069. この心臓を壊してでも〈2〉
「他のやつにも、気安くは力を貸すな。……心配なんだよ。立場的にも危ういだろ。お前ら」
「そうですね。いくつかの珍しい例が重なっているので、他国からの注目も強いらしく。学業や彼女の容態のことを理由に躱しておりますが、そのうち面倒事に巻き込まれそうです」
ぐらぐらと沸騰したお湯をポットとカップに注ぎ、温める。指先が冷えているせいだろうか、陶器のカップ越しに伝わってくる熱を、やけに強く感じた。
――この手は、弱い。私は、私が期待しているより、力のない存在。
それを悔しいとは、思わない。仕方がないことだ。私は人間であって、神の愛し子であっても神ではない。聖女と言えども万能ではない。
聖女の本能か何かに〝聖女らしくあれ〟と自己犠牲精神を煽られていても、自らの魔法だけでは彼女を救えなかったのが私の現実だ。それは受け止めねばなるまい。
イラリアは、命を懸けた魔法を駆使して、誰かを守れる聖女。類稀なる大聖女。偉大な子。
私は、彼女ほどの力を持たない、魔法をうまく操れない、最愛の命さえ守れなかった、弱い聖女。
自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「私とあの子とで、聖女としての強さが違うことは、あの子だってわかっているんです。卒業パーティーの時、私は彼女を救えなかった。彼女は自らの鼓動を止めてまで私を救った。
彼女の方が、聖女の力を、癒やしの魔法を自由に操れる。力の差は明らかです。それで十分なんです。私の体の弱さも、あの子なら、昔からわかっているはずだから。だから、」
すうっと息を吸って、そのまま自然に。ため息のように薄っすらと呟いた。
「私があの子より早く死ぬなんて、わざわざ今、言うまでもないことで」
この声を可視化するなら、きっと透き通ったヴェールの生地だ。結婚式の日に目前で揺れるような。純白のドレスの裾から先まで長引くような。
私たちが結ばれる時までにも――本当に結婚できるかは、まだわからないけれど――それから先の人生にも、付き纏う現実。
「あの子の蘇生の過程で、私が勝手に無理をして――私の寿命が削られたことなんて、教える必要はないんです。無理に現実を見せる必要は、ないんです。まだ気づいていないなら、その方がいい。永遠に気づかれなくても構わない」
硝子のティーポットの中で、茶葉がゆっくりとひらいていく。紅い色がひろがっていく。紅。朱。赤。いつか感じた彼女の血のぬくもりが思い起こされ、幻になって手のひらを滑った。
かつては殺すほどに憎み、嫌っていた彼女を、今ではこんなにも愛している。人の心とは不思議なものだ。彼女を愛せる日が来るなんて、あの世界の私は思ってもみなかった。
――イラリアのことが、好き。大好き。一緒にいたい。ずっと隣にいてあげたい。でも、きっと――
「あの子は、いつでも〝自分〟より〝私〟を優先します。私だって愛しているのに、彼女の大切さを、彼女自身がわかっていないのです。
彼女が悲しかったり、痛かったり苦しかったりするのは、私だって嫌なのに。それをよくわかってくれないのです。この世界の悪いことを、よく知らないのです。
聖女の力の酷使によって、私の心臓が弱まったことを知ったら。あの子への魔法によって、私の残り時間が減ったことを知ったら。あの子は暴走してしまう。
私を助けるためだとか言って、また自分をないがしろにするかもしれない。その行為の意味もよくわからないまま、自分を傷つけるかもしれない。
だから、もうちょっと。せめて彼女の心が、この世界に、貴族社会に生きる大人らしく成長するまでは、何も言わない方が良いんです。私が死ぬ未来は、まだ見せなくて良いんです」
「…………俺だって、あまり追い詰めたいわけじゃないし、お前が頑張っているのも、悩んでいるのも、多少は知っているつもりだが。
あえて言わせてもらうと……そうやって、わざわざ言い訳を連ねたのは、本当は言うべきだって気づいているからじゃないのか」
「うふふふ。鋭いですね。……本当は、いつかは言わないといけないのでしょう。ええ。わかってます。私の寿命が彼女より短いことは、そのうち伝えるつもりです。はい。
でも、やっぱり……彼女の心臓蘇生の過程で私の心臓を壊してしまったことは、わざわざ言わなくてもいいでしょう? ね?」
私は、きっと、彼女の隣に居続けられない。
