093. 第一王女と第三王子の決裂
実習は、滞りなく進んでいた。
大学院薬学部の一年生は複数の班に分かれてそれぞれに数日がかりの実験をしていて、アルティエロ王子と私は同じ班だった。
休憩や仮眠の時間は順々にとって、交代で作業をしたりデータを記録したりする。
そう、途中までは順調、だった。
「オフィーリア」
「なんですか、アルティエロ王子……」
「眠そうだ。俺が膝枕でもしてやろうか?」
「結構です。お断りします。大丈夫です。いりません」
夕方頃。これからシャワーを浴びようという時、廊下で、いつものようにアルティエロ王子が絡んできた。
べつにたくさん汗を掻いたり汚れたりしたわけではないけれど、なんとなく、入浴前に他人とくっつきたくない。そもそも彼との接触は避けたかった。
「触らないでくださいね、お兄様」
「あははっ、俺が妹に不埒な真似をする男だとでも?」
「……私たちは、血縁としては従兄妹で、義理の兄妹ですから。何の問題もなく結婚できてしまいます」
「なんだ、求婚か」
「いいえ違います」
嫌な予感はあった。言語化はできないけれど、今も心臓のあたりがざわざわしていた。ジェームズ先生とふたりきりになった、研究発表の後の時のように。
「じゃ、またあとでな」
いちいち私に構ってくる面倒な義兄も、さすがに女子の浴室まではついてこない。それくらいの良識はあってよかった。本当に。
「……また、あとで。お兄様」
にこにこと手を振る彼に、私は手を振り返さなかった。よくあることだ。
シャワーを浴びてさっぱりし、着替えて、廊下に出る。交代の時間があるから、のんびりはしていられない、と。
「ごきげんよう、王女殿下」
「……どちらさまでしょう」
灰銀の髪に朱の瞳をした大柄な男に出遭った。知らないひとだった。見たところ歳は近そうだが、ここの学生なのだろうか。もしや留学生とかだろうか。
「ちょっと失礼いたしますね」
「な、」
素早い動きで近寄られ、いきなり口元を塞がれる。
大きな手から魔力を感じ、苦みを感じる気体が、勢いよく喉へと流れ込んできた。
――このひと、も、魔法を……? どこかの勇者……!?
彼も武人なのだろうか、体格差のせいだろうか、がっちりと押さえつけられていて逃げられない。息が、できない。
「おやすみなさい、ベガリュタルのお姫さま」
男の低い声は優しげで、かつ恐ろしく。
そこから先のことは、よく、おぼえていない――
オフィーリア、と、男のひとの声がした。
意識がはっきりしなくて、誰の声だかわからない。夢と現実との境がわからない。
ずきずきと頭痛をおぼえながら、重たい瞼をひらく。
目を覚ましたら、知らない部屋だった。
私はふかふかのベッドの上にいて、それで、
「な……に……? ……えっ?」
何が起きているのか、意味がわからなかった。
「え……? 実習は……、なんで、ここ、なんで……実習……は? なんで?」
混乱して、うまく言葉が出てこない。
ここは大学院ではなかった。どうやら王城の一室のようだ。
わざと似せて造られた部屋でなければ、ここは、かつての私の寝室だった。一度目や二度目の世界で、バルトロメオの婚約者だった十代の頃、王城に宿泊するときに使っていた部屋だ。
攫われていた。
やわらかな布か何かで手首を縛られていた。
「……アルティエロ、王子、なんで…………」
黙って私を見下ろす彼は、本来の金の髪と黄緑の瞳をしている。暗がりでも、赤錆と蒼との違いはわかる。
バルトロメオではないことも、ちゃんとわかる。似ているだけだ。
「なんで……殿下……」
バルトロメオとそっくりの顔をした、バルトロメオではない男が、ベッドの上で私に覆いかぶさっていた。
認めたくなかった現実を、そろそろ認めると。
……私と彼は、ふたりとも、服を着ていない。
かろうじて、私の腹から下に薄布を掛けてあることが救いだろうか。いや、大して変わらないか。
彼の気が変われば、そんなものすぐに剥ぎ取られてしまう。触れてしまう。
「……なんで、なんで……っ、なにか、喋って、ください……なんで……」
怖い。怖い。こわい。
どこぞの侯爵令息のような軟弱な男が相手ならまだ勝算もあったかもしれないが、目の前の男は紫紺騎士。
三度目のこの世界では、私も、この人も、彼も、みんな武人だった。けれど、だからこそ。
「アルティエロ王子……殿下……お兄様……」
武器もなく、すでに身動きを封じられた状況で、この筋力差では勝てない。わかっていた。
震えて、力が入らなくて、いっそここで気絶したいくらいに何もできない。意識があっても、なんにも意味がないようで。怖くてたまらない。
――いくら鍛えても、頑張っても。私は、女で。聖女、で。今や心臓も弱くて。
