087. 侯爵家の子と母なる聖女
ふたりとも水着をしっかりと着直し、上からワンピースドレスを纏って廊下に出る。
イラリアは私と手を繋ぎ、でれでれとだらしなく頬をゆるめた。朝から甘やかしすぎたかもしれない。
幼子の前では行きすぎた行為はしないでねと念のため声を掛けてから、ドラコの子ども部屋にふたりでお邪魔する。
彼お気に入りのお世話係に抱っこされ、絵本の読み聞かせに笑い、ドラコはいい子で待ってくれていた。
幼いぷにぷにの体に、深緑の髪、金の瞳。今はゆったりした服を着ている。ぱたぱたと元気に動く足が愛らしい。
――ああ、なんて可愛いんでしょう……。
人間と同じように、二、三歳児の姿に育ったドラコは、まさに可愛い盛りだ。
隣国のレグルシウスにいた頃、いつか花嫁や母となる日を夢見てはしゃいでいた女子学生らとの会話で聞いたように、このくらいの歳の我が子はものすごく可愛い。
イラリアじゃなくても、私のお腹から生まれた子じゃなくても、かわいい。噂の可愛い盛りを過ぎても、この先もずっと可愛いのだと思う。どうかすこしでも長く見ていたいと思う。
「――ドラコ」
「! ままぁ!」
こちらをぱっと向くや否や、ドラコは無邪気に満面の笑みを浮かべた。金色の瞳がきらきらと輝き、私は愛おしさに胸がきゅっとなる。
「ままぇー! ままぃっ!」
「おまたせ、ドラコ」
私たちふたりを分けて呼ぶとき、ドラコは最近こういう呼び方もする。ままぇ。ままぃ。と、語尾にちょっと違いがあった。
どうやら、「ままぇ」が私で、「ままぃ」がイラリアっぽいご様子だ。
イラリアが私を呼ぶときの「フィフィねえさま」の〝え〟と、私が彼女を呼ぶときの「イラリア」の〝い〟から、このように呼ばれているのだろう、と。前にイラリアはドヤ顔で推理した。
私もなんとなくそう解釈しており、異論はない。私はドラコの母親の「ままぇ」で、イラリアも彼の母親の「ままぃ」だ。
今はまだ指輪だけの婚約者でも、いずれは彼女とめおとのように一緒になりたい。イラリアと、屋敷のみんなと一緒に、この子を守って育てていきたい。
「……かわいい」
二度目の人生で最初に出会ったときの印象は、手足が生えた太い人参、かつては植物らしい姿だったドラコ。三度目の今の世界のドラコは、本当の人間のような見た目や触り心地をしている。
――イラリアには、最近、我が家の夫人としての仕事をちょっとずつ任せているけど。彼女こそ研究者性質だから……。
かつての淑女教育で習ったようなあり方ではなくて、そう、彼女に家のことを押しつけすぎてはいけないわね。気をつけないと。
ドラコは、二度目も三度目も、学院一年生だったイラリアの研究活動によって生まれた。植物を種に、土の中で育ち、私たちの暮らす世界にやってきた。
ジェームズ先生や生みの親のイラリアには、科学者や医学者の目で、今も定期的にドラコを見てもらっている。陛下のお計らいで、ときどき密かに宮廷医にも診てもらっている。
それらの結果、ドラコは、ほとんど人間と変わらない生き物として生まれ、育っているということだった。
――遠距離中のイラリアが、勝手に私を〝ママ〟だと教え込んでいたと知ったとき、再会したときは、びっくりして。その後ギスギスして。懐かしいわね。二度目の世界では……私、最後、ドラコと先生のそばで、吐血して倒れて……。
死んだ世界のその後のことは、もうわからない。あちらのドラコは、どうしただろう。ときおり、ふと考える。
ジェームズ先生が面倒を見てくれただろうか。そうでなくとも、元気に生きていてくれただろうか。
――あんなふうには、もう、嫌よ……。可愛いドラコの前で、無様に死んでいくのは、嫌。我が子につらい記憶を残したくない。
我がリスノワーリュ家の一員、ドラコ。ドラコ・リスノワーリュ。私たちの大切な子だ。
みなし子を家に迎えるときと同様の手続きを踏んで、今の彼は私の長男になっている。正真正銘、私の息子。
――私が母さまを亡くしたのは、私が二歳の頃だった。私が母さまと同じ歳になるまで、あと何年? 私の十年後はどう? もっと先、この子が成人するまで、私は……。
お世話係の使用人たちや、にやにや顔のイラリアに見守られ、ときどき手伝われ、私の手でドラコを着替えさせる。たまにはやりたいと言って、みんなに協力してもらっているのだ。
ハイエレクタムの娘だったときと比べると、こんなに温かな空間に自分がいるなんて信じられない。
ドラコは、イラリアに愛されて、屋敷の者に愛されて、先生にも愛されて。
私がしょっちゅう家を空けて忙しくしていても、ひとりの貴族の男子らしく真っ直ぐに育っていると思う。これからも、もしも私が突然いなくなっても。すくすくと健やかに育ってほしい。
「愛してるわ、ドラコ」
着替えさせ終えると呟いて、私は、まだ小さい我が子をきゅっと抱きしめた。
ドラコの元気な返事が響く。




