096. 貴女に世界でいちばん愛されるのは
「傷つけて、痛くして」
「はい」
赤い痣を消すように。貴女の白い歯で強く噛んで。薄紅の爪で強く引っ掻いて。
「キスは、まだ、貴女としか、知らないから……」
「はい。この世界の私の唇も、姉さまだけのものです」
「もっと、して」
「はい」
息が苦しくなるように。溺れるように。キスをする。
「――ねえ、イラリア」
「――イラリア、ごめんなさい……」
「――愛してる、イラリア」
どのくらい彼女を求めていたのかわからない。でも、まだ暗い。外にも日が昇らない。暗い、暗い。
「もっと、ちゃんと、壊して……まだ足りない……」
「もう、いいよ、フィフィ姉さま」
「……こんなにっ、しても、貴女に愛されても! 私の体は、変わらないの」
痛く、酷くされても。彼女に何をされても。このベッドの上では、泣いていなかったのに。
どうして、今になって、泣いてしまうのだろう。このことを思うと、涙が出るのだろう。今更なのに。
「私は、子どもを生めない……。何をしても貴女との子なんてできない、男に抱かれても誰の子もできない……! 意味が、ない。心しか変わらない。この体は、日々、壊れて、老いてって。あとは穢されるって貞操のことしか、もう、残ってない」
「フィフィ姉さま」
「でも、私の処女に。男に抱かれてないってことに。価値なんて、ないでしょう。どうでもいいの。何されたって、どうでもいいはずなのよ……」
どうしたって、どう頑張ったって。
『――この、嘘つき女め。……ああ、女と言うのは、』
『子を生めないのだものな。可哀想に』
『お前と違って彼女は健康だから、いずれ子が――」
『嫉妬深いお前でも、さすがに祝福して』
『ああ、泣かないでくれ――』
私は、悪女や聖女であっても、女じゃない。
世界から女として見てもらえない。
「……イラリア、なんで、セルジオ王子と、勇者さまと、一緒に居たの。貴女を騙したって、誰の、何のこと。賭けって何」
「セルジオ殿下とは、ちょっと……今度の儀式関係のことで一緒にいて。そこに勇者さまが来て、三人ここに。お酒の飲み比べで、私が勝ったら、姉さまの体のこと、治す方法を教えるって、それで。負けたら結婚するって話で、自信があったので。でも、そんなの、なくて……」
「…………あの方の言葉は、的外れでは、なかったのね……そう……」
不妊治療の話で誘いだしたと言っていた。国外での結婚を企んでいるのかもと言っていた。それが勇者のことだろう。セルジオ王子のことは、よくわからないけど。
これだけ聞ければ、もういい。
もう、いい。
「私のせい……? 私が、赤ちゃん、生めないから? 貴女まで、結婚なんて、そういう……」
「違うよ、フィフィ姉さま。姉さまのせいじゃないっ」
べつに失望なんてしていない。イラリアは、こういう子だ。
結婚。その裏にあるものがわからないほど無知でもないだろうに、彼女は乗った。私のためだ。
私のためにと彼女がそうするかもしれないとは、覚悟していた。彼女がわかってくれないことも、わかっていた。
ただ、ちょっと、思わぬところでそれが訪れただけ。彼女がまた自覚なく彼女の大切な体を傷つけかねない真似をしただけ。
だから、失望なんてしない。他の男に触れられた私は、そもそも彼女を責められる立場にない。
私たちの関係も、もう、元には戻れない。
「……でも、私が健康だったら、貴女は、賭けになんて乗らなかった……お酒を飲みすぎるのも体に悪いのに……私のせい……」
「絶対に勝つ自信があったの。私が他の誰かと結婚なんてするわけないでしょ? ねえ、フィフィ姉さま。勝手に背負って、病まないで……。フィフィのこと、大好きなの。大好きだから。私だって、支えになりたかったの」
言って、イラリアが抱きしめる私の体は、彼女のようには美しくない。この世界の彼女のようには、綺麗じゃない。
