16 主と未練
全身の感覚が麻痺し始めているはずなのに、唇に押し当てられた柔らかい感触だけが妙に生々しく残る。
エルは、僕の唇からゆっくりと自分の唇を離した後、俯き、黙り込んだ。
賭けてもいい、思い切り潔く僕の唇を奪ったのも、ものの弾みでやったことなんだろう。
エルは、僕が無言でいることに困ったように顔を伏せたまま黙り込んでいたが、沈黙に耐えられなくなったのか、おそるおそる顔を上げた。
「あのー……グレン様?」
らしくない上目遣いで僕を見上げ、戸惑いながら口を開く。
「……嫌だった、とか、そういうことで怒っていらっしゃったりします?」
あー……これは堪えるな。
急に気弱になった不安げな様子も、まん丸の青い瞳が潤んでいる様子も、これまで同じ表情は見たことがあったはずなのに、どうしてだか、思っていたよりずっと女っぽく見えてしまった。
そのせいで、機能不全を起こしている身体中の血が頭に上ったような気がして、僕は思わず腕で目元を押さえて天を仰いだ。
「えっ!?なんですか、その反応!?」
「はー……」
「えっ、ため息!?そんなに嫌でした!?いや、グレン様だって散々僕のこといいように扱ってきたし、これくらいグレン様にとっては挨拶程度で、なんてことないことだと思ったんですけど、えっ、だめ!?」
焦ったようなエルが何やら騒いでいるのを放置して、自分の感情に呼応して高まる熱を必死で抑える。
もう僕には体内の魔力を制御する余力はほとんど残っていない。僕の魔力は、僕の管理下を離れ、好き勝手に身体中を暴れ回って色んな器官を内部から破壊した。
あとは理性で押しとどめているだけなんだ。冷静にならないと、爆発する。
くそ、なんでこのタイミング――いや、ここまで来たからなのかもしれないけれど。
こいつは、僕のことを変態だ、変人だといいように言っているが、こいつだって相当な変人だ。普通、初対面で馬で引き回したり、絶えず命からがら生き延びられるかどうか、という試練を与えまくっている相手に懐くか?いや、懐かない。僕が女だったら絶対に嫌だ。
柔らかく、優しく、愛を囁いて甘やかしてやることだってできたし、そうしたら女が簡単に落ちると分かっていても、こいつにそういう対応を取ろうとは思わなかった。
根性があって、退屈しのぎにも、いいように小間使いとして使うにもちょうどいいと思ったから、かねてからフレディに言われていた小姓候補にこいつを挙げた。
純粋さとお人よしさに強引につけこんで、傍に置いて、振り回して――それでも逃げ出さないこいつを見て、僕はこいつが欲しくなった。
自分でも笑っちゃうくらい遠回しだったと思う。それでも、ありのままの歪んだ僕を受け入れて欲しかった。可愛がると同時に虐めたい――小姓として未熟すぎて使えないこいつを鍛え上げることを口実に、そんな感情をぶつけてきた。そんな子供っぽい感情が自分に眠っていたことに初めて気づいた。
こいつが、僕に特別な感情を持っていることは分かっていたけれど、僕が生きている間に、女性としての心の発達不良と無意識下で恋愛感情を抑えつけているこいつが、僕にそういう目線で応える時が来るなんて思ってなかった。
正直、僕はこいつを手放すつもりは全くない。でも、時間はなかった。
だから、僕が死んだ後に気付けばいいと思っていた。
後悔して、泣いて、心を枯らして――そうして、僕に対して情を越えた恋愛感情を持っていることに気付けばいいという期待があった。
こいつがその感情に気付いた時には相手はもうこの世にいない。どうあがいたって会うことはできない苦しみを生涯味合わせてやって、こいつの心に一生忘れられない傷を残してやる。僕という存在を忘れられないようにしてやる。
――僕の歪んだ独占欲は、暗い欲望をそういう形で発散させるというところで落ち着いた。
なのに。
「……お前ってほんと、僕の予測の斜め上を突き進んでくるんだよね」
「それは、どういったご趣旨でのご発言です?斜め上ってことは、いい意味でってことで解釈してもいいですか?」
母上――いや、母さんと別れるときに残された言葉が頭の中でこだまする。
隣にいてくれる人が振り向いてくれた時、あなたもきっと考えが変わるわ。
どんなに希望がなくっても、無理だって思いこもうとしても、諦めきれなくなるはずなの。
その人がいるのに、残していきたくない、死にたくない。そう、あなたも思うはずよ。
だから見つけて。あなたの隣に立ってくれる、あなたの唯一の存在を。
そして、生きたいと貪欲にこの世に縋り付くのよ。
母さんの言った通りだ。こんなに絶望的な状態なのに、諦めたはずなのに、またむくむくと持ちあがってくるんだ。
生きていたいと。
こいつと一緒にこの後も人生を送ってみたいと。
「死にたくない……」
「え?聞こえなかったんでもう一回いいですか?」
「抱きつぶしたい」
