062. 想い違うキス
イラリアは私の背中に手を回し、ぐいっと軽々しく押し倒す。
――あ。これは、まずいわ。
彼女の手付き、息遣い、口の中。そのすべての様子が、あまりにも……。危うく、いやらしく、熱っぽい。
とても学問の場に相応しいものではなかった。これは、学校でなっていい状況じゃない。
「イラリアっ、ちょ、待って」
「…………」
「お、怒ってるの? さっきのは、貴女の、勘違い……で」
だらしない声が漏れないようにと我慢しながら、合間合間に、彼女にキスをやめてもらおうと言葉を紡ぐ。
――他に、人が、いるのに……。どうしましょう。
いや、むしろ、だからこそ、なのだろうか。彼女は触れるのをやめてくれない。閨で声を出させようとする時と同じように、してくる。
「やだ、イラリア、やだ……」
「――オフィーリア姉上。僕らは、ちょっと、出ていますので」
「…………そうだな、本当に『瀕死』の危機になりそうだったら叫んでくれ」
「! 殿下、先生……!」
ふたりに、行かないでくれと言うのは、どう考えても違う。こんな姿は見られたくない。音を聞かれたくもない。
これで『人がいるのに』の懸念は解消されるから、私はこの展開を喜べるはずだ。喜ぶべきだ。
でも……このまま放置されるなんて、と不安感や孤独感もおぼえてしまう。彼らの方へ視線を向けようとすると、イラリアはそれさえも許さないと言うように深くした。
――イラリアのことは、好きだけど。こういうことを、していい場所と、そうでない場所とがあって。
こういうことは、ふつう、他人に見せつけるものじゃなくて……。
ドアの閉まる音がする。
「やっと――ふたりきりになれましたね。フィフィ」
彼女は唇を離し、そう言ってニヤリと笑った。高まっていた緊張が解けたせいか、私の瞳から涙が落ちる。悲しいわけではない――と、思う。
でも、もしかしたら寂しかったのかもしれない。呼吸のことだけではなく、心も苦しかったのかもしれない。
「イラリア。なんで、こんなことをするの……?」
「愛しているからです」
「それは……それは、わかってる、けど。でも、こんなやり方は、違うと思うわ……。私は、本当に、嫌だったの。こういうのは、違う……」
「――何が、違うんですか?」
「っえ」
きょとんと首を傾げたイラリアの笑顔は、ひどく作り物めいていた。
三度目の人生の始め頃、彼女が彼女でないと気づいた時と似た、嫌な感覚が体内を走る。
私は今、びっくりしたのだな、と。遅れて気がついた。
体の感覚を彼女に乱されたせいか、心の調子もどこかおかしい。頭もぐらぐらする。
「イラリア……ラーリィ……?」
「違わないでしょう? だって〝キス〟なんですよ? そもそも意味がわからないんです。私がそう思うならまだしも、姉さまがどうして〝キス〟を本気で嫌がるんです?」
「何を、言ってるの。まさか貴女は、私が〝キスを嫌がる理由〟がわからないとでも?」
「ええ、そうです。だって……〝キス〟イベントの後ニは〝好感度〟ガ上がるものじゃないですカ?」
――ああ、そういうことだったのね。
「姉さまは好感度ガ上がりにくいから、何百倍モの回数を――むぐっ」
喋り途中のイラリアの唇を、無理やりに塞ぐ。それは私から彼女にした今までのキスの中で、何より物悲しいものだった。
――私は今、初めて、彼女に愛を伝えようとせずにキスを仕掛けている。
彼女がするようにして、しばらくの後に唇を離す。
「――フィフィ……」
「イラリア。正直に、答えて。今のキスは、嫌だった?」
「? そんなわけ、ないじゃないですか? だって大好きなフィフィ姉さまからのキスですよ?」
「貴女の言葉を呑み込ませるためだけにしたキスでも?」
「はい! 大好きですっ!」
「……わかったわ。試すようなことをして、悪かったわね。新入部員の様子も確認できたことだし、もう帰ります」
「へ?」
衣服の乱れを整え、実験室内の水道で顔を洗い、私は帰る準備をさっさと進める。
ハンカチで顔を拭きながら、至極どうでもいいことらしく聞こえるように、あえてぶっきらぼうに話した。
「ああ、そうそう。私は第三王子殿下とは結婚しないわ。魔法社会の名残で、王室にはちょっと古い決まりなんかがあって――まあ、細かいことは、どうでもいいわね。
結婚して王子妃になるのではなく、私が王家の一員になるの。だからセルジオ殿下は今も私を〝姉上〟と呼ぶ。ただそれだけのことよ」
「姉さま。怒っているんですか?」
「いいえ? ただ、ちょっと寂しくなっただけ。貴女とは、一生わかり合えないかもしれないって。不安にもなったわ」
「……そんなに、私とのキスがお嫌なんです……?」
「貴女とのキスそれ自体が嫌なんじゃなくて、無理やりで暴力的なものが嫌なの。愛を〝伝える〟ものじゃなくて、何かの欲望や主張を押し付けて〝わからせる〟ものと言うのかしら」
「――『貴女とするキスなら、全部好き』って。言ったじゃないですか……。嘘だったんですか?」
心変わりを責めるようなその声に、すぐに違うと答えて安心させてやりたくなる。彼女の心を癒やすこと、彼女の心身の平穏を守ること。それだって私の役目だと思っている。……でも。
――ここで甘やかすのは。曖昧に逃げるのは、違うわ。




