078. 花と指輪とゲームとお風呂〈5〉
「そう。女神さまの悪戯。貴女もこの大陸の神話は読んだことがあるわよね? 五柱の神々がこの世界を見て動かしていることも、知っている?」
「ええ、まあ、基礎教養の範囲内で」
「前世の文化の記憶を持つ貴女は、もしかすると娯楽小説を楽しむのと同じ気持ちで味わったかもしれないけれど、神話は世界の成り立ちを描いているの。時間があったら、また触れてみて。この世を生きるうえで良い勉強になると思う。
話を戻すと――今、大事なのはね。五柱の神々は、今も私たちを見ているということ。今もこの世界で遊んでいる」
「へえ……。なるほど?」
きっと彼女は、神話を、ただの空想の物語として嗜んだのだろう。まるで伝わっている気がしない。
ふわふわと可愛らしく笑って誤魔化しているが、これは絶対に通じていない。私はゆっくりと説明していく。
「火の神さまは火で遊び、火をもって人を救い、火をもって人を裁く。水、地、風の神さまも同様よ。そして女神さまが遊びや仕事に使うのは、人の心と体と命。
愛と美と生命を司る女神さまは、私たち人間の恋心や愛情を手玉にとる。色事に狂う人間の子らの姿を見て笑う。人の世の美醜の時流に手を入れ、時に自らの手で美しい子を作る。
貴女も何度か褒められたことがあるでしょう? まるで女神さまの御子のようだ、と。それから女神さまはね、気まぐれに命を摘むこともあるの」
「わぁ、怖いですね。それで姉さまは、私たちも、女神さまに遊ばれていると?」
「本当に何かの力がはたらいているなら、それは女神さまの力だと私は思う。私たちに〝さだめられた物語〟があったなら、それは女神さまの筋書きではないかしらと思う。
もしかすると女神さまは、貴女の元いた世界にも干渉していて――この世界の物語を知る人間をこちらに生み落とすことで、遊んでいるんじゃないかしらって」
「つまり――ニホンにあったオトメゲームも、その女神さまの作った筋書きによって動かされた人間の手で作られたもので。
オトメゲームの記憶を持つ私が、物語のモデルとなった世界に生まれ直したのも女神さまの思し召し。
女神さまは、その記憶に振り回されて生きる私や、私のせいで散々な目に遭った人々の姿を見て楽しんでいる――と?」
「そこまで刺々しくは言っていないけど、そうね。この世界とオトメゲームの関係について、今の私の考えは、そう。
公にされていないことも多いけれど、昔から、ときおり異世界と繋がることがあったらしいもの。ニホンとの繋がりがどこかにあって、そこに神々が干渉しているというのは、突飛な発想ではないはずよ」
「うーん……。まあ、わかりました。私もひとつの考えとして、頭の中に留め置きます。
それで――この推測を踏まえて、フィフィ姉さまは、今後どう動くのが最善だとお考えなのですか。どうすれば私たちは、平穏な生活を手に入れられますか」
先程までの誤魔化しゆるふわにこにこから一転、イラリアは真剣な瞳をして、しっかりした声で私に問うた。
今わかる範囲で、彼女にできる範囲で、私の考えたことを正面から受け止めてようとしてくれている。彼女の成長をふいに感じて、胸がじんと温かくなった。
真摯に向き合ってくれた最愛のひとの真心に応えようと、私も彼女にならって、
「女神さまの思し召しを想像して、私たち自ら〝面白く〟生きるのよ」
そう、大真面目に答えた。
「……へっ?」
大口を開けてぽかんとしても、やっぱり私の義妹は可愛い。
入浴と夕食を終えると、私は書類仕事があるからと言ってイラリアやドラコと別れ、書斎に籠もった。
やるべきことは毎日必死にこなしているけれど、次々と新しいものが出てきて終わらない。
領地の経営など、代理人に委託している業務はあるものの、他のことに忙殺されて、最適と言えるほどの効率化はまだできていなかった。これから整えて、体への負担を減らさないとね、と頭の片隅で考えながら作業する。
書類の確認と署名といった簡単な作業を終えたら、次はそれより面倒な書類づくりだ。
たまに現実逃避をしつつ、愛しい家族の顔を思い浮かべつつ、せっせと書類を書き進める。
――ドラコの就寝時間になる前に、ある程度はキリがいいところまで終わらせて。ぎゅーして、ほっぺに〝おやすみのちゅー〟をして……。大事な息子だもの、彼を可愛がる時間は必要よ。
それからイラリアとも、眠る前にも話してあげられるように。恋人としての求めにも応えられるように。体力を。時間を。
私は、父さまのようには、ならない。みんなを、ちゃんと、愛してる、愛を伝える――
目に疲れを感じてきたら、先の作業効率のために数分間の休みをとる。
目を瞑ってぼんやりしていると、疲れていても、様々なことが頭をよぎった。半分くらいはイラリアのこと。
――イラリアとの婚約式。銀の指輪。心臓蘇生……。アルティエロ殿下の指輪。カラーチェンジの宝石。魔法石。あの人との、婚約指輪――
二、三分後。そうだわと目を開け、鍵付きの引き出しを開け、小箱を取り出す。さらに小箱の鍵を開けて、中身を取り出した。
この書斎なら、仕事場なら、誰かに、イラリアに引っかき回されることもないと思って――私は過去に父さまの書斎に忍び込んで、鍵付き引き出しを漁って秘密の情報を盗もうとしたことがある身だけれど――引っ越してきた時に、ここにしまった。捨てきれなかった過去。
