082. 初夏の約束は夜中の廊下で
寝室前の廊下でイラリアと〝おやすみなさいのキス〟をして、自分のベッドでひとり眠る。
ふたり一緒に寝ていた時より睡眠時間は長くとれているけれど、いつも寂しさを抱えて布団にもぐっている。
イラリアのぬくもりを感じられない夜が、いくつか過ぎた。
「――おはようございます、フィフィ姉さま」
「おはよう、イラリア。……よく眠れた?」
「はい、ばっちり大丈夫です。ありがとうございます!」
毎朝、かつてハイエレクタム公爵邸でも仕掛けてきたように、イラリアは私の部屋に来て〝おはようのキス〟をする。
私はそれを快く受け入れ、どうかこれ以上は離れることになりませんようにと空に願う。……叶うだろうか。
ある日の夜。ふと夜中に目が覚めて、どうしようもなく寂しくなった。
真っ暗な夜の隣にイラリアがいないというのは、こんなにも心細いものだったかしら、と。今さらながらに、私にとってのイラリアの存在の大きさを実感する。
目を瞑っても彼女の顔が瞼の裏に浮かんで、どうにもこうにも眠れなくなってしまった。
こうなっては、どうせすぐには眠れない。そうだ、と私は、いつか夜の薔薇を見たくて外に出た時のような心持ちで、イラリアの部屋に忍び込むことにした。
彼女はいつも私の部屋にずけずけと入ってくるわけだし、私も彼女の部屋に入ることをべつに禁じられていないから、構わないだろう。心の中で言い訳をするのは、もはや彼女に会いにいくための下準備だ。
寝顔でも何でも、とにかく愛しいひとの顔が見たい……と。ベッドから降り、上着を羽織って室内を歩く。
変な物音を立てたことで誰かに心配をかけぬよう、ゆっくりとドアを開けると、なぜだろう、やわらかな薔薇色が見えた。
「イラリア……?」小声で言い、そーっと廊下に出る。
とん、と鈍いような軽いような音がして、薔薇色が――イラリアが、床に、ころりと転がった。
「イラリア……ッ!」
私は慌ててひざまずき、彼女の脈や呼吸を確かめる。すやすやという息の音。とくとくと動く脈の拍。
見るに、心臓やどこかに問題が起きているわけではなさそうだ。私の見立てが正しければ、ただ眠っているだけらしい。
――どうして廊下に? 私の部屋の前で……?
本当に眠っているだけなら、ここに放置しておいても大丈夫と言えば大丈夫だが――もちろん愛おしい婚約者には、こんな硬くて冷たい床ではなく、ふかふかのベッドで眠ってほしいとは思うけれど――でも、もしも眠っているだけではなかったら、大変だ。
私は彼女を起こすことにした。
「イラリア――……ラーリィ……――イラリア!」
「ぅん……?」
十数回か数十回か、名を呼んだところで彼女が目を開ける。空色の瞳はとろんと眠そうで可愛らしいだけ、こちらにも異常は見られない。今夜も宝石のように綺麗だ。
「イラリア、大丈夫? どこか具合が悪いの?」
「いえ、平気、元気です……ん……ただのメリーさんごっこ……?」
「何よ、それ。もしかして頭が痛い? それとも寝ぼけているの?」
「ふざけているだけですよぅ、えへへ。わたしイラリア。今、あなたの部屋の前にいるの……ってね。ほんとうはメリーさんなんだけど……メリーさんはニホンの怪談で……」
「……自分の意志で、ここに来て、私の部屋の前で居眠りみたいに眠っていただけってこと? 驚いたわ……」
「心配をかけて、ごめんなさい……」
むにゃむにゃとまだ眠たそうなイラリアは、のんびりと起き上がって壁に寄りかかる。私も彼女の隣に腰を下ろし、壁に背を預けた。
数晩を共寝しなかったからか、こうして夜中に一緒にいられるだけで心が温かくなる。まるでお安い女だ。
ふたり、廊下に座り込んで黙り込む。
そんな奇妙な時間が流れる。
「――……怖くなったの」
と。静寂を破ったのは、ぽつり、幼子のようなイラリアの声だった。
「怖くなった?」
「このまま……前みたいに……二度目の世界で、私が、姉さまにキスしなくなった時みたいに。距離が開いていって、それで……フィフィ姉さまが、いなくなっちゃうんじゃないかって」
「イラリア」
「私……自分から、寝室を分けようと言ったくせに。いざ、隣に貴女がいないと、不安でたまらないんです。私の目が届かないうちに、何かあったらどうしようって。自分でもおかしいなって思ったけど……っ」
「いいえ、貴女はおかしくない。大丈夫よ、イラリア。私も、似たような不安を抱えていたもの。貴女だけじゃないわ」
「姉さまも……?」
不安げにこちらを見上げる彼女に、私は「ええ、そうよ」とできるだけ優しい声で頷く。
「私も、貴女が隣にいないベッドは、寂しくて寒い。一緒に暮らしているのに、寝室が違うだけで寂しいの。貴女が私を気遣ってくれたとはわかっているのに、恋しいわ」
「十年も離ればなれになって、また、今度は私が一年も眠ってしまって会えなくなって……。どんなに一緒にいても、足りないくらいですよ。本当」
「そうよね。……ずっと一緒にいたいわ」
「でも……私は、我慢を覚えないといけないな、とも、常々思っていて。ここで、折れるのは……」
「それも……そうね」
私たちは視線を落とし、たぶん、どちらとも愛しいひとの手を見た。このくらいなら、という線引きも、たぶん、今の私たちは重なっている。
互いにちょっとずつ手を伸ばして、指先だけで触れあった。
「依存は、よくないから」
「はい、そうですね」
「――あのくだらない契約が解けたら、デートに行きましょう」
「いいんですか? その、お忙しいのに」
「毎度毎度、休日を潰されては、新芽の聖女なんて枯れてしまうわ。まあ、それを目的としている神官もいるようだけれど……今は置いておいて。今度は絶対に予定を空ける。貴女とデートする。約束よ」
「うふふ、では、約束です。楽しみにしております」
「これからは、無理に私の部屋の前に居座らないでね。そもそも部屋はすぐそこなのだから、貴女の魔力でなら、命が関わるほどの異変が起きれば気づくことはできるでしょう? 癒やすことはできずとも」
「…………はい、姉さま」
「いい子ね、イラリア」
しんみりと、四半刻にも満たない時を一緒に過ごして、私たちはそれぞれの寝室へと戻った。
やっぱりイラリアと一緒に寝る時よりは冷たいベッドだけれど、昨日や一昨日よりは、ちょっぴり温かい気がする。あと数十分だけでも、眠れそうな気がする。
彼女と話し、指先だけでも触れあえた、ささやかな時間のおかげだろう。
ちょっと離ればなれになっても大丈夫なくらい、強い関係になりたいな、と。そんなことを思いながら、イラリアとデートする夢に落ちていった。
――今度のデートは、何をしよう……?




