092. 聖女姉妹と兄弟王子の平穏
イラリアに頼まれて、彼女に稽古を――武術の稽古をつけている。
主に護身の術として、先日から、彼女にも武術を嗜ませることにした。最近は自主鍛錬くらいしかしていないが、私もひとりの騎士である。
放課後だったり、夜だったり、ふたりの予定が合うときにちょっとずつ進めている。
ある日の昼休み。学園で。
いつかのバルトロメオが遊んでいたように、男子学生たちが模擬剣でやりあっているところに紛れ、私たちも剣を持った。
「わあ、フィフィ姉さま。かっこいいですね〜」
「惚けてないで、くっつかないで」
フロイド・グラジオラスとして学生をしていた頃のように久しぶりの男装をした私に、イラリアはにこにことくっつく。でれでれする。
……すごく可愛い。ここが人目につく屋外でなければ、このままいちゃいちゃしていたかもしれない。
「おやおや、これから姉妹で決闘ですかー?」
「……こんにちは、アルティエロ王子」
そういえば、彼も騎士だった。
王太子婚約者だった頃の私を護衛したり刺したりしたことのあるアルティエロ王子が、笑ってひょっこりとこちらに顔を出す。
赤錆の髪は紐で結われており、彼の手にも模擬剣の姿が見えた。偶然なのか、私たちを追ってきたのか。
「イラリア嬢に稽古を? 俺も手伝いましょうか?」
「いえ、結構です」
イラリアとの貴重な時間を邪魔されたくはない。
明日から私は泊まり込みの実習だから、イラリアやドラコとは数日離れることになる。
彼女を隠すように背後にやると、彼は「溺愛か」とからかってきた。まったく嫌な男だ。
「婚約者を愛していて何がおかしいのでしょう」
「いや、すまない。おかしくはないよ。……彼女の稽古の後で、俺と手合わせをお願いできるかな、オフィーリア」
「もちろん、応じましょう」
一対一のそれなら喜んで。
「無駄に時間をとられたね。ごめん」
男装していた頃の言葉遣いで声をかけ、彼女の方を振り返る。
「始めようか、イラリア」
「はいっ、姉さまー! ふふっ、頑張ります!」
イラリアと、今日の稽古を始めた。
ハイエレクタムの娘だった昔のこと、イラリアは無敵に見えた。何をやっても私より優れていた。ひどく嫉妬した。
剣の扱い方、躱し方、今だって何を教えても飲み込みが早い気がする。彼女は日に日に賢く、強くなる。
――ゲームの〝力〟は、本当に壊れているのかしら?
ほんの数分の間にもめきめきと成長していく彼女の姿を見て、教えていて、疑問に思う。
――好感度だとか、言語能力だとか、そういう〝チート〟とやらは壊れたとして。私は今も〝オフィーリア〟で、彼女は今も〝イラリア〟なんじゃないかしら?
この力関係が、ずっと不変ならば。私は何事も彼女に勝てないならば。培ったものを奪われる立場で居続けるなら。
――私が、何を、どう頑張ったって……。
彼女が武術をと望んだのは、私の想いを汲んでのこと。魔法ではない方向から強くなることは、私も望んでいること。
それなのに、どうしてか、心が弱くなる。彼女の素晴らしさを見せつけられて、私は、もういらないんじゃないかと。
捨てられそうで、怖くなる。私を切り捨てる父は、もういないのに。縁を切ったのに。
すべてに見捨てられた誰かの絶望感の欠片が、心臓に無理やり押し込まれているみたいだ。また苦しくて、ちくちくと痛む。
「――オフィーリア、目を逸らすな。相手は俺だ」
「っ、は、そちらこそ。手を抜かないでいただけますか」
アルティエロ王子と模擬試合を始める頃には、セルジオ王子も見物に来ていた。未だにイラリアと彼は気が合わないようだ。バチバチしつつ、ふたりとも、私を応援してくれている。
安全のためと距離はとっているので、私とアルティエロ王子の会話は、セルジオ王子たちには聞こえないはずだ。
だから彼も、こんなおかしなことを言ったのだろう。
「他の男どもと同じように手を出せると思うか、好いた女を相手に」
「なんですか、それは、ふざけるのはやめてください」
「イラリアは、ずるいだろ」
「はっ?」
彼の表情に歪みが見えると同時、私の剣先が彼の首元に届く。
ふたりとも肩で息をして、疲れていて……予想以上に、いい勝負だった。最後はあっけなかったけれど。
ずるいという言葉を聞いた私の頭には、あの黒髪の少女の顔が思い浮かぶ。
「……見事だ、オフィーリア。さすが、我が弟に勝っただけのことはある」
「貴方の言う弟は、あの方のことですか。……今、なぜっ」
バルトロメオのことを言うの。
あのクーデターの時のことを仄めかすの。
彼が、イラリアを、いっぱい刺してしまったこと。みんな痛くて苦しかった時のこと。それを、どうして。
剣を下ろすと、彼は私に一歩近づいた。
「あいつでもいいとは思わないか」
「何が、です」
「いっそ、あの男であれば許せる」
「だから、何が」
苛立ちを滲ませて言う私に、アルティエロ王子は、彼とは違う色彩のままニヤリと笑った。そして私を抱きしめて、耳元で言う。
遠くでイラリアとセルジオ王子の声がする。
「俺が入れ替わったって、気づかれやしないだろう? 同じ顔なのだから」
「気づきます、王妃殿下は絶対に。私も、きっと」
彼と出会った日、一時は惑わされたけれど。もう間違えない。
この人は、バルトロメオじゃない。
「貴方は貴方で、あの人はあの人だ」
小さく小さく呟いた声も、アルティエロ王子には聞こえたらしい。くつくつと笑って肩を震わせた。
この距離なら、まあ、聞こえても仕方ない。こんなに密着していては、ひとりごとは呟けない。彼に伝えたかったわけではないけれど。
――なんだか変ね、私……。
抱きしめてくる腕を、振り払えない。逃げ出せない。
「私のフィフィ姉さまに何するのです!」
「姉上! 大丈夫ですか!」
「あなたたちの声を聞くと、まるで私が負けたみたいね。平気です。勝ちました」
「そういうことじゃなくてぇ……!」
イラリアが驚くべき怪力でアルティエロ王子の腕を引っ剥がし、彼に代わって私を抱きしめる。
セルジオ王子は、ものすごい早口でアルティエロ王子に文句をいった。
「上書きしなきゃ……」
「イラリア、大丈夫よ」
「私が大丈夫じゃないの!」
イラリアはぷんぷんと怒っているのに、なんだか楽しかった。こんな些細な揉め事だけで、すべてが片付けばよかった。王位継承権のことも、何もかも。
――なんで、ここに、あの人がいないのかしら。
王家と繋がる兄弟姉妹がそろっているのに、たったひとりが欠けている。その空白が、なぜか、私の胸を痛くした。
もう大っ嫌いな相手のはずなのに、どうしてこんなにも思い出すのか。想ってしまうのか。まるで呪いのようだった。
それから三日後の夜。週末、大学院の泊まり込みの実習期間中。
「オフィーリア」
「な……に……? ……えっ?」
王太子決定の儀を前にして、私は、彼の顔をした兄王子の手に捕まった。
長い、長い、夜だった。




