8 小姓は凡人なのです
足を踏み入れた礼拝堂の中は深夜にもかかわらず一切の明かりが灯されておらず、暗く、澱んだ空気に包まれていた。運悪く月明かりも入らないためか、それほど広くない部屋の空間の奥の方がどうなっているのか、どのくらいの広さなのかは分からない。
夜闇に慣れてきた目でうっすら見える限りでは、教会士たちが立てこもりの際に使ったのであろう剣やら槍やらの武器が床に無造作に転がっている。
反教会派だった僕は、これまで一度も礼拝には来ていないので、礼拝堂に入った経験はない。教えてもらった知識として、中央部分に礼拝台があり、その前には長椅子がいくつか、端には診療用に机やベッドも置かれているらしい、ということは知っているけれど、今はそれすらも暗闇のせいでうっすらとそれらしい置物があるようにしか見えない。
王都にある大聖堂では、平民についてはここで、貴族についてはここで受付を済ませた後、大聖堂の中に入れる、という徹底した区別を行っていた。
つまり、礼拝堂は、この大聖堂の中で、公的に平民が入れる唯一の場所であり、病や怪我を負ったときに治療を求めにやってくる場所でもある。
少し時間が経ち、より深い暗闇に目が慣れたことで、段々と辺りの情景が見えてきて、僕はその異様な雰囲気の原因が分かった。
家具だけではなく、教会士たちもひしめきあうようにしてそこかしこに倒れているのだ。
僕はそのうち、一番近くに倒れていた人物にそっと近づいて、声をかけようとし、思わずひっと息をのんだ。
その顔は、まるで乾燥し風化して数年経った遺体のようになっていた。
そこまでなっていない遺体も、全身の肌が土気色になってガリガリになり、表面の皮膚は乾燥していて、顔は驚きと恐怖に歪んでいる。目の周りの皮膚が落ちくぼんで、表情が浮き彫りになっている様子が余計に怖い。顔の水分がなくなって、まるで老人のような深い皺が刻まれているものの、教会士のローブに付けられている地位を表す階級章が低いから、きっとこの人は本来はご老人ではなかったんじゃないか?
ヨンサムにはかっこつけて啖呵を切ったけれど、怖いものは怖い。いつ彼らと同じ状態になって転がってもおかしくないんだもの。
死の恐怖と隣り合わせ、というのはこれまで何回もあった。でも、いつものグレン様からの虐待とも、操られた動物たちからチコを助けた際に追い回されて噛み殺されそうになったときとも、ついさっき異形の化け物に殺されそうになったときとも違った、不気味さと恐怖に、心臓が早鐘を打っている。
そのとき、かたり、という小さな音がして、びくっと無意識に身体が動いた。
じっとその場にとどまって様子を窺うも、僕に近づいてくる触手らしきものはない。
「誰か、生きてますか……?」
蚊の鳴くような小さな声で呼びかければ、うぅ……とくぐもったような声が聞こえた。
ごくりと生唾を飲み込んだ後、僕が声を頼りにその方向に可能な限りの早足を忍ばせて向かうと、弱々しくはあるものの、手がまだかろうじて動く人物を見つけた。
この状況で生きている人がいたのは奇跡的だ。無事にここを出られた後に正気を保っていられるかはまた別の問題だけども。
その人物の上半身に縄を括りつけながら、異常がないか、相手の全身を目視で確認すると、その足に何か透明な粘液のようなものが付いていた。
かたつむりの粘液にも見えるし、これは一体なんだろう?