――帝国のこと、まだ、よくわからない……敵なのか、味方なのか……勇者のこと……。
考えなければならないのに、頭がはたらかない。馬鹿だ。もう馬鹿だ。最悪だ。
「ねえ、イラリア」
「はい、フィフィ姉さま」
「いらなくなったら、私を切ってね。ちゃんと捨ててね」
「……なんで」
「私は、貴女の姉で、騎士で、大人で、貴女の恋人なのに、貴女を守る盾になれない。それだけの価値がない。――聖女の血が求められた時、奪われるのは、貴女」
アルティエロ王子は〝オフィーリア〟を推していたから、私を求めた。でも、本当なら違う。
私の心を欲するひとでなければ、イラリアよりも私を求めることなんて、ない。
「治せる、って、あの人は言った。でも、それは、治さないといけないってことで。治せないなら、いらないってことで。結婚相手には、やはり、子どもを生める女が欲しいってことで」
そうとまでは言われていないけれど、結局はそういうことだ。これから先も、ずっとそう。
「私は子どもを生めないから、貴女の代わりになれない。何もかも差し出しても、足りないの。埋められないの。それが、とても悔しい」
美しくないから。子どもを生めないから。強くないから。私の心を踏みにじられても、イラリアがそうされるほどの損失にはならない。
私の価値は、彼女よりもずっと低い。私たちは、どうやったって対等になれない。
リアーナ王女の忘れ形見であること。それが、私を繋ぎ止めているだけ。私だから、じゃない。
母さまの娘だから、陛下は私を大切にしてくださる。それだけ。私は、そういう役目も果たせない。私の血を遺せない。
これから先、今夜の私のような目に遭う危険性が高いのは、イラリア。聖女の子を欲するやつらが襲うのは、イラリア。みんなに求められるのもイラリア。世の中が荒れれば荒れるほど、彼女は私から奪われそうになる。
――いっそ、誰かが手に入れてしまえばいい。
そうしたら、楽になれる。釣り合わない私の隣からは、もう離れてくれればいい。
「貴女なら健康で美しいから、私がいなくても幸せになれる。十年後だって、まだ二十代でしょ。嫁き遅れかもしれないけど、家庭を築くには、事足りるはず」
「フィフィ姉さま。何を、言ってるの? どうしたの……? ――あの男は、そんなにも、貴女を駄目にしましたか? 損ないましたか? 姉さまだって美人さんだよ? 今夜のことで、姉さまが私に何か後ろめたく思う必要はないんですよ」
「貴女は気にしないのね」
「さっきは傷つけたけど、痛くしたけど、キスマークなんて癒やしの魔法で消せますから、」
「魔法なんていらない」
知っている。この痕を、彼女なら消せてしまうこと。
私の心が負ったものはなくならないのに、彼女は私の肌からそれらをなくせる。
彼女は、それでいいとさえ思っている。
「あの人は、優しくしてくれたのでしょう。素敵だったのでしょう。貴女の演技に騙されて、そうだったのだとしても。羨ましいわ。嫉妬してしまうわ」
「また、あの男のこと……? なんで、姉さま、なんで?」
イラリアが、ついにぽろぽろと泣きだしてしまう。
彼女は、未だに、わかってくれない。
あの力に負ける虚しさを。どうしようもなさを。
憎たらしい。でも。
こんな苦しみを彼女が知る日は、ずっと来なくていい。
「愛される貴女には、わからないわ」
ああ、そういえば。さっきのアルティエロ王子も同じことを言っていた。
「子どもを望める女でありたかった。私も――」
なんとなく、察している。彼女と私が違うこと。
私は彼女に愛され、求められ、彼女を好きになったから彼女の恋人をしているけれど。
私はイラリアがいなければ、きっと、男と一緒になっていた。
でもイラリアは、きっと昔から、女の子と恋ができるひとだった。
「王子を生めって、あの人の男子を生むようにって、育てられてきたから。こんな体のくせに、ずっと」