私が〝聖女の心臓〟の蘇生方法を見つけてしまった今、彼女は何かの事件に巻き込まれても、再び殺されても、この人生を終われない。
終わることを許されない。
世の中には、治せる病と治せない病がある。同じ病に罹っても、治る人と治らない人がいる。
怪我をしても綺麗に治る人もいれば、傷跡が残る人もいる。後遺症が残る人もいる。
同じように無理をしても、平気な人もいれば、倒れてしまう人もいる。
彼女がクーデターの時と同じように力を酷使しても、同じように心臓が止まっても、蘇らせることはできる。
その方法は、確立できた。けれど、私の心臓は、そうじゃない。
私は、気づかぬうちに自らに無理をさせてしまい、心臓の一部を壊した。
ここで生じた欠陥は、私の心臓が動ける期間を、私の寿命を一気に短くさせた。
今の私の心臓は、まるで――そう、天災に見舞われて壊れかけた家のようで。天災以前の家より、これまでの私の心臓より脆く、いつか必ず完全に壊れる。
私には、これを治す術がない。家を修理するための設計図を描けない。どうすればいいのか、まだわからない。
心臓の問題と一口に言っても、私の心臓が早く止まってしまいそうな理由と、イラリアの心臓が止まってしまった理由は違う。
聖女の魔法だけでは原因不明の病を根治させられないように、治し方がわかっていなければ、この心臓も治せない。
ヒビまみれの家を丁寧に管理して大事に住んでも、どうせ壊れてしまうように。
今の私は健康に気をつけても長生きできそうになく、設計図を――新たな治療法を見つけなければ、早死にする。そう決まっている。
――このままなら、私は、いつかイラリアをひとりにしてしまう。もちろん、治療法を見つけられるように頑張るけれど。まだ諦めていないけれど。
彼女を置いて逝ってしまう覚悟は、しておいた方がいい。残り時間を意識して、生きていく。
「私の命が削られてしまったことは、意図しなかった事故だったけれど。後悔はしていません。悪影響があると事前にわかっていたとしても、きっと同じ道を選びます。彼女を蘇らせるために尽くします。
彼女が永遠に失われる〝四十年間〟と、彼女と一緒に生きられるかもしれない〝十年間〟なら。どちらかを選ぶなら、十年間がいい。
たとえ、これが〝百年間〟と〝一年間〟であったとしても、一年間がいい。今は、まだ……彼女に言う勇気はないけれど。ねえ、先生?」
手のひらに力を込め、涙が落ちないように上を向く。大丈夫。私だって、もう大人だ。人生三度目だ。いつまでも泣き虫でいるわけにはいかない。
「二度と彼女に会えない余生なんて嫌で、彼女と私が一緒に生きられる可能性を選んだこと。結果として私の健康を、残り時間を犠牲にして、愛する人と一緒にいられる時間を選んだこと。私――間違ってなかった、ですよね?」
「ああ。その選択は、間違っていない。絶対に」
「……ありがとうございます」
今のは、完全に甘えだった。楽になるために欲しかった言葉だった。やっぱり私は弱い。
――でも、大人でも。誰かに支えてもらわないと、やってられない時くらい、あるものよね。……ああ、死にたくないわ。
目尻に残る涙を拭い、手を洗う。ポットの中の紅茶を軽く混ぜる。
「あと十年、か……。――いや、もうちょっと生きられるんじゃなかったっけか?」
「条件の設定によれば〝十年間〟という結果もあったでしょう。先生ならご存知のはずですよ。現実的な数値です。それに……少なめに見積もっていた方が、長く生きられた時に嬉しくありません?」
「そんな内容で笑うなよ。痛々しい」
「わぁ、辛辣ですね」
くすくすと笑いながら、紅茶と茶菓子の準備を終える。これで私たちの用事は済んだ。イラリアたちの方も、しっかり片付けを終えただろうか。
準備室を出る前、先生はぽつりと呟いた。
「もっと早く気づけなくて、ごめんな」
「……そのことは、お気になさらず。って。謝らないでって。私も何度も言っておりますよ。うふふ、お互いさまですね?」
「わかった。もう言わない。――ありがとう」
先生に扉を開けてもらい、隣の実験室へと顔を出す。イラリアとセルジオ殿下の様子は――
「あら、険しいお顔……」
「そうだな。あれは何やってんだ?」
私と先生が来たのにも気づかないほど、ふたりは何かに集中しているらしい。
実験机の椅子に腰掛けて向き合い、両者とも眉間に皺を寄せ、ものすごい速さでペンを紙の上に走らせていた。