「あ、やっぱりいいです。聞かなかったことにします」
エルは、不安げだった瞳を半眼にし、僕の戯言をいつものように聞き流した。
それから僕により近づいて、青い瞳でまっすぐに僕を見つめて来る。
「グレン様、僕はあなたを助けたい。あなたと一緒に生きたいんです。そのためには僕があなたの魔力を受け入れる以外方法はありません。受け入れてくださいますよね」
「……」
「無言は了承と受け取ります」
頭も体も、全身が熱の塊のようになっていて、視界がぼんやりと霞んで来て、言葉を出すことができない。
限界はすぐそこまで来ている。このままだとエルを巻き込んでしまう。
でも、僕は生きたい。
ほんの一瞬浮かんでしまった迷いがよくなかった。さっきまで主として小姓を拒絶し、抑えつけていたはずの力が途切れてしまった。
エルが起こしたのであろう風で自分の手を切り、それによってエルの手から真っ赤な鮮血が流れていく。
しかし、エルが起こした風は、脆くなった周囲の梁を壊すのにも十分な力を持っていた。
がらがら、という微かな音が聞こえ、ぼんやりとした視界の中、エルの頭上に残骸が迫っているのが見えて、僕は最後に残っていた力でその残骸を灰に変えて弾き飛ばした。
と同時に、血の塊が喉の奥にせりあがって来て、盛大に吐血した。
「グレン様!?」
余力を使い切ったことで意識が急速に遠のいていく。
エルが僕の名前を呼びながら必死で僕の体を回復させようとしていることや、身体のどこかから急速に僕の魔力が流れていき、代わりに、僕の中にエルの魔力が入り込んで痛みが癒されていくのが分かる。
ダメだ。エルにそれをさせれば、エルが死んでしまう――
意識を繋ぎとめようとするのに、魔力が入れ替わって消えて、体内が治されていく反動で自分の思うように意識をとどめておけない。
僕の意識がぷつんと途切れる間際、エルの柔らかな声が聞こえた。
「おやすみなさい、グレン様。僕に任せて」
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「エル!」
起きた途端に水分のほとんど失われた喉から声を絞り出したせいで、僕の頭に鈍い痛みが走る。耳鳴りに思わず呻いて目を固く瞑っていると、声が降ってくる。
「グレン!」
「グレン様!」
薄く目を開くと、僕を覗き込むイアンとキールとセントポール、そして遠くの方にフレディの姿が見えた。
「グレン、グレン!起きたのか!」
「グレン様……!」
「グレン様!」
「……起きてる。水、くれない?」
「はい、ただいまお持ちいたします」
自分で上体を起こす力すら抜けていて、身体を支えられて起き上がってから、ようやく自分の置かれた状態が認識できた。
ここは、王城の一室――僕の控室で、僕は今寝台にいるってとこか。ということは、僕はまだ召されていないらしい。
「グレン様、よくぞご無事で……」
「エルは?」
僕の質問に僕の周辺にいた皆――フレディ、イアン、キール、セントポールが沈痛な面持ちで一様に黙った。
「エルはどうなってる?エル、連れてきてくれない?」
「グレン……」
イアンが困った末に発した言葉に、僕の中で何かが音を立てて壊れていった。
「……死んでるとか、そういう結末なら、僕はここにいる意味がない」
「グレン様、まだ起き上がってはなりません!」
「キール、邪魔だ。はっきり言ってくれる?エルは?生きてるの?死んでるの?」
「違うんだ、グレン。エルは生きている!」
僕がぼそりと漏らした言葉に、イアンが僕を寝台に押しとどめながら言い切った。
「……生きてる」
エルが生きているという言葉に、全身の力が抜け、寝台から無理矢理出そうとした足が崩れ落ち、キールがすぐさま僕を支えた。
僕の足は、見た限り綺麗に治っていて、欠損どころか、焼けただれた痕もなければ、痛みすらもなかった。感覚を探ってみても、体内に痛みを感じたりすることもなく、目覚めたばかりで寝過ぎた後のような鈍い頭痛はあるものの、呼吸をしても息が苦しくないし、血を吐くこともない。
まるで、母さんが呪いで僕を守ってくれていたときのように、体のどこにも違和感や不快感がなかった。
あの時のエルの回復魔法は僕のぼろぼろに破壊しつくされた体内器官を全て完璧に治したようだった。
「じゃあ、あいつを呼んでくれない?」
「それはできない」
一人僕から離れて壁際にいたフレディが、僕のいる寝台に少しだけ近寄り、横に首を振って顔を顰めた。
「今のあいつには誰も近づけないのだ」
「どういう意味?」
「それは、彼が説明する」
フレディは僕と顔を合わせたくないらしく、最低限の会話を終えると僕から顔を背け、入口側を見やる。
「……どうも。グレン様」
そこにいたのは、銀色の髪、エルともそう変わらない背格好で、エルとよく似た面差しをしながら、僕を憎々し気に睨んでいるエルの双子の兄――ユージーンだった。




