4 小姓の親友はやっぱり頼りになるのです
なんで僕の目の色がおかしくなっているんだ?
混乱の渦に叩き込まれた僕に悩んでいる時間は与えられなかった。
僕がへたり込んでいた場所に暗い影がかかり、反射的にその場から横に跳び退って転がって離れると、直後に、僕がさっきまでいた場所にびしゃりという湿った音を伴って重い肉がぶつかるのが見えたからだ。
「アイシャ、その人間を食らえ」
さっきまで、外観は人間の女の子だったはずのそれは、既に異形と化していた。しゅうしゅうと蛇の鳴き声のような音を発しながら、長くなった首からたくさん生えた指を動かし、その先に繋がったアリのお尻のような太い胴体をずるりずるりと動かしてこちらに這い寄ってくる様は、想像よりもずっとグロテスクで、先ほど話を聞かされていた僕ですらこの姿には怖気が走る。
あの肉体に押しつぶされたら逃げられずに圧死させられていたに違いない。あの胴体部分についているいろんな生き物の口で噛み千切られるのもごめんだ。
ありがとう本能さん、さっき鬱陶しく追い払った僕を許してね。
僕はすかさず相手との間に例の見えない壁を作ろうとしたが、こちらは失敗だと悟れる。発動の気配もなければ、化け物が引っ掛かる様子すらない。
「この大聖堂で通常の魔術など使えるものか」
遠くから悠々と僕が追われている様子を見ている教皇が嘲笑してくれたとおり、やっぱり魔術は使えないらしい。
となれば、自力で走るしかない!
化け物は見かけによらず動きが早かったが、このくらいならば僕も負けてはいない。
ここでは魔法が使えないが、グレン様との特訓の時に魔法が使えなかったことなんてざらにあるから、走って逃げるのは得意なんだ。
相手の頭突き(と評していいのか突進というべきなのか)を避けて回避しながら、ふと、教皇をぶっ飛ばした頃から、本能的に動けなくなるほどの恐怖がなくなっていることに気づいた。
魔術が使えないなら、さっき僕が教皇を吹っ飛ばしたのは、何だったんだ、一体。
それになんでだろう、あの化け物についても、見た目の醜悪さゆえの生理的嫌悪感は未だにあるんだけど、さっきほどの動けなくなるほどの恐怖も和らいだ。
僕には、グレン様も知らない、隠された魔術の才能があった!……なぁんて能天気なことを思えるほど僕の脳みそは幸せじゃない。そんなものがあるんだったら、これまでなんどもあった生命の危機に反応して才能が開花してしかるべきじゃないか。そんな幻想を持たせないくらいには、グレン様は繰り返し僕を死の窮地に追いやっているはずだ。
やめやめ!こんな考察は後!今は目の前のことを考えなきゃ。
逃げも隠れもできないところで鬼ごっこをしていたら食べられる未来一択だ。
化け物は、少し前から口から酸らしきものを吐くようになっており、僕が避けたことで床に落ちた酸が、じゅわっと床を溶かしている。
酸を避けたと思ったら、今度は胴体から長く伸びたカマキリの鎌のような腕がぶん、と振られ、咄嗟にしゃがんだ僕の頭上を掠めていった。
宗教学の教授だったらきっと今頃最後の髪の毛を持っていかれていたはずだ。
教皇から先ほど聞かされた話も、僕の現状も意図的に頭から消す。考え始めたら、即最悪の未来が待っている。
そういう切り替えができるくらいには、グレン様が僕を鍛えてくださっているのも知っているから。
だからお願いだ、グレン様、早く迎えに来てほしい。そして僕を軽く笑い飛ばしてほしい。
相手の言葉に惑わされるなんて、本当に使えないって――
化け物の攻撃を躱しつつ、ようやく、さっき入ってきた出入口にたどり着いてその空間から抜けようとしたまさにその瞬間、鼻をその場に強打した。走り込んできた勢いのままにぶつかったもんだから、犠牲になった鼻から血の臭いがする。
すぐに立ち上がってもう一度足を出したら今度は足をぶつける。
目の前には何もないのに、まるでグレン様の作るあの見えない壁のようなものがそこにある。
「なんで!?魔術は使えないんじゃ?!」
「飛び込んできた獲物を逃がすわけがなかろう」
僕は魔術を使えないのに、教皇は魔術使えるの?ずっるい!