――アルティエロ殿下の指輪の意味。セルジオ殿下の言う、私の知らない、あの人のこと。いまさらでも、もう会えなくても、私はあの人を知る必要があるみたいなのよね。
鍵付き引き出しの中の鍵付き小箱の中に隠した、あの指輪。
今となっては何の意味も持たない、三度の人生すべてで六歳の時から私のものだった、あの人との婚約指輪。
昔は宝物だったそれを、天井からの明かりに照らせば、宝石はキラリと灰色に輝く。私の瞳のような色だった。
一度目の私には、本当に〝私だけのため〟に誂えたように見えて。嬉しかった、こともあった。
かつて、彼の正式な婚約者だった頃。
登城や公務の時には、いつも指輪を身につけている必要があった。
一度目の世界で『わざわざ見せつけるな。はしたない。俺の目に見えないようにしてくれ』と謎の理由で彼に嫌がられたので、以降はネックレスに通して付けたりしていたものだ。
――最初から、あの人は……私のことを嫌っていた。それなのに、私は恋した。不毛にも。
三度目の世界の十二年前、王城帰りに襲われた日にも、婚約者の義務として指輪を身につけていた。
隣国で拾われた後、私がベガリュタル王国に帰る時までは、グラジオラス家の奥様――お母様が密かに保管してくれていたらしい。
森の中で失くしたとばかり思っていたので、返された日には驚いた。
――これは、私が〝オフィーリア・ハイエレクタム〟だと証明するものだった。私が行方不明になったことが公にされた時から。
私が正直に言わなくても、お母様は、いずれ私の正体に気づいてしまったということね。
灰色の宝石が煌めく指輪を、机上の玻璃燈の下に置く。灰色だった宝石は、淡く愛らしい薔薇色に変わった。
アルティエロ殿下の指輪の宝石は、緑色と赤色だった。あの人の指輪の宝石は、灰色と薔薇色だった。
――愛されることは期待するな、と。彼本人の言葉だけでなく、妃教育の一環でも教えられた。国を背負う者には、愛よりも大事なものがあるのだと。
そんな一度目の私に、この宝石は、自らの秘めた恋心の色のように見えて。夜、この色を見るのが好きだった……。
どうしてこの色なのだろう。意味はあるのだろうか。あったのだろうか。眺めていても、わからない。
――イラリアに聞くという手もあるけれど、自分で気づいてみたいわね。〝オトメゲームのシナリオ〟に歪められたくはない。
指輪を箱に戻し、鍵をかけ、引き出しにしまってまた鍵をかける。手首に薔薇の香水を一吹きして、気合を入れ直すように深呼吸し、グラジオラス家に送る手紙から、また書きはじめた。
イラリアと遠距離だった頃のことを思い出しつつ、挨拶と近況報告を。それからレオンに尋ねる〝勇者の魔法〟のことを――……
ドラコの様子を見にいって、母として〝ぎゅー〟と〝ちゅー〟をして。あと一時間だけと書斎に戻って。
残りの仕事のいくつかを終えると、私はようやくイラリアとの寝室に入った。
お手製の〝フィフィ姉さまぬいぐるみ〟を抱えてベッドの上でぽつんと寂しそうにしていた彼女は、本物の私と目が合うや否やにっこり破顔する。
私は彼女に抱きつかれ、倒れ込むように、ベッドの上に寝転がった。
「お待ちしておりました。フィフィ姉さま。お仕事お疲れさまです」
「ありがとう。イラリア。遅くなってごめんなさい」
「いえいえ」と彼女は起き上がり、フィフィ姉さまぬいぐるみをサイドテーブルに座らせる。「私に手伝えることがあったら、もっと手伝いますのに……」
ぬいぐるみに「おやすみフィフィぬい様」と小声で言ってから、イラリアは「まだ駄目ですか?」と振り向いた。
彼女が〝フィフィ姉さまアイテム〟を愛でているのはいつものことなので、ツッコまない。私は掛け布団を整えながら答えた。
「そうね、もしも手伝ってもらうなら、夏くらいからかしら。まだ安静にしていてほしいし、本当に役に立つつもりなら、そのための勉強も必要よ」
「えへへ、これでも勉強は得意ですからね。すべての人生で学院首席入学のイラリアちゃんを舐めないでください!」
そうだったわねと頷き、微笑んで、私は部屋の明かりを消す。彼女と布団の中に潜り込む。
イラリアは「へへへへ。おやすみなさい」とキスをして、ただ私をぎゅうっと抱きしめた。……あら? これで終わり?
「今日は……いいの?」
「うん? いちゃいちゃのことですか? お風呂でまあまあできましたし、本当にお疲れのようですから。このまま寝ましょう。うふふ、こうして眠ろうとすると、初めて添い寝した日を思い出しますねぇ」
「気を遣ってくれて、ありがとう。もっと体力をつくれるように頑張るわ」
「無理しないでくださいね。姉さまが無理して早死にしちゃうのは嫌ですから」
「……うん。わかってる」
「フィフィ姉さま。大好き」
「私も。貴女が大好き」
久しぶりに、穏やかに、ただ温かく愛おしい眠りにつく。いつまでこうしていられるだろう。いつまで彼女の隣にいられるだろう。
未来のことを考えるとちょっとだけ怖くなって、ちょっとだけ強く、愛しいひとを抱きしめた。
春は――あっという間に終わってしまう。