どの呼び方をしても、彼は返事をしない。ただ仄暗い瞳で私を見ている。
きっと一線は越えていない、が。まだ決定的な何かは起きていないが。
「……やめ、て……何もしないで……」
彼とのこれまでの日々が否定されたようだった。もう元の関係には戻れないと感じた。
春に出会って、夏になって。
仲がいいとは言い難くとも、今日までは、そこまで悪い関係ではなかった。軽口を叩きあう従兄妹でいられた。セルジオ王子とイラリアのように、ただ、気が合わない程度の仲で。
「オフィーリア」
やっと聞こえた声は、やっぱり、バルトロメオの声じゃない。それ自体は悲しくないけれど、いよいよ堰を切ったように涙があふれる。
ぼたぼたとシーツに涙が落ちる音が、耳を打つ。
「実習、は」
「ごめん」
「こんな、酷い、……私のことが、そんなにも、お嫌いですか……」
「嫌いじゃない」
「なら、なんで」
「だって理不尽だろう」
理不尽。理不尽? 理不尽と言うなら、今、この状況こそが理不尽だ。
私が油断していて弱くて馬鹿でそれゆえに捕まったのだからお前が悪いと言われたら多少の過失は認めるが、絶対に彼の方がどう考えても悪い。
「奪われたものを、取り戻したいとは思わないか」
「私は、貴方に、一学生として大事な日を奪われました」
「すまない。だが、今日しかなかった」
「それは貴方の勝手でしょう」
「ああ。そうだな」
会話の調子はいつもどおりなのに、私たちの居る場所はいつもと違う。ぜんぜん違う。
「どうして、こんなことを、したのです」
「こうでもしなければ、言える気がしなかった」
「何を」
「――俺と結婚して、王妃になってくれ。オフィーリア」
「……、はっ」
嘲笑交じりの息を吐くだけで、口元や頬が痛かった。緊張のせいか、表情筋がおかしくなっていた。
まだ止まらない私の涙を、彼はこの場に似合わぬ慎重な手付きで拭う。
「触らないで……。やだ」
「俺なら、きみの抱えた病も治せる。一緒にいてくれれば、俺を許してくれれば、必ず。……俺も、陛下に、昔から避妊薬を飲まされていたから。あいつがいなくなって、王子の立場に戻るまで、ずっと」
「……知らない、そんなのっ、どうでもいい……」
心臓のことではなく、子どもを生めない身体のことを彼は言う。
ああ、だから、どうして、この人はこんな時までバルトロメオのことを思い出させるのだろう。彼の侮辱の言葉を脳裏に蘇らせるのだろう。
アルティエロ王子は、過去の世界で聖女の血に触れていない。イラリアの血の記憶を継いでいない。
だから一度目のことも二度目のことも知らなくて、私が無様に婚約破棄されたことなんて、きっと異世界のゲームの中でしか見ていない。
知らないくせに、あの記憶たちを掘り起こさないでほしい。私とあの人の過去に触れないでほしい。
「父親の身勝手に健康を害されて、悔しいだろう。憎いだろう。きみが神殿で妹より丁重に扱われない理由もそれだ。きみたちはふたりとも聖女だけど、きみは」
「私はっ! ……イラリアと、一緒に、生きるの。イラリアのお嫁さんなの……! 私が、女として欠陥品なのは、わかってるから。もう言わないで……」
「オフィーリア」
駄々をこねる子どもを落ち着かせるような口調で、彼は私の名前を呼んだ。
オフィーリア。そう呼ばれるたびに、また、バルトロメオの声と比べてしまう。
『――オフィーリア』
今も忘れられない、あの人の声。
彼でさえ、こんなことはしなかった。私を叩いて、蹴って、剣を振りおろしても。刺客を送っても、毒薬を盛っても。暴漢に私を襲えと命じても。
私を、彼の手で、抱こうとはしなかった。ただの一度も。そういう気さえ起こらないと言われた。
あの人とこんなふうに触れあったことが、私には、ない。
「貴方は、王位をお望みなのですか」
「いや、王位よりも、本当は愛が欲しい」
「……愛?」
男と女がこれから寝ようとしていそうな閨でありながら、ここで告げられる〝愛〟の言葉は浮いていた。
アルティエロ王子は真剣な面持ちで、私の胸の心臓あたりに手を触れる。手付きも雰囲気もまったくいやらしくならないことに、私は不覚にも驚いた。
「せっかくの転生ならば、愛されたい。病床の俺を支えた女神に、推しに、悪役令嬢〝オフィーリア・ハイエレクタム〟に」
「病床……推し……」
どこかで聞いたような話だった。
前世のイラリアも、病床で、この世界と重なる〝オトメゲーム〟という恋物語を楽しんでいたという。
――アルティエロ王子も、オフィーリア推しの転生者だとは聞いていたけれど……。病床って?
「なあ、オフィーリア」
まるで恋人にするように抱きしめられて、抵抗できないベッドの中で、私は、私ではない〝オフィーリア〟への告白を聞く。




