったですか?」


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