094. 聖女だから、大人だから
「可哀想なきみが好きだった。儚く終わるきみが好きだった。ぜんぜん幸せになれないきみが可愛くて、愛おしくて。でも、幸せな姿を見たくて。……イラリアは、ミレイちゃんは、ずるいよね?」
「…………」
ミレイちゃん、と。
彼は、あの子の前世の名を口にした。
「俺だってオフィーリアを推して闘病して若くして死んだのに、ミレイちゃんだけが、ミレイちゃんばかりがオフィーリアに愛されて……! いつも見ていて羨ましくて苦しい……俺だって誰かに愛されたい……」
「お言葉ですが。無理やり犯しても、私の愛は手に入りませんよ」
「それでも。それでも、きみを手籠めにでもして、隣に置けば。一緒にいれば、今よりは、オフィーリアの心に近づける。俺にも機会ができる」
「私の、何が、そんなにも……私なんて……貴方も、あの子も、前世の記憶に振り回されているから……」
「同じ顔なのに、俺じゃ駄目なの?」
耳元で聞こえる声は切実で、私は、すぐには彼を拒絶できなかった。
力の差で、この状況で、彼は私を圧倒しているのに。この人は、私に縋りついているようだった。
「きみの初恋の顔をしているのに、きみは俺に惚れてくれないんだ。きみはこの顔を好きになるはずなのに。あいつの代わりだって、きみに愛される俺なら、べつにいいのに」
私は、あの人の顔だけに惚れたんじゃない、なんて。そう言う隙はなかった。ひとり想っただけだった。
金の髪も、若葉の瞳も、たしかに宝石のように煌めいて見えたけれど。一度目の私が彼に恋した理由は、それだけじゃない。
もう、今は思い出せない。初恋の芯が、どこかにあった。
「ミレイちゃんに絆されたから? もう、バルトロメオのことは好きじゃない? 俺は……っ、選ばれない〝アルベルト・ゼアシスル〟に生まれたせいで、イラリアにも愛されないで、せんせいでもなくバルトロメオでもないから、オフィーリアにも恋されないの……?」
「アルティエロ王子」
「ミレイちゃんよりは、年上で、大人だったけど。俺だって、向こうの世界じゃ成人せずに死んでるんだよ。……ねえ、だから」
ゆっくりと身を起こし、アルティエロ王子は、私の手首の拘束を解いた。心配そうに肌をさすって、「ごめん」と言って、私の両の手を包み込む。
――貴方こそ、ずるい。
私を攫ってこうしているのはそっちなのに、まるで傷ついたような顔をするのだから。私に不必要な罪悪感を植えつけるのだから。
「物語の恋しか知らない俺に、こんな手段しかとれない俺に。愛を教えて、聖女さま」
見下ろす顔はやっぱりバルトロメオにそっくりで、もう大人なのに、この世界では年上なのに、彼の言葉は子どもっぽかった。
――そう。貴方の前世も、私より年下なの……。
愛と美と生命の女神様に愛され、愛を知って覚醒した女こそが、聖女である。
聖女は、誰かが誰かを想う気持ちを邪魔してはいけない。想いに寄り添うべき存在だ。
やり方はどうであれ、彼の気持ちは演技のつくりものではなく心からのものなのだと、私は感じてしまった。
――私は、聖女だから。セルジオ王子が異母兄を慕う気持ちを、王妃殿下が息子を愛する気持ちを、受け止めたいと思ったから。アルティエロ王子の想いも、ちゃんと……。
「これが、貴方の愛の告白ですか。貴方も、こんな行為を、愛されるための手段だとお思いですか」
いつの間にか、涙は止まっていた。揺らぎのない真っ直ぐな視界で、私は彼の顔を見つめた。
「わからないから、教えてほしい」
イラリアとアルティエロ王子のやり方は、どこか似ている。
イラリアはキスで、アルティエロ王子はこれで、私の愛を求めている。愛されようとしている。
ふたりとも、前世は病に侵されて散ったのだ。無念を抱えて、若くして。物語の登場人物に支えられて生きて。
――たとえ、それが〝私〟じゃなくても。
今、この世界で、私が求められているならば。私は聖女で、大人なのだから、きっと彼らを導くべきで。
「ここまで伝えていて諦められないなら、気が済むまで、お好きにどうぞ」
「……え?」
「出会った順番や、生まれ変わり方や、何かが違えば。私と貴方が愛しあう未来もあったかもしれない。でも、今の私は、イラリアを生涯の伴侶と決めています。人生をともに歩む相手として、彼女だけを愛します。きっと貴方を受け入れることはないけれど、想いをぶつけたいなら、どうぞ。貴方の形を許します」
「お、オフィーリア、なんで……」
始めたのは彼なのに、彼はとても困った顔をした。狼狽えていた。だから、ずるいのだ。
私に教えを請うならば、私のやり方で教えるまでのこと。
