066. 涼しい春の踊り場で
涙を乾かそうと、瞬きをぱちぱち繰り返す。
廊下を歩いて、最寄りの階段に繋がる角を曲がる。
「――あら」
「あっ」
「わあ」
気温の低くなってきた夕方の踊り場に、ジェームズ先生とセルジオ殿下が座り込んでいた。
私の姿に、ふたりは気まずそうに目配せし合う。
出てきた私が涙ぐんでいたせいかしら、それとも、先程のイラリアとのキスシーンのせいかしら。
「とりあえず立つか」「ですね」と彼らはぎこちなく立ち上がる。
ジェームズ先生は咳払いして、ちらちらと視線を合わせたり外したりしながら私に言った。
「あー……。瀕死には、なっていないようだな。オフィーリア」
「ええ。なんとか。叫ばずに済みましたね。おふたりとも、ずっとこちらに?」
「姉上たちの会話を盗み聞きしていたわけではないのですが……そうですね。すみません」
「まあ。こんなところでは、居心地悪くありませんでしたか? どこか他の教室にでもいらっしゃったら良かったのに」
「僕は大丈夫です。ひっそりしたところは好きなので」
「俺も、特に問題ない。そっちの異変に気づけない方が困るからな。その……〝会話の内容は聞き取れないけど声は聞こえる〟くらいの距離感を目指したら、ここになって」
「なるほど。本気でご心配くださっていたのですね。お騒がせいたしました。そして、ありがとうございました」
涙を拭いきり、私はふたりに頭を下げる。
部活に顔を出すだけでもお邪魔だったろうに、イラリアとの痴話喧嘩でさらに迷惑をかけてしまった。
気を遣ってもらってしまい、ありがたいとともに申し訳ない。
「いや、べつにいいんだ。そんで大丈夫なのか? イラリアとのことは」
「仲直りと言いますか、それなりに落ち着くところまでは話せました。私はこれで帰りますので、帰宅後にまた話そうかと」
「そうか。また何かあったり、ヤバくなりそうだったりしたら、周りに頼れよ」
「はい。肝に銘じておきますわ。ありがとうございます」
「オフィーリア姉上。もう帰ってしまうのですか?」
「そうですね。そろそろ……。部活の邪魔をして、すみませんでした。セルジオ殿下」
「えっ、べつに邪魔だなんて思っていませんよ!?」
「うふふ。お優しいのですね。ありがとうございます。――では、失礼いたしますね。セルジオ殿下。ジェームズ先生。また後日」
にこりと微笑み、今度は別れの挨拶の礼をして、私は階段を下りはじめる。
大学院と学院とでは講義や授業のある時間も異なるから、ここからの二年間は彼女と一緒に登下校できない日の方が多くなるのだろうなと、ぼんやり考える。
今日は私の方から、別々に帰ることにしてしまったわけだけれど。
六段目か、七段目か、そのあたりまで下りたところで、背後から声が聞こえた。
「――あ」
「殿下?」
両足を同じ段に置いて、手すりを掴んでから振り向く。
セルジオ殿下は驚いたような、焦ったような表情をしていた。
「どうかなさいましたか?」
「ちょ、ちょっと……ちょっともう一回そっちを向いていてください。すみません。確認したいことが」
殿下の言う通りに、私は再び進行方向に向き直る。とん、とん、と階段を下りてくる音が背後で響く。遠くから、他の足音も聞こえてくる気がする……。
「突き飛ばさないでくださいね」
「そんなことしませんよ」
ふ、と彼は苦笑を漏らして、私の後ろで立ち止まった。一、二段ほど上にいるのだろう。気配を感じる。
「…………やっぱり」
「何が『やっぱり』なのですか?」
「姉上、今日、誰かに髪やリボンを――」
「フィフィ姉さまーぁっ!!」
「!」
「イラリア?」
あたりに響いたイラリアの大声に、私は思わず肩を揺らす。セルジオ殿下も驚いたのだろうか、私の頭に手が触れてきた。反射的に動いてしまった、そんな感じで。
「あ、すみません。姉上」
「いえ、平気です。殿下」
もう彼女も泣き止んだのだろうか。片付けは済んだのだろうか。イラリアの姿を見るために、また振り返る。すると殿下と目があった。
向き合ってみると意外に近くて、気恥ずかしさを誤魔化すように笑ってしまう。私も、彼も。
「ちゃんと頭は冷やしたので、やっぱり一緒に帰りましょ――えっ!?」
踊り場に現れたイラリアは、空色の瞳をまんまるにした。口をぱくぱくさせ、焦ったように階段を下りてくる。
彼女の額と髪が濡れているように見えるのは、気のせいだと思いたい……。頭を冷やそうと言ったのは、なにも物理的な意味ではないのだから。
「な、なんでっ、それ――わあぁっ!?」
まあ、私も過去に、浴槽の冷水に浸かってみたことはあるけれど――あら。やっぱり、ね。
まずい状況なのに、やけに冷静に考えられている私がいた。イラリアが足を踏み外して、セルジオ殿下の足もずり落ちて。
――これは、彼女の言っていた〝オトメゲーム〟の――……
まるで時間の流れ方が変わったみたいに、ゆっくりと、セルジオ第二王子殿下がこちらに落ちてくる。
「オフィーリアっ!」
「フィフィ姉さま!!」
――今日って、本当に、おかしな日。
先生とイラリアの声を聞きながら、私は次の踊り場まで落下した。