初めて見る物体に手を触れるほど僕も愚かではないつもり(グレン様に何度嵌められたことか)だが、もし僕が片割れの破壊に失敗した場合、これを解析することができれば、正体をつかめるかも……。
僕が、お姉さんたちにもらった空のガラス瓶を伸ばし、それをそっと掬おうとしたとき――
「きゅっ!」
「わ!」
突然発せられた音に一瞬背筋が凍り、すぐさま手を引っ込める。そして声の源を探して――僕のポケットから頭を覗かせている友人に気付いて、恐怖が一気に解けていき、同時に驚きで、ついちょっと大きな声を出してしまった。
「チコ!どうしてこんなところに!だめだよ、早くここから出て!」
僕が本気で叱っているのに、チコはぷーいと顔を背けてあからさまに僕の言葉を無視し、ポケットから飛び降りると、ふんふんとあたりの匂いを嗅ぎ、とととと、と小さな足で入ってさらに奥まで進む。
「チコ!」
チコを追いかけていくと、チコが止まって足場にした場所にも、まだ辛うじて指の動きが確認できる教会士が倒れていた。
僕が慌ててその上半身に縄を括っていると、チコはまた違う教会士の頭の上で立って僕を待つ。
「そうか、チコ。僕を案内をしてくれているんだね」
僕がチコに目をやると、チコは得意げにひげを揺らし、またもや次の人間の元へと走っていく。
チコの首についたグレン様が細工を施したのであろうリボンのおかげで、チコもまだ化け物の片割れには見つかってはいないようだ。
チコは、これを繰り返し、僕が考えていたよりもずっと早く、無数に倒れた遺体の中からまだ息のある教会士を素早く見つけ出してくれた。
「チコ、ありがとう。でも、もうヨンサムたちのところに帰って」
次は縄で合図をし、教会士たちを外に引っ張り出す状態になる。ここまで静かだった化け物の片割れがいつ動き出してもおかしくない。
チコとて立派な魔獣だ。リボンが解ければ最初に食らいつくされる可能性だってある。
だというのに、チコは頑として僕の言うことを聞かず、頑なに僕の傍を離れない。
「チコ、僕は君を死なせたくないんだ。僕だって死ぬつもりはないけど、万が一があっても嫌だから、ね?お願いだからさ」
「きゅーっ!」
僕が切実に訴えても、チコは怒ったように僕の頬を尻尾でべしりと叩き、捕まえられるものなら捕まえてみろと言わんばかりに、手を伸ばせばするりと躱して、肩に乗ったり、頭の上に乗ったりして、僕の手をかいくぐった。
これ以上暴れればかえって危ないことになりかねない。
僕が帰らないのならば帰らないというチコの強い意志を感じ、僕はやむなくチコが胸のポケットにいることを許し、帰すことを諦めた。
「危なくなったら、すぐに飛び出て逃げるんだよ」
僕がその場にあった机の陰に隠れてから、合図の縄を引くと、すぐさま教会士たちに括りつけた縄が外に引っ張られていく。
その途端に、教会士たちの足についていた粘液状の物体が急にわさっと動き始めた。
「げっ、あれ……」
せいぜい化け物の痕跡かな、くらいに思っていた粘液は今じゃ活発に動き出し、外に引っ張られようとする教会士の体を覆うように取り込み始めた。
「化け物の片割れの一部だったのか……!よかった、手を出さなくて……」
粘液状の物体は、生きている教会士たちを包み込もうとしていた。
粘液がその体を取り込むよりも早く外に引っ張り出された、比較的外に近い場所にいた人たちは、そのまま外に身体が消えていく。と、同時に、粘液は、ドアから出る手前のところで諦めたようにゆっくり、ずるずると教会士から離れていった。
その様子に僕は予想が一つ当たったことを確信した。
この化け物の片割れは、おそらくこの建物が壊れない限り、この部屋から出られないんだ。
僕はここに入る前、一つのちょっとした仮説を立てていた。といってもご大層なものじゃなくて、仮にもし僕が本気でお腹が空いていたら、僕は部屋の中になどに籠らずに、外に食べ物を取りに出かけるだろうにな、と怖さを紛らわすために考えていて、ふっと思いついたものだ。
この化け物はそれをしていない。外には、美味しい餌がいるというのにだ。
