099. 王女の記憶と王子の覚悟
神殿を思わせる、円形の美しい部屋だった。
壁にずらりと並ぶ扉の数は両手の指の数より多く、しかし正確な数はわからない。私が出てきた扉以外は、消えたり現れたりを繰り返している。
床は数種類の石で出来ており、複雑に編まれた紋様が浮かび上がっている。一部の素材は魔法石と見える。
それでいて、中央に立つ大剣は、やわらかさをもつ大地に突き立てられたかのように自然と床に刺さっていた。刃の触れた箇所にも妙な綻びは見えず、ぴったりと嵌まっているようで……。
しばらく部屋と剣を観察していると、視界の端で何かが動いた。
「おや、先を越されてしまいましたか、オフィーリア姉上」
「セルジオ王子」
私と、剣と、彼とが一直線に並ぶように。向かいの扉から出てきたのは、黒髪のセルジオ第二王子だった。
「さすがですね、姉上。ご無事のようで何より」
「ええ、貴方も」
私同様、迷宮探索の過程でかすり傷をつくったり汚れたりはしたようだが、特に大きな負傷はなさそうに見える。本当に、何よりだ。
「我が婚約者は、まだのようですね……。姉上もイラリアさんと道を分かれて、幻の間からここに?」
「ええ、そうです。あの子も、まだ」
「ちょっと待ちましょうか」
「そうですね」
私とセルジオ王子は、ふたりとも剣に触れてみることなく、互いの婚約者が戻ってくるのを待つことにした。ここで気が合ってよかった。
自分が出てきた扉の前に腰を下ろし、待つ。二枚の扉以外は、またくるくると消えたり現れたりする。
「――先日の夜のことですが」
切り出したのは、彼の方だった。
「僕が、イラリアさんを誘ったんです。兄上のいる島に行くのに、ついてこないかって。それで、港町にいたんです」
「あの方に……。そう、会おうとして会えるものなのですか」
「いえ、無理でした。風の勇者殿に邪魔されたっていうのもありますが、そうでなくとも、無理があったんです。王太子決定の儀を前にして、僕も変になっていたところがあったんだと。勢いのままに発って、婚約者にも何も言わずに来て」
「……そう」
「それなのにイラリアさんには、って、おかしいですよね。すみません。なんでだろ……。彼女の方は、監視役のつもりで来てくれたのかもしれません。僕、変だったから。……あっ、流れでお酒は飲みましたが、やましいことは何も。僕らの方が先に潰れましたし」
「そこは心配していません。信じておりますわ」
「もう一度、兄上に会いたかった。話してみたかった。彼が覚えていないのは、わかったうえで。でも、僕の兄上だから……。すみません、姉上は、彼に酷いことをされたのに」
「いえ、ちょっとだけ、私も、わかる気がします」
「――僕、ずっと、兄上のことを見ていました。母上の国にいる間も、母上の嫁入り道具の鏡を借りて。全部ではないけど、バルトロメオ兄上のことを、ずっと。気持ち悪いかもしれませんね。それでも、優しくて何でもできた兄上は、僕の憧れで。あれがすべて演技なのだとしても、大人びてかっこいい兄上みたいに、なりたかった……」
この世界のバルトロメオは、私にとってのいわゆる二度目の人生の記憶を継いでいた。
三度目の初対面の時の彼は、私に優しげだった。
当時まだ彼に仕えていたアルベルト・ゼアシスルことアルティエロ王子が私を殺そうとするまで、暗殺未遂事件が起きるまで。
ずっと彼は、気味が悪いほど優しかった。
セルジオ王子が見てきたバルトロメオも、そうした演技の仮面を被った「バルトロメオ兄上」だったのだろう。
「兄上を壊したのは、貴女だ。貴女が帰ってきてから、兄上はおかしくなってしまわれた。――兄上を壊した責任をとれ。一時は、そう、貴女を責めたくなった。でも」
セルジオ王子は、声を荒らげることなく、静かに語る。
「それを言うなら、王位継承権のことで惑わせた僕の存在のせいでもあって。兄上があんなことをしたのは、結局は兄上のせいで。誰が悪いと言えば、あんなことを起こした兄上本人です。貴女には、八つ当たりしそうになっていただけでした。ごめんなさい、姉上」
「貴方様が謝られることではありません。私は、貴方には、何も悪いことをされておりません」
「……アルティエロ兄上も、姉上に……何かとても悪いことをしたのだと、聞いています。僕の兄は、どちらとも、姉上のことを」
「私と彼の間に何かあっても、貴方が気にすることはありませんから」
「はい、オフィーリア姉上」
そうして私たちの間には、しばらく沈黙が降りた。
「――セルジオ王子」
今度は、私から切り出した。
「王には、貴方がなるべきです」
「え?」
「王太子の座は、貴方に」
「でも、先に着いていたのは姉上ですから……」
「剣を抜いても、その者が王太子に決まるわけではないでしょう」
「……なぜ、そのようにお考えに?」
「そういう気がしませんか? 選ばれし王子と王女には伝わるものなのかと。過去にもここに来たことがあるような光景が、頭の中に」
「――フィフィ姉さまーー!」
「っ、イラリア!?」
ばぁん! と勢いよく、私の右隣の扉を開け――あれは自然と開くはずだが、待ちきれずに無理やり押したのか――イラリアが飛び出してくる。ものすごく元気そうに。