「覚悟もないのに、こんなことをしてはいけません。……貴方も、イラリアも、まだ子どもですね。どう伝えたらいいのでしょう」
私は今、どんな顔で笑っているだろう。いつの私と近しい顔をしているだろう。極悪令嬢だった頃の顔をしているかもしれない。
「このまま、私を――」
結局、私と彼の関係は、一線を越えることなく。
ただ、それ以前の関係からは、明らかに変わった。
未遂でも、この出来事は、私たちに亀裂をもたらした。
「…………できない、オフィーリア。きみに、手を出すなんて」
しばらくの後、彼はそう言って降参した。
先日の剣の模擬試合の後のように、ふたりとも汗に濡れていた。夏の夜。
「ごめん……もう泣かないで……ごめん……」
彼は、私を、ただ優しく抱きしめた。
泣いていると彼が言うのだから、私は泣いているのだろう。たしかに言われてみれば頬は濡れている。でも、よくわからなかった。今は、涙している自覚がなかった。
――ぜんぜん、傾かなかった。
元々は、男と結婚するように育てられていた私だ。やがては王妃となるように。そう過ごしていた時は長い。
二度目のあの日から、ずっと、子どもをつくれない身体が恥ずかしかった。魅力がなくて抱けないと蔑まれた身体が嫌だった。
けっして叶わないことだと、漠然と憧れていたこと。
――でも、大丈夫なのね。
触れられても、愛を囁かれても、こちらから先を求めたくはならなかった。彼の想いを利用したようで申し訳ないけれど、いい発見だ。
私は、男に抱かれたいわけじゃない。誰でもよかったわけでもなかった。
――めったにない機会でも、したく、ならない……。
私は、全部、イラリアとがいい。いちゃいちゃするのはイラリアがいい。
「貴方の前世の名前は、何?」
「……イオリ」
「そう、イオリというのね。――イオリ」
「ん」
「こういうこと、うちのミレイも、わかってくれないのかしら」
剥がされた服を着直して、またベッドに腰掛ける。汗でべとべとしているけれど、裸で居続けるよりはいい。
彼も服を着て、ちょっと落ち着く。
「実習、どうするのです、お兄様」
「どうしようか」
「貴方のせいで落としました」
「ごめん」
「イラリアには、何もしていませんよね」
「ああ、誓って何も」
「イラリアに手を出したら許しません」
「妹同然の子には手を出さないよ」
「……前世の話?」
「そう」
やや距離感がおかしくなってしまったのは、問題かもしれない。
今の私たちの姿をイラリアに見られたら、絶対に何か言われる。というか、どうせ隠し通せないと思う。
彼女には、バレる。私が襲われかけたこと。触れるのを許してしまったこと。
――あの子に教えるときも、こんなふうに、なるのかしら。
とりあえず大学院に戻ろうか、いや、戻るならシャワーを浴びてからにしようか、城の人間に見られたら面倒なことに……と恋人の事後のような気持ち悪い会話をしていると、ドアをノックする音がした。
「――入れ」
彼の背に庇われるようにして、私は、訪問者の姿をちらりと盗み見る。
――あっ。
先ほど、私を気絶させた男のようだった。灰銀の髪に、朱の瞳。大柄の男。
「…………女遊び、ああ、筆下ろしか?」
「違う」
部屋が薄暗いからか、半分以上アルティエロ王子の背中に隠れているからか、私のことはわからないらしい。
――あら? でも、私を気絶させたのは、アルティエロ王子の指示なんじゃ……?
先ほどのことを忘れているかのような態度に、相手の女が誰かわからなさそうな様子に、私は首を傾げる。
「で、どうした」
「俺の影が、妙なことを」
「妙なこと」
「薔薇の聖女をとらえたと」
「まさか」
「不妊治療と結婚の話で誘い出したのは、アルではないのか」
「いや、それは、こっちのことで」
「――どういうことですか」
薔薇の聖女とは、まさかイラリアのことか。彼の背後を出て灰銀の男を見上げると、彼は「はじめまして」と場にそぐわない挨拶をした。
なるほど、ならば、こちらよりも。
「アルティエロ王子」
さっさと状況を説明してという意味を込めて呼ぶと、彼の肩はびくりと跳ねた。
「俺にも、よくわからないのだが。帝国の風の勇者が、イラリアを、と」
「より正しく言うなら、見つけたと言うべきか。そちらの弟王子と一緒にいるらしい」
「セルジオと?」
「そう。なぜか。ともかく追いかけよう」
「――オフィーリア、どうする」
「私も。どうせ今から大学院に戻っても手遅れですから」
「……ごめん」
「行くぞ」
と。誰だか知らない男と、アルティエロ王子と、私は馬車に乗り込んだ。
この夜は、まだ、明けない。