背中を向けていたせいで、迫りくる鞭のような触手に気付くのが遅れた。
無意識に防御魔法でダメージを軽くしようとした僕は、それを大聖堂の特殊な力に阻まれてできないままに、横っ腹を思いっきり殴られ、吹っ飛ばされた。
「かはっ!」
まともに壁に打ち付けられたせいで肺に残っていた空気が抜ける。
唯一庇えた頭を打ち付けなかったとはいえ、壁と頭の緩衝材になった左腕が変な方向に曲がっている。
呼吸が苦しい、肋骨も何本か持っていかれたな、これ。
そりゃ、防御魔法もないままに力いっぱい壁に打ち付けられたら人間の体って簡単に折れるよね。痛いとかそういうレベルではない。
軽い脳震盪も起こしたらしく、視界がぐらぐらして立ち上がることすらままならない。
そんな僕に向かって化け物が突進してくる。
あ、やばい。これ、本当に絶体絶命――
「エル!顔を防御しておけ!」
小姓としての僕はその命令に反射的に反応した。
僕は右手で顔を庇って防御魔法を編み、同時にガシャンという音とともにこの部屋の天窓が砕け散った。
僕の目の前に迫っていたはずの化け物が僕に触れることはなく、代わりに凄まじい爆発音が響いた。
「エル、無事か!?」
「ぐ……い……イアン様っ……!」
見慣れた黒髪の騎士の姿に思わず、じわりと目に涙が浮かびそうになった。
ほっとしたことによる安堵でいっぱいになったから、と言いたいところだが、僕自身の偽らざる本音に僕自身がすぐに気づいてしまって苦々しい思いになった。
そこに来てくれることを望んでいた人と違っていたことに対する微かな落胆がなかったと言えば嘘になってしまう。
傍にいても、大抵、碌なことはないというのに、こんなときだというのに。
どうして僕は、あの人の姿ばかり、追いかけてしまうんだろう。
イアン様は、手に持った爆薬らしき液体の入った瓶をそこら中に投げつけ、爆炎をかいくぐってくる触手らしき何かを凄まじい速さの剣戟で切り落としていく。
「ヨンサム、エルを確保して撤退だ。ここから抜けるぞ」
「はい!」
僕がよろよろと起き上がろうとしては失敗していると、イアン様の傍から聞き慣れた声がして、声の主であるヨンサムが僕を、ひょい、と肩に担ぎあげた。
イアン様が、先に行け!とヨンサムに命令し、ヨンサムはその命令通りに僕を抱えると、さっき僕が見えない壁に阻まれて抜けられなかった通路からそのまま走って飛び出した。
「エル、生きてんな!?死ぬなよ!」
「死なない、死なないから、頼むから……ちょっと離れたら下ろしてくんない……?今肋骨折れてるっぽくて……」
まさに肋骨当たりを抱えられ、肩に乗せられた荷物のごとく運ばれる僕が息も絶え絶えに頼むと、ヨンサムは、少し考えるような顔をした後、僕を横抱きに抱え直し、そのまま猛然と走り出した。
「えっ、ちょ、ヨンサム!?僕は、下ろしてって、言ったんだけど?!」
「そんな余裕ねぇよ!この方が早ぇだろ!」
「こんな、息苦しい状態で、お姫様だっことか、されても、なんの感動もないんだけど……」
元気なときにされたらそれはそれで気持ち悪いという感想しか持たないかもしれないことは置いておく。
「そんな呑気なこと言ってる場合かよ!この方が肋骨への負担が少ないだろうが!それより、俺がお前を抱えて走るから自分で治療しろよ!俺、走りながらそんな器用なことはできねぇから!」
「ここ、魔法が使えないんだよ!治療も何もないだろ!?」
「大丈夫だ、もう使えるから。お前だってさっき防御魔法使っただろ?」
言われてみれば。ガラスの破片が降ってきたけど、僕には当たってない。ということは、防御魔法は成功していたということだ。
ヨンサムに抱きかかえられたまま、辛うじて動かせる右手を脇腹にあてて治療を開始すると、痛みが徐々に引いていく。
細胞が活性化し、じんじんとした痛みが引いていくのは急速に回復しているから、のはず。
そうと分かればと左腕の治療にも取り掛からねば。
僕が治療に専念している中、ヨンサムは僕を抱えたまま、階段を駆け上がったり、途中にあるドアを蹴り壊したりしながら走っている。僕は進行方向に後ろ向きになっているので状況がよく分からず、とにかく治すことだけに集中した。
「治せたか?」
「うん、まぁ、とりあえずは」