一度目の世界で抱えた想いが、ずっと消えない。
「――ごめんなさい。貴女には、言わないわ」
彼女に散らされた初恋のやわらかいところを、彼女にだけは告げやしない。
この過去は、想いは、私だけのもの。
夜が明け――曙の頃になった。
やっと、明るくなった。
疲れ果てて動けない私を横目に、イラリアは告げる。
「私ね、頭がね、悪かったの。ミレイはね、脳が、駄目だったの」
それは、彼女の前世の話だった。
この一夜を経て、彼女も、なにか覚悟を固めたのかもしれない。心を決めたのかもしれない。
アルティエロ王子の前世の名は、イオリ。イラリアの前世の名は、ミレイ。ふたりとも病室で〝オトメゲーム〟をして遊んで、病のために若くして亡くなった。
バルトロメオの部屋から繋がる隠し部屋にいた黒髪の少女も、ミレイといった。
「小児がんって、脳腫瘍って……、あははっ、この世界じゃ、まだ通じないんだろうなぁ。うん。――この世界と向こうの世界の医学には、違うところがいっぱいあってね。人体構造、生物の構造からして、ここは私の元いた世界よりも機械的なの。それで、一度目は、人間の心情も今より機械的に見てた――」
イラリアは、賢い。頭がいい。
あの恐怖を知らないくせに、理解しないくせに。
駄目になった私の体を抱き寄せて、彼女は恥ずかしそうに続けた。
とても可愛かった。
「まどろっこしいですよね、ごめんなさい――私、実は、ものすごく〝したい〟ことを伝えるのが、苦手なんです」
彼女の声は、今日も、夢見るように甘い。
イラリアという女の子は、お菓子みたいに。
「ワガママはたくさん言ったけど、いっぱい甘えたけど……。パパにも、ママにも、誰にも。『もっと生きたい』は、言えなかった。無理だって、わかってたから。だから、もしかすると、今も心のどこかでは、このワガママは無理って思ってるのかも」
上目遣いに私を見る空の瞳は、もう晴れている。
彼女は私の罪を気にしない。
ああ、――そっか。私、もう一度……。
いつかの誓いが崩れる音がする。
イラリアは私に口づけて、熱を籠め、愛らしく弧を描いた唇で告げてきた。
「オフィーリア。――フィフィ姉さま。フィフィ。貴女に愛されたい。貴女に世界でいちばん愛されるのは、私がいい。おばあちゃんになるまで一緒にいて。貴女の初恋のあの男よりも、あいつの兄王子や弟王子よりも、私のせいで心を動かして。全部、私に頂戴。私を愛して」
イラリアの告白が、いつもと何が違うのか私にはわからない、どうやら一世一代の告白が。
――私のこの想いは、貴女に届かない。
私の心の澱を溶かしていく。
――貴女のこの想いも、私に響かない。
私は、彼女を愛している。幸せになってほしい。
私が、幸せにしたかった。ずっと一緒にいてあげたかった。イラリアのことが、好きだった。今も好きだ。
「ずっと、命より大事なものなんてなかった。死ぬのが怖かった。でもね、ここに来て、初めて誰かを自分よりも大切に想ったの。愛のためなら、自ら死ねた。それが悪いことでも、フィフィ姉さまのことが大好きだから、できたんだよ。
死ぬのが怖くて怖くて、でも死んじゃって、もう死にたくなかった私は、それでも――貴女に会える世界を信じて、首を切ったの。もう一度、貴女に会いたかったから。あいつとの結婚という結末を切って、ここに来たの」
イラリアは、こんな私を愛してくれている。
奇跡のようなことだと想う。
「病院の中と物語の世界しか知らなかった私にとって、フィフィ姉さまは、初めて見た〝外の世界〟そのものだった。初めて出逢えた〝リアル〟だった。初めて自由に動けるようになった、この体を。初めて触ってくれたのは、貴女」
イラリアは私の手に触れて、彼女の頬までもっていく。
私の手のひらを愛おしげに頬に寄せ、うっとりした瞳でまた私を見た。
