098. 「さよなら、殿下」
遠い、遠い、昔の話。
身重の母は、二歳の私にこんな話をした。
『フィフィは……、どんなひとを、好きになるのかしら』
己の死が間近に迫っていることを、母は察していたのかもしれない。二歳の子と話すには早すぎる恋と結婚のお話だった。
『貴女も、貴女の父さまが私と結婚せざるを得なかったように、好きでもないひとと結婚することになるのかもしれないわね。貴女は、私にそっくりだから。兄さまは、貴女を……』
朽葉の髪に灰の瞳。私は母の生き写しと言われた。
母の葬儀の時、ご乱心の陛下は、私を幼い頃の母だと勘違いなさって……私を母の亡霊だと思われて……。
私を「リアーナ」と呼んで、ぬいぐるみのように抱きしめて、泣きながらいろいろな話をなさった。よく覚えていないことなのだけれど。でも、そうだった。
それから、バルトロメオとの婚約話が出る六歳の春まで、私が陛下の御前に出されることはなかった。
陛下は、葬儀の日のことを、私のことを覚えておいでではなかった。二歳だった私も記憶にないだろうということで、あの六歳の日が初の謁見ということにされた。
父は、私を隠していた。私は彼に守られていた、のか。彼はただ陛下から「リアーナ王女」のことを遠ざけたかったのか。それはわからない。
『兄さまの子と、結婚したりするのかしら……。そしたら、フィフィは王妃になったり? まあ、大変。仲良くなれるといいわねぇ。難しいかしら。王子や王女って、性格に難ありだから……って、うふふ、兄さまは私にお優しかったけれどね。他の方々は、兄や姉なんて呼びたくもない』
身分の低い側女から生まれた末っ子の母は、父を同じくする王子や王女に疎まれ、虐げられていた。現国王陛下だけが頼りだった。
『ええ、でも、このことは覚えていて。貴女の母さまは、父さまを愛してた。私は、あのひとを愛していたわ。心から。どのくらい愛していたかと言うと、そうね――〝あなたと一緒になれないなら死んでやる〟そう思っちゃうくらい』
冷たい冬の中で、母は、少女のようにくすくすと笑った。
父に殺される母は、愛した夫に腹の子と一緒に命を奪われる女は、小さな娘に最後の元気な笑顔を見せた。
『あの花の話をしましょうか、フィフィ』
雪が降っていた。
死雪花の話を、花言葉を教えてもらった。
――あなたと一緒になれないなら、死んでやる。
「きらきらしていて、宝石のようで。かっこよくて、素敵な方だとおもいました。一目惚れだったかもしれません。でも、それだけじゃなかった」
どうせ叶わぬ恋ならと、見えないように隠してしまった。塞いでしまった。一度目の世界の恋心。
でも――もう一度でいい、あと一度だけでいいから――向き合っておかないと。私は一生、この恋と傷を引きずる。
「私たちは、結ばれませんでした。私は王妃の器ではなく、貴方も王の器ではなかったのでしょう。重圧に耐えきれなかった。でも、かつての私は、ずっと見ておりました。貴方が頑張っているお姿を」
「貴様、不敬だぞ」
「殿下は、寂しかったのですよね」
「はっ?」
七歳にして傲慢な様子の彼は、ギロリと私を睨みつけた。ぜんぜん怖くない顔で。愛らしい子どもの顔で。
「隔世遺伝とでも言うのでしょうか、先王陛下に似ていらっしゃって。平民の生活にも思いを馳せるお方でしたね。楽しすぎたからか、つい忘れていたのですが、殿下は覚えておりますか? 視察だと言って、ふたりで街に出かけた時のこと」
「……知ら、ない」
「あの日の横顔が、好きでした。思い出を美化しているだけかもしれないけれど。私は――貴方の婚約者だったから、貴方の隣を歩むために育てられた女だったからこそ、あんなにも強く〝未来の王妃〟を目指して、壊れるくらいに励めたのです。陰ながら頑張る貴方の姿を見てきたから」
「俺は、頑張った、けど……頑張ってない……」
「意外とお馬鹿さんですね。殿下」
「馬鹿ではない」
「私も馬鹿でした。貴方が寂しい目をなさるのに気づいていながら、理由をわかってさしあげられなかった。陛下が、私ばかりを可愛がるから、貴方に厳しく当たるから、貴方は寂しかったのに」
「言うな、それは……、言うな」