その答えとして、一つ考えられるのが、あの化け物が動けず、他の生き物を吸収する器官のみを伸ばせるに過ぎず、その器官を伸ばせる範囲も限られているんじゃないか?ということだった。
ほとんど知られていない魔獣の生態を観測し、予測を立てるのも、宮廷獣医師の仕事の内なので、師匠に散々鍛えられていた分野が見事に活かせたのは幸運だった。
でも予想が当たったことを悠長に喜んでいる暇はない。
どうやら化け物の片割れは、あのねばねばを使って反対側から教会士の体を引っ張りつつ、教会士を覆いつくそうとしているらしい。騎士様たちが数人がかりで引っ張ってもこの速度でしか引っ張りだせていないことからして、ほぼ確実に、なんというか、綱引きならぬ人引きが行われている。
そうこうしているうちに、最も奥側にいた教会士たちは、外に出される前に粘液に全身をすっぽり覆われてしまった。
そして粘液の中で、苦し気に歪むその顔の皮膚が、急速に溶け、崩れ、筋肉が露出し始めていた。
「ひっ……!」
粘液の中で人が溶けていく様子などとてもじゃないが直視できず、僕は喉の奥のすっぱい胃液を無理矢理飲み下す。何度も繰り返しても吐き気が止まらないので、無理にその先を見る。
僕が人の救急対応をしたことがない一般学生だったら、この場で卒倒するか、吐いても文句は言われないと思う。
暗くてはっきりとは分からないが、多分、教会士たちの血だろう液体で粘液が赤っぽくなり、その赤い粘液が、部屋の奥に向かっていく。
各物体から細く伸びた粘液のチューブのような先、血で示されたその先に本体があるはずだ。
本体を狙うなら今しかない。
「行かなきゃ……!」
そう思うのに体が固まって動かない。立てないのだ。
「なんで、くそっ……!」
全身汗びっしょりで、恐怖で足と手の筋肉が強張って、頭がガンガンと痛んで、涙と鼻水で視界が酷いことになっている。
「くっ……」
この化け物の片割れを目の前にして、どういう性質を持つか見たからこそ分かる。
グレン様が僕にこの化け物の片割れの掃討を命じたのは、他でもない僕にしかできないからだ。
他の人よりも魔力が少なくて、しかも幸いにして魔力が隠れている僕じゃなきゃ、あのなんでも吸収する化け物に近づくことだってできない。
グレン様は、化け物の本体と対峙しただけでそのことが分かったんだろう。
だから、僕が行かなきゃいけない。
なのに!
あまりに異様で残酷な光景に恐怖のメーターが振り切れたみたいだ。
頭ではやらなきゃいけないこともやるべきことも理解しているのに、それでも今しかないと頭の中で僕が叫ぶのに、どうしたって動けない。体がいうことを聞かない。
必死に冷静さを保とうとしていたのに、恐怖心を再認識してしまった途端、ダメだった。
僕は凡人だ、出来っこない。やりたくない。何で僕が。
こんなの無理だよ。
できなかったって誰も僕を責めたりはしないさ。
僕の弱い部分の甘い言葉に思わず目をつぶって、目の前の光景を記憶から消そうとして、頭を抱えて、ぶるぶる震えて――そのとき、さっき僕が化け物の片割れから逃げるときに見たグレン様の顔が浮かんだ。
あんな怖い化け物にどうしてあの人はあんなに余裕そうな顔で立ち向かえるんだ。
これまでああいう残酷な光景を見慣れていらっしゃるから?
それだけ修羅場を潜り抜けているから?
自信があるから?
殿下をお守りするため?
本当は怖いのに意地張ってるだけ?
どれだとしても、グレン様はああして化け物に立ち向かってる。
僕がここで動けなかったら、限界を迎えたグレン様があの化け物に刺し貫かれて化け物に取り込まれるんだ。――教皇のように。
あの人に庇われてその背中を見送ったのが最期だなんて冗談じゃない。そんなの、絶対だめだ。
僕は自分の意思で、あの人の傍にいるって決めたんだろ!
レイフィー様に約束したんだろ!
「うわぁぁぁぁぁ!」
恐怖とか混乱を必死に押しつぶし、じたばた暴れるチコをポケットから出して安全そうな机の奥に押し付けると、僕は、机の陰から立ち上がって、わき目もふらず奥に走った。