「イラリア!」
「フィフィ姉さまぁ! 会いたかったですよぅ」
「まだ一時間も離れていないんじゃないかしら? 甘えたさんね」
ちなみに、この魔法迷宮に時計はない。古式に則り、今日は持ち込みも許されていない。
現代の一般的な時計だと、この空間では狂うのではないかとも思われた。
――ここは、魔法迷宮。魔素濃度が高い空間。そして……。
「でも、私も会いたかったわ。おかえりなさい。大丈夫?」
「はい! 元気いっぱいです! 姉さまのお母さまにお会いしたので惚気けてきましたよ〜」
座っていた私に被さるように抱きついてから、イラリアは「あらっ」と声を出す。向かいにいるセルジオ王子の存在に気づいたようだ。
「第二王子殿下。意外とお早いこと」
「やはり、完敗です」
セルジオ王子は穏やかに笑って、立ち上がった。
「貴女がたには勝てない。オフィーリア姉上の勝利だ」
「――あら、まあ。お姉様に敗れてしまったの? セルジオ様。よしよし、膝枕しましょうか?」
「ミナ、今はやめて」
彼の隣の扉から出てきた姫君――ミナ姫も、現れるや否や婚約者にぴたりとくっついた。意外と仲がよろしいご様子。
「でも、オフィーリア様は剣を抜いていないのね?」
「抜いたら何かが起こりそうだからね。ミナたちを待っていた」
「代わりにセルジオ様が抜いてしまったら? 今」
「僕らより先にここに来たのは姉上とイラリアさんだから、姉上にやってもらうよ。絶対に」
「――アルティエロ王子が来るまでは、待ちましょうか」
「姉上に任せます」
「では、抜きます」
えっ、と重なる声がした。セルジオ王子、イラリア、ミナ姫、みんなが声を出していた。
「もうですか姉さま? あいつのこと待たないの? この流れで?」
「ええ」
私は立ち上がり、剣の柄に手をかけ、彼に訊く。
「セルジオ王子。本当に、剣を抜いたら王太子になると今もお思いに? 貴方の目に違う光景は見えませんか?」
「僕には、さっぱり、なんのことだか」
「なら、この景色はなんなのでしょう――まあ、とりあえず」
こうするのが正しいと、誰かの記憶が知っている。
――貴女は、誰?
だから私は、剣を抜く。
と。
「姉ちゃん……?」
「――レオン?」
四つの扉が開いて、三人の魔法使いが現れた。
一。レグルシウス国の炎の勇者、レオナルド。
私の義弟であり、隣国で一緒に鍛錬を重ねてきた騎士でもある。白銀の髪に琥珀の瞳をした凛々しい少年だ。
二。彼の婚約者で、同国の新米聖女、クララ。
まだ公表はされていないが、つい先日、レオナルドへの〝愛〟で覚醒した。
ふわふわした飴色の髪に、サファイアのような群青の瞳。いかにも可愛らしいお嬢様といった容姿ながら、彼女もまたひとりの武人である。
三。ファリア・ルタリ帝国の風の勇者、カスィム。
皇族なる〝殿下〟と瓜二つであり、アルティエロ王子と繋がりがある。私を気絶させて誘拐に協力していた、よくわからない要注意人物。
灰銀の髪に朱の瞳をした男だ。
「あれ、アルティエロ兄上は――?」
ただひとつ、開いたのに誰も出てこない扉の方を見てセルジオ王子が呟く。
開いた扉は八つ、居るのは七人。
――この迷宮で〝お兄様〟は死んだ。
私の頭に、誰かの記憶が流れ込む。
――ここで〝わたくし〟は剣を抜いていないのに、王には〝わたくし〟がなった。
知らない戦の光景が脳裏を赤く染める。
――✕✕✕✕、なんて、なりたくなかった……!
誰かの首が、落ち、る。
「セルジオ王子。あとは託しました」
「姉上!?」
豪奢な剣を彼に押しつけ、開いたまま誰も出てこない無人の扉へと向かう。
「アルティエロ王子を迎えにいきます」
「フィフィ姉さま、私も」
「貴女はここで待っていて、危険かもしれない。私は騎士で、聖女だから。――行ける」
姉ちゃん、姉上、と。義弟のレオンやセルジオ王子の声がした。イラリアは声を張り上げた。
「それはっ、正しいことなのですか? フィフィ姉さま」
「イラリア」
魔法迷宮は、正しく攻略すれば、挑戦者の命を奪わない。しかし間違えれば、時に命を奪う。
ここで私が他の道を行くのは、きっと、正しくはないこと。
それでも。
「今度の争いでは誰も死なせないって誓ったから。私の世界で、これは正しいわ」
三国の勇者と聖女が集う部屋を抜け、私は駆けた。
扉は、閉じた。
そこに幻の間はなかった。
前の部屋に出た。
いない。
「アルティエロ王子――殿下――お兄様――!」
あの夜の彼の言葉が、心の片隅に引っかかっていた。気になっていた。
『今日しかなかった』
帝国の勇者との都合で、というだけのことかもしれない。あの日の私と彼は実習期間で、いつもと違って。私をあのように攫うには、たしかに、あの日しかなかった。
でも、もしかしたら。
――この儀式の最中に死ぬことを覚悟して……!
知らない記憶に騙された、愚かな私の杞憂であるならそれでいい。
だが、しかし。
ふわり、漂うその匂いは、私の意識を強く引っぱる。持っていく。
こんな血の匂いを、よく嗅いできた。
扉を開ければ、
「――アルティエロ王子!」