「父さまの愛を感じられなくて、寂しかったですね。私の母さまは亡くなっていて、殿下の母君はお元気でしたけれど。お家で愛されていると感じられなくて、つらかったのですね。私たち、ふたりとも」
「オフィーリア!」
一度目の世界では、私、義妹とも仲良くなれなかったから。
「ふたりとも一番になれと育てられて、いつしか対立して。でも、私たち、本当は。相手の愛を望むなと教えられたけれど、本当は。婚約したからには、選ばれたからには、ちゃんと」
「もう、黙れ」
――あの時の私には、貴方だけでした。
「貴方と、家族になりたかった。かつての私は、」
――私は、貴方の家族に、なりたかったのです。
「貴方の家族に、なりたかった」
「……だから、黙れって」
これが、一度目の世界の私の想い。二度目や三度目の私が見ないふりをしていた過去。
こんな単純なことだった。
寂しくて、寂しくて、隣にいる彼と家族になる日を夢に見た。親からの愛に飢えて、居場所が欲しくて。
馬鹿みたいに一緒に頑張っていた私たちなら、いつか、共に歩めるとおもった。
「私から家族を居場所を奪った妹が貴方まで奪ったから、私はより強くあの子を嫌い憎んだ。あの世界でも父さまの毒薬に脳を壊されて馬鹿になっていて、醜い嫉妬に狂ってあの子を殺してしまった。貴方が、あの子と家族になって幸せになれるなら、私はそれを祝福するべきだったのにできなかった。私も幸せになりたかったの」
「人は欲深いから、仕方ない」
「うふふ、子どもらしからぬことをおっしゃいますね。でも、貴方らしい……。私も、あの子も。一度目も、二度目も。貴方をひとりにしてしまった。寂しがり屋の貴方を置いて逝ってしまった。ごめんなさい。私を処刑すると決めたのも貴方で、私に毒薬を飲ませていたひとりも貴方だったけれど。私が罪を犯さなければよかった。気づいて止めてさしあげられたらよかった。貴方にだって、自殺なんて、選ばせたくなかった……っ」
「そなたもイラリアもいない世界なんて、まあ、面白くなかったからな」
「――あら、いつの間に」
瞬いていた間にか、バルトロメオの姿は変わっていた。私も見たことがない姿を、今の彼よりも大人であろう姿をしていた。
いきなりの変身にはびっくりしたが、そうだ、ここは、魔法迷宮。ここは、きっと幻術の部屋。
私の心を読んだかのように、大人びた彼は低い声で答えた。
「ここは深層心理の世界であり、幻や亡霊が暮らす世界。どこぞの異世界のゲームのデータとやらも残っている」
「あら、そうなの。でも、これも試練のための設定かもしれないわね」
「そう考えてくれてもいい。今ここは、まさにゲームの中なのだから」
「おいくつですか?」
「三十代とだけ」
「大人ですね」
三十代にしては、若々しくて美しい。悔しいが、さすがと言うべきか。過去に惚れた顔だけのことはある。
「殿下……。あら、殿下でいいのですか?」
「殿下でいい。さて、せっかくの機会だから、そなたに教えよう。そなたにとってのいわゆる一度目の世界の俺は、しぶとく生きている」
「そのようですね」
「きっと深層心理でそなたに会いたかったからここに現れただけで、まだまだ死んでいない」
「貴方は後追いなさらなかったの?」
「どこかの誰かに感化されてか、父上に利用されてか、ホムンクルス研究なんぞをしているんだ」
「あらあら、まあ」
「この場の存在を知っているのは、つまり、そういうことだ」
「貴方のいる世界でも、魔法迷宮は開かれたと」
「ああ、父上のご意向は、どこでも変わらない。二度目もそのようだ。二度目は、みんな……。ああ、いや、そなたの息子は存命だったか」
「ドラコのこと?」
「並行世界とは、こんな場でなければ繋がらないから、言っておく。そなたが死んだ後の世界でも、そなたを想っていたやつらは誰かしら生きている。そなたや俺がいなくなったくらいで、俺らの国は傾かない」
三十代の大人なバルトロメオは、ものすごく優しい眼差しを、びっくりするくらい温かい瞳を私に向けた。
「だから、今の世界で、頑張って生きろ。オフィーリア」
「……!」
幻でも、何でも。彼にこんなことを言われるとは思ってもみなかった。
こうして揺さぶりをかけるのも試練の一環なのだろうか? わざと私に嬉しい言葉をくれて惑わせているのだろうか? この言葉に騙されてはいけない?