回復魔法も万能じゃないし、僕の負傷は結構ひどかったみたいだから、今の僕では、一時的に骨を繋ぎ合わせて、動ける程度に回復させるのが限界だ。きちんとした治療を受ける前に無理に動かせば回復した細胞が簡単に壊れて、完治に時間がかかることになる。魔術は万能じゃないのだ。
「なんでさっきは魔術を使えなかったのに今は使えるんだろう」
「あーそれな。俺もさっき知ったことなんだけどよ。この大聖堂そのものの骨組みにいくつもの魔封じの魔石を使ってるらしーぜ。しかもそれを全部壊さないと話になんねーようになってるから、イアン様の隊でここに侵入して、それ全部壊して回ってたんだよ。んで、さっき天窓の上の最後の一つをイアン様が壊したから、魔力が使えるようになったってこと」
「でも教皇は魔術を使えてたよ?」
「それは、教皇が使えるんじゃなくて、そこに魔封じの力が通らないような設計になってたかららしいぜ?」
「というと?」
「あの通り道だけ、建物の構造上、魔力が通じるように元々作られてたってことだな。あの場所は、なにかを閉じ込めるのに使われてた場所だったんだろ」
ってことは、あそこにあったのはやはり魔力の蓋のようなもので、あれは魔力勝負で力づくで破るのが正解だった、ということだ。
教皇の魔力に僕の魔力が勝てたか、それをしている最中に化け物が待ってくれていたかということを踏まえて考えれば、実質的にあそこから僕一人で脱出することはできなかったと思う。
「ヨンサム、そんな難しいことよく分かったね……!ヨンサムに知能戦ができたとは」
「グレン様がイアン様に伝えてて、それを聞いてただけ――ってお前、助けに来た俺にさりげなくなんて失礼なこと言ってんだ、落とすぞこら」
「まぁまぁ。ヨンサムの日ごろの成績を知ってるがゆえというか……あ、そうだ。僕の目、おかしくなってない?」
「おい、今度は目を疑って俺を馬鹿にするつもりかよ?」
「違う違う、その……さ、さっき、あの化け物に目元を殴られてさ!目、充血してたり……ほら、目の色がなんか、こう、違う色をしてるってこと、ない?」
ヨンサムは僕の煮え切らない言い方に怪訝そうな顔をした後、僕を見やると僕の顔を確認した。
客観的事実に注目すれば、男女がお姫様抱っこの状態で見つめ合ってることになるんだろうが、女の方は血と泥とほこりにまみれて小汚いし、男の方は、(戦闘時を除けば)一度に二つ以上のことをできないタイプだから、走りながら僕の目を観察するという高度技術を使ってるせいでまるで親の敵を見るような険しい顔になっている。
ここまでロマンの欠片もない見つめあいがあるだろうか、いやない。
「別になんもねぇけど?」
「ほんと?!目も青色だよね?」
「そりゃそれ以外になにがあんだよ。目の回りも特に腫れてたりはしねぇよ?」
「よかった……!ありがとう」
「いつにもまして変なやつ」
「いつにもまして、は余計」
「さっきの仕返しだっつーの!」
あれ、そうするとさっきの黄金色の目はなんだったんだ?
教皇の魔術?いやでもあそこは使えない場所ってことになるし……。よく分からない。分からないことだらけで頭が爆発しそうだ。
「それにしても、なんでイアン様方が僕を助けに来てくださったの?」
イアン様は殿下の警護もあるはずなのに。僕などを助ける要員にするには少々位が高すぎるはずなのに。
「グレン様から報告を受けた第二王子殿下が、国王陛下の勅令なしにすぐに動かせるのは、ご自分の第一警護をしているイアン様の隊だけなんだよ」
「イアン様が離れて殿下の警護は大丈夫なの?」
「んー、第二王子殿下は城で、国王陛下と王太子殿下と緊急の会議に入られたから、一番安全っちゃ安全な場所にいらっしゃるし、あと、一応、最近辺の警護としてクロフティン様が付いてらっしゃるらしいぜ?」
イアン様のいない殿下を警護しているのが、グレン様じゃない?グレン様、本当に一体どこで何をしているんだ?
まさか、本当にリッツを……?いやいや、そんなことない。そんなことないはずだ。
そういえば、ヨンサムはリッツが今どこにいるか知っているんだろうか。リッツは、お昼僕と一緒に黒づくめに襲われた後、キール様に城に運ばれたはずだから、もしかしたら知ってるかもしれない。
「ヨンサム、あの、その、リッツのことなんだけど……」
「その話は後だ」
さっきまで軽口にすら応じてくれていたヨンサムの口が急に重くなったことに、僕の中での嫌な予感は急速に膨れ上がっていった。




