090. 貴女を守れる強さが欲しい
朝昼の講義を終えた後。
赤錆色の髪に蒼の瞳をした大学院生が、馴れ馴れしく私に話しかけてきた。
「やあ、オフィーリア」
「……なんですか、アルティエロ王子」
第三王子と第一王女のお披露目パーティーを終え、社交界に本来の姿を現してからも、彼はしょっちゅうこの変装をしている。
学園では、私との初めましての時以来、いつもこんな恰好をしていた記憶だ。
バルトロメオと被る容姿を見なくて済むと正直なところ嬉しいけれど、彼の本当の姿を厭うて拒絶しているようで、そんな自分の心の動きが嫌にもなる。
「一緒の学部で兄妹なんだから、そんなに冷たくしなくてもいいだろ」
「あら、無視をしていないだけ感謝していただきたいですわ。かつて私を刺し殺しかけたお兄様?」
あえて嫌味っぽく兄と呼ぶと、彼は唇をもにゅもにゅと奇妙に動かした。にやにやともごもごの中間のような、笑いの気配とくぐもった声がする。
いったい私は何を見せられ、聞かされているのか。とうしてまた絡まれているのか。
「お話は以上でしょうか? もちろん以上ですよね失礼いたします」
「いや…………オフィーリア、もう一回、お兄様って呼」
「嫌です。なんですかその顔は。気持ち悪い」
「辛辣だな」
アルティエロ王子はバルトロメオとはぜんぜん違う声であはははと笑って、呆れて立ち去ろうとする私を通せんぼうで邪魔した。
「……王子」
「いや、すまない、悪ふざけが過ぎた。許してくれ、我が妹姫よ。――来週の実習のことなのだが」
ああ、やっとまともなことを言い出した。もっと早く本題に入ればいいのに。
「それが、なんでしょうか」
「参加するのだな」
「ええ、あれは出ないとまずいでしょう?」
泊まり込みで、とある魔法薬の調合を試みる実習のことだ。大学院薬学部の課程を留年なしの二年で終えるには、外してはならない重要なものである。
万が一、この実習を落としても、絶対に挽回ができないというわけでもないけれど……。まあ大変だ。
昨年はイラリアの蘇生に集中するために一年間の休学手続きをとり、今年から復学して通っている私である。一学生として、これ以上卒業が遅れるのはまずいな、という感覚はもっていた。
ましてや、今の私は、第一姫。陛下の懐から出る姪への甘やかしだけでなく、公に、国の予算の一部が王女オフィーリアにあてられてしまう。
リスノワーリュ領主へ、とは違う、かつての王太子婚約者だった頃とも似て非なる、ただのオフィーリア姫へ。国民の血と汗の結晶であるお金が流れていく。
ゆえに私の動向は、これまでよりも強く、人々から注目されることになるのだ。
休学からさらに留年もしたら、きっと民は私を不真面目な人間だと思うだろう。いつまでも学生で居続けて、だらだら怠けている、と。かと言って中途退学も善い道だとは思えない。それはそれで反感を買うと思う。
まったく面倒くさい立場になったものだ。あの人の婚約者だった頃の重圧なんかも思い出す。
――彼も、大変だったわよね。王妃殿下の唯一の実子で、王太子であるということは。
まあ、ともかく。
いまところ私は、このまま学業も卒業まで頑張るという答えを出している。だから実習にはもちろん参加するのだ。
「家族や屋敷の者にも、すでに話をしております。みんな温かく了承してくれました。なにも問題はないかと」
「きみの可愛い妹殿は、いい子に屋敷でお留守番しているというわけか?」
「…………貴方は、なにを、私におっしゃりたいのですか」
「いや? 王太子決定の儀の直前に、呑気なものだなあと。俺らふたりとものことだが」
「その方面からいっても、陛下のお許しはいただいております。問題ありません。貴方も、参加するのですね」
「一緒に学生やってるからな」
「はあ、はい」
「話は以上だ。もういいぞ」
結局、私が実習に参加するかどうかを知りたかっただけらしい。それだけならば、こんなに長々と絡む必要はなかっただろうに。徒労感がものすごい。
「では、今度こそ失礼いたしますわ。ごきげんよう、アルティエロ王子」
一分の狂いもないよう、完璧な淑女の礼をして、歩きだす。
「じゃあな、オフィーリア――」
彼の目に留まらないであろうところに来てからは、早く、速く。
ジェームズ先生がいるという薬草畑へと向かう。
「――先生っ、すみません、お待たせしました」
「ああ、大丈夫だ。……どうした、疲れているのか? 大丈夫か?」
「薬学部の義兄に絡まれただけです。お構いなく」
「なら、いいが。無理はするなよ?」
「はい、もちろん。こちらには万全を期して臨みます!」
先生と〝心臓蘇生〟の研究発表についての打ち合わせをして、昼時を終える。
図書館に行って魔法社会の歴史書を読んで空き時間を潰し、また講義を受ける。
「――フィフィ姉さま」
「っ、あ……イラリア……?」
今日の最後の講義の後、夕方。
校舎の外の石畳を歩いていると、いきなり背後から抱きつかれた。大好きなひとのいい匂いが鼻腔をくすぐり、なんだか泣きたくなる。
「駄目ですよ、こんなになるまで、無理しちゃ。姉さまは、騎士様でしょ。……私が殺人犯で、後ろから刺されちゃったら、どうするの?」
「……癒やしの魔法で、自分を治すわ。私は聖女だから」
「フィフィ」
イラリアは私の正面にくるりと回り、慣れた様子で背伸びして。唇にそっとキスをした。
「――戦争なんて、起きないから」
私の唇のすぐそばで囁かれた彼女の言葉は、私の心に深く刺さる。戦争。その言葉に、嫌な想像に、心がどろりとまた血を流す。誤魔化して塞いでいた傷がまた開いてしまう。
――クーデターの夜の光景が、遠い歴史と重なって。知らないのに鮮明な景色が、なぜか今、頭を離れないの。
私たちの――レオン、クララ様、イラリア、そして私の――今の状況は、見方によれば、遠い遠い昔の戦争の始まりによく似ている。
イラリアは踵を石畳にくっつけて、私の胸元に顔を押しつけた。
「そこまでの火種には、きっと、ならないから。そんなに頑張らなくても、大丈夫だよ……」
「……イラリア」
慰めでもいい。癒やしてほしい。
強すぎたからこそ〝彼ら〟は、人として扱われず無惨に散ったのに。
私は、この稀代の大聖女を守れる強さが欲しかった。