「ゲームのデータに初恋相手を決められた、強制力に振り回された亡霊の戯れ言だと聞いてくれて構わない。酷いことも何度もしたな。すまなかった。ただ、最初の世界の俺は、オフィーリアが、初恋だった。――オフィーリア・ハイエレクタム。そなたを、歪んだ形ではあったが、想っていた」
「もう、ハイエレクタムじゃありません」
「ああ。今のそなたは、オフィーリア・フロイド・リスノワーリュだ。ずいぶんと面白い人生になってきたようで。新たなデータが刻まれる時を楽しみにしているよ」
「このゲーム、やっぱり私に甘いんじゃないかしら」
「そう感じるなら、そなたが成長したということだろう。この幻の間は、挑戦者の心を試す場だから。まったく惑わされずに、真っ直ぐに破ったな。見事だ、オフィーリア」
ぱあっと、私の背後で何かが強く光る。漏れた光が彼を照らして、とても綺麗だった。
眩しさに目を細め、私は言う。
「その言葉さえ、私を誘惑しているように聞こえます」
「あはははっ、誘われてくれるのか」
「いえ、今の私には、イラリアがおりますので。彼女の隣に帰らないと。殿下も変わられましたね」
「そうだな。ならば、もう行け。あちらに進め」
「さっきの道を戻るのでいいのですか?」
「さっきの道を戻っても、出る場所は違っているから」
「ねえ、殿下。最後に、ひとつ」
「ああ、なんだ」
「婚約破棄や処刑のこと、どう思っています?」
「……とても、悔やんでいる」
「私は、この世界のバルトロメオから、記憶を消してしまいました。貴方のように、今の彼も。記憶があれば、いつか悔やんで、反省して……」
「その機会さえ奪われたのが、あいつへの罰だ。それでもあいつだって生きているから、成長はする。記憶は戻らなくても、いつか何かの形で自分の所業を知って、後悔することもあるのかもしれない」
「そういうもの、ですか」
「なあ、オフィーリア。俺からも、ひとつ」
「なんでしょう」
「国王陛下のことを、父上のことを、頼む。そちらの世界の俺では、もう父上と話すことも叶わないから」
「……はい。貴方がいなくて、王妃殿下もお寂しそうなので、私たちで支えます。頑張ります」
「ああ、そうだな。母上のことも、どうか」
「貴方は、国王陛下にも、王妃殿下にも、愛されております」
「こっちの俺は、もう知ってるよ。だが、ありがとう」
「今度の世界では、健やかに長生きしてくださいね。幸せになってください。いつか平民だったらとおっしゃった殿下ですもの、今の暮らしは楽しいでしょう? 畑を耕したり、魔法石の採掘をしたり」
「俺に言うな」
「貴方が彼女を好きなようにするために研究させた、悪い薬なのに。自業自得なのに。記憶を消すなんて酷いことをしてしまったと、どうして私の方が傷ついているのでしょう。まったく酷いひと!」
「だから、俺に言うなって、馬鹿。……ごめんな」
「あちらの世界で、大人になった貴方が、私を覚えてくれているなら。私の想いは、もう報われております。……ありがとうございます、殿下」
これは、一度目の私――オフィーリア・ハイエレクタムのこと。
「俺も、なるなら、こういうふうに王太子になりたかったな」
「バルトロメオ殿下」
「ああ」
「私も、貴方が、初恋でした」
私たちの初恋は、今やっと、こうして終わる。
「さよなら、殿下」
「さよなら、オフィーリア。――いってらっしゃい」
私は彼に背を向けて、歩きだす。もう振り返らない。
先ほど通ってきた道には、もう霧はなかった。代わりに出口には扉があって、その前にはもうひとりの幻がいた。
「――母さま」
「久しぶり、フィフィ。大きくなったわね」
「うん……」
二十代の半ばも迎えることなく亡くなった若い母は、もう私より背が低くて、とても可愛らしい方だった。
「あれが、貴女の初恋のひと?」
「うん」
「親子ともども、変な男を好いてしまうわね。口が悪くて、時に暴力的で、決められた相手がいるのに他の女を愛して」
「うん、でもね」
「なぁに、フィフィ」
「父さまにも、殿下にも、どこか素敵なところはあったから。全部が悪いひとなわけじゃないから。いいところを見てしまって、私と母さまは、彼らに恋したのでしょう?」
「……そうね。私たち、駄目な男に惹かれてしまう、そういう駄目な女なのかもしれないけど。でも、本気だったわ。とても好きだったわ」
「母さま」
「うん?」
「私のこと、生んでくれて……ありがとう。私、心臓も子宮も、駄目だけど。もっと生きられるように頑張るから。一緒に生きたいひとがいるからね、」
母さまの灰色の瞳は、優しい。
「まだ、母さまのおそばには、いけません」
「お墓で、お空で、いつも聞いているわ、見ているわ。知っているわ」
「うん」
「のんびり待っているから、頑張っていらっしゃい、フィフィ」
「……うん!」
「愛してるわ、フィフィ」
「私も、愛しております。母さま」
自然と扉が開いて、懐かしいぬくもりに背中を押されて、私は幻の世界の外に出た。
「――あっ」
そこには、剣があった。
床に、大剣が刺さっていた。