「一度目の世界、貴女が頬に強く触れてくれたから、私はここに生きているのだと感じられた。生まれ変わったのだと感じたの。決められた運命でも、偶然でも、なんでもいい。貴女に嫌われる人生も、私はちゃんと愛してた。貴女と生きられたら、それでいい」
このひとを守りたい。このひとと一緒にいたい。
「フィフィ姉さまが好きだから、頑張れるよ。いつも頑張ってしまう貴女が愛しい。この先に何があろうと、貴女が生きているこの世界を愛してる。貴女と出会えた世界で、私はこの先も生きていく」
ねえ、イラリア。
「――いつか私が、貴女を置いて、儚くなっても、」
ああ、やっと言えた。
「今度は私を追わずに、笑って生きていてくれる?」
彼女の眦に熱が伝って、私の爪先が、彼女の頬が濡れていった。
「私のいない世界でも、幸せになって頂戴――イラリア」
くしゃりと顔を歪めても、泣いてしまっても。私の婚約者は、今日も可愛い。
「フィフィ姉さまは、やっぱり、私より先に死んじゃうの……?」
「現実的に見積もって、あと十年、といったところかしら。私の心臓ね、良くないの」
「しんぞう。十年」
「貴女の心臓は蘇生できたけど、私の心臓は、治せない。それが今のこの世界の医学で、現実よ。……ごめんね」
「……そっ、かぁ……」
イラリアは、えへへ、と力なく笑った。私の胸元に顔をくっつけて、キスをして、耳をあてて。そっか、とまた呟いた。
「今まで黙っていて、ごめんなさい」
「一年の眠りから、目覚めて……何か変わっちゃったなぁって、感じてた……うん……教えてくれて、ありがとう……」
「もっと長く生きられるように頑張るけれど、でも、貴女より長生きできないのは、一生かけても変えられないと思う」
「うん」
「愛してるわ、イラリア」
「私も、あいしてますっ!」
ローズゴールドの髪を手櫛で梳いて、頭を撫でる。
神の愛し子と神の愛し子とが並んで歩むのは、今の世でも、茨の道だ。
私の歩みは、きっと、彼女よりずっと早く終わってしまうけれど。途絶えてしまうけれど。
――私がいなくなった先も、貴女が、ずっと健やかに、幸せであることを祈って……
私のすべてをかけて、私は、この稀代の大聖女が生きられる世界を切り拓く。
私の尊厳を誰に壊されても、彼女だけは、絶対に。
私の命は、貴女のために。
私の死が、貴女の未来に繋がるように。
――貴女を愛した聖女として、今度の私は死んでみせるわ。
「貴女――イオリって子のことは、知っている?」
「へっ」
服を着せかけられながら、背後の彼女に私は問う。
「オフィーリアを推していた、イオリという子。ニホンで生きていて、病で若くして亡くなって」
「ちょ、ちょっと待ってください、……なんで、そのことを?」
「もうひとつ、貴女って十二歳で亡くなったのよね」
「そうですが。それは私が言いましたが。ねえ、フィフィ姉さま?」
「……アルティエロ王子の前世が、その、イオリだったらしいのだけれど」
「…………はあ」
イラリアの手が、するりと私の胸に触れてくる。まるで動揺を誤魔化すように。頼りない膨らみを揉まれる。
「私、王城で、ミレイと名乗る女の子に出会ったのだけれど。『もっと生きたかった』『死にたくなかった』と言っていて、オフィーリアが生きていることを『ずるい』って。前世の貴女って、黒髪だったかしら?」
「……偽物でしたけど、そうですね。髪、なかったので。前世の私。治療の影響で」
「じゃあ、アルティエロ王子が、妹のように可愛がっていた子っていうのは。髪を結っていたのは、……そういうことよね?」
「前世の私――ミレイのことですね。姉さまが出会った〝ミレイ〟のことはわかりませんが……、アルティエロ王子は、イオリは」
喧嘩したまま死に別れた、前世の親友です、と。イラリアはそう言った。
「……っ、あ」
「フィフィ姉さま。私の方が、貴女を愛してますから。絶対に」
彼女が私の首筋を噛んだのは、きっと、あの日のような甘えと独占欲のせい。




