065. 愛を伝えて口づけて
そもそも、イラリアは、わかっていなかった。
手を繋ぐこと、キスすること、抱き、抱かれること。彼女にとって、それらは好感度を上げて愛されるための行為であって、誰と何をしても、そこに〝屈辱感〟や〝敗北感〟や〝喪失感〟など存在しない。
ただ恋い慕う相手を〝特別〟であらせるためだけに、本来はそのひとりとだけするべきだと考えている。
例えるなら――甘くて美味しい大好きなお菓子は、いつでも誰とでも食べるのではなく、好きなひとと一緒に味わって食べる。
好きなひとと食べる方が、もっと美味しいから――そのくらいの感覚で、性行為というものを捉えている。
――いろいろ経験しても、なお〝素敵〟〝楽しくて幸せ〟と言い切れるということは、そこまで酷いやり方はしなかったのでしょうね。あの人は……。
あれでも彼女にぞっこんだったから。きっと優しくできて。いまさら生々しく想像したくはないけれど、ちょっとだけ、考えてしまったわ。
頭を振り、くだらない幻想を追い払おうとする。過去の婚約者と今の婚約者が睦み合っている光景なんて、想像しても具合が悪くなるだけだ。
……それが過去の現実だったと思うと、さらに悪くなるけれど。
――ああ、もう。こんなことを考えている場合じゃないわ。問題はいくつもあって、今、大事なのは……彼女に釘を刺しておくこと。もう彼女が、あんなことをしないように。
三度目のこの世界で、ふたりで話し合った時。
イラリアは『もうしない』と言ってくれた。それを微塵も信じていないわけではない。
あの日、その言葉を私にくれた時は、彼女も本気で心に決めていただろう。あの日は私も本気で信じられた。
――でも、人は、環境は、時間が経つと変わってしまうもの。今の危険な状況で、もしも脅されたら?
私の名前を出されて誰かに唆されたら? また『オフィーリアのために』なんて思ってしまったら?
私が『嫌』だと伝えても、本人がそう思っていない行為なら。触れ合いを嫌がる感覚を、よくわかっていない彼女なら。
私の言葉や、きっと恋物語なんかで得た程度の『嫌い』や『気持ち悪い』しか知らない彼女なら。取ってつけたような拒絶の言葉しか言えない彼女なら。
――また、奪われてしまうかもしれないじゃない。また、自分の身体をないがしろにするかもしれないじゃない。
ずっと屈辱感や喪失感を知らずにいられるなら、彼女も気丈に笑っていられるかもしれない。
もしかしたら、今度は私に知られさえしなければ良いと思って、徹底的に隠そうとするかもしれない。
彼女が『大丈夫』と言うなら、放っておいてやるのもひとつの手だ。彼女の人生は、彼女が決めて良いものなのだから。
――でも、いつか理解してしまったら? 傷つくのは、イラリアよ。
彼女は、キスの仕方や肌の重ね方は知っていても、性関係の負の事柄についてをよく知らない。心のどこかが、まだ子どものままなのだ。
前世のオトメゲームといった恋物語で見聞きしたことを信じて、その時の心のまま、この世界に来ても悪いことには気づけずにいる。
「ねえ、イラリア」
私は彼女を抱きしめていた腕を解き、その両頬を手のひらで包み込んだ。彼女の空色の瞳を射抜くように見つめる。
「これから言うことは、今以上に、しっかり聞いて」
今日だけでは、とても伝えきれない。何年も、数度の人生のなかで続いている彼女の考えは、そう簡単には変わらない。
これだって、彼女が生きてきた結果なのだ。全否定してはならない。彼女の中から、彼女の前世を消し去ろうとしてはいけない。
だから、ゆっくりと時間をかけて、伝えていく。心をこめて何度でも言う。
――この世界で、貴女と。イラリア・ミレイ・リスノワーリュと私が、一緒に生きていけるように。
「貴女と触れ合うこと、一緒にいること。私にとって、それは幸せなことよ。私は貴女と生きられる今を大切に、幸せに思っていて、貴女とキスできる日常を愛おしく思っている。……わかる?」
「はい。わかります。私も、幸せなはずです」
「私もね、殿下や先生と私の関係を貴女が疑って不安になった気持ちは、わかる。それを解消するために、何かが欲しかったことも。
そのせいで激しくしてしまったキスなのでしょう。私を独り占めしたかった気持ちが、膨らみすぎてしまったのでしょう」
「……はい。たぶん」
「私も貴女とのキスを、誰かさんに見せつけてやったことがあるもの。我ながら貞淑な行いだとは言えなかったわね。見せつけて、嗤って、ざまあみろって傷つけようとしたのかも。幼稚だったわ。
あの時は相手の機嫌をものすごく損ねてしまったから、貴女も気をつけなさい。そうね――いまのところは、こう覚えておいて。
人前でいちゃいちゃすることは、時に反感を買って、怒りや劣情を抱かれたりしてね。悪感情を向けられる原因になることがあるの。
こわーい人だと、それがキッカケで殺そうとしてきたりもするの。だから、人前での激しいいちゃいちゃは控えましょうね。いい?」
「ええ、わかりました。姉さまに劣情を抱かれるのは嫌なので、やめま――やめられるように、善処します!」
「うん。いい子ね。あとは、さっきみたいな行為そのもののこと。わかってほしいのは、キスの深さや回数で愛を得られるわけじゃないってことね。
死にそうなほど激しくしたって、私が貴女を死ぬほど激しく愛せるようになるわけじゃない。暴力的にされたら、逆に嫌になっちゃうかも。
キスはね、愛を保証する行為じゃないの。まだ難しいかもしれないけれど、覚えていて。――私は、貴女からのキスの深さや回数で貴女を好きになったわけじゃないの」
彼女の目元を優しく撫で、耳に触れ、そこから首筋まで手を滑らせていく。
すれ違ったって可愛くて、今日も好き。姉らしく窘めている今だって、彼女を恋人らしく愛したい。
「人の想いを、過去に見た〝好感度〟なんかの数字的な上がり方で測らないで。因果関係を間違えないで。『キスをすれば好感度が上がるもの』なんて短絡的に考えるのは、良くない。
私たちは生身の人間で、私たちの感情は、そんなに単純なものじゃない。私は――」
目を瞑った彼女の顎に指先で触れ、唇を重ねる。これは、ちゃんと〝キス〟だった。
今度は息苦しい口づけではないのに、はらりと涙が頬を伝っていく。
「〝好感度〟目当ての〝キス〟や〝好き〟に恋したんじゃなくて、貴女だから、好きになったのよ」
――今の心は、繋がっていたかしら。重なれたかしら。
彼女の瞳からこぼれる涙を拭い、もう一度だけ唇に触れてから、体を離す。
「お互い、ちょっと頭を冷やしましょうか。貴女はここの片付けもあるものね。今日は、先に帰ってる。……待ってるわ」
そうして「あとでね」と手を振って、扉の手前で「大好きよ」と呟いて。
私は、薬学実験室を出た。




