059. 耳に残る、その声は
今、この心臓が騒いでいるのは、恐怖や焦燥や混乱のせい。古びた恋心のせいじゃない……。そうやって心の中で整理している、つもりでいる。
でも、そうしている時点で私は、彼への恋心を捨てきれていなかったのかもしれない。
彼との過去という記憶の厄介さに、もっと早く気づくべきだった。
金糸のような髪を、宝石のような瞳を、今も美しいと感じている。
目の前の男は、三度目の出会いの日の彼のように、にっこりと笑った。
「この色の髪と目では、はじめまして。オフィーリア」
「!」
――声が、違う。
私の名を呼ぶ声、「オフィーリア」と呼ぶ声が。
バルトロメオのことは、あの婚約破棄の夜の悪夢を始め、これまで何度も夢に見た。
もう本人とは一年も会っていないけれど、その声は、まだ忘れていない。
いつだったろう、イラリアから聞いたことがある。人間は、最初に〝声〟から忘れると。
大切なひとや愛するひとと別れた時、一番にわからなくなってしまうのは、そのひとの声なのだと。
彼女も、前世のパパやママの声は、もう思い出せないらしい。私も、言われてみれば、そうだった。
大好きだったはずの母さまの声も、はっきりとはわからない。覚えていない。
遠距離だった時のイラリアの声の記憶も、もしかしたら、曖昧だったかもしれない。
――どうして、まだ覚えているの。耳に残っているの。
私は彼の声を、他の男のものと聞き分けられるくらい、ちゃんと覚えている。
彼は私のことなど覚えていないのに。何もかも忘れているはずなのに。私だけが声も、顔も、まだ……。
「貴方は、誰ですか」
絞り出した問いは弱々しく、情けなかった。このままではいけない。気持ちを奮い立たせ、背筋を伸ばし、正面から彼を見る。
「うーん。何と言えばわかるんでしょうね。――ああ、そうだ」
彼は自分の脇腹に手をやって、ぺしぺしと軽く叩いてみせた。
この仕草だけで、なんだろう、バルトロメオらしさが一気に薄れる。私の心の荒れが落ち着いていく。
――この人は、彼じゃない。
「あの時は、ごめんね? 痛かったでしょ」
「あの時……?」
「もう十二年も前のことになるから、覚えてないかな? 急所は外してあげたんだけど、アイツの命令だったからさ。俺だって本当に刺したかったわけじゃないんだよ? でも、完全には逆らえなくて――」
「っ、まさか」
先程とは違う理由から、恐怖感が高まっていく。十二年前、あの時、急所は外して刺した――
「まあ、ある意味、命を救ってあげたんだから、感謝してくれてもいいけど。そんな雰囲気じゃなさそうだね」
十二年前――私は、王城帰りに襲われた。三度目のこの世界で、まだ七歳だった頃のことだ。
いきなり脇腹を剣で貫かれ、三ヶ月も眠ったままになった。
あの森は、暗かった。騎士の顔はよく見えなくて、なんとなくの輪郭しか掴めなかった。どうして刺されたのか、わからなくて。熱いほど痛くて。痛くて。
「おや、大丈夫かい? オフィーリア」
「いやっ、触らないで! ひとりで立てます……」
支えようとでもしたのだろうか、腰へと伸びてきた彼の腕を振り払う。震える両脚に力をこめる。
――私は、ひとりで立てる。大丈夫。今は私も紫紺騎士。大丈夫……。
「ふふ、完全に怯えさせてしまいましたね。これは失敬」
「貴方は、王城の、護衛の、あの人の……」
「そう。貴女を何度か護衛したこともあれば、貴女を一度だけ傷つけたこともある、紫紺騎士――アルベルト・ゼアシスルという名で生きていた」
「生きていた?」
「ああ。今の名は、アルティエロという。生まれた日から、こっちが本名だ。やっと本当の場所に戻れてね。領地に引きこもっていたリスノワーリュ侯爵は知らないかもしれないが、この国の第三王子だ」
「第三王子殿下――で、いらっしゃいましたか」
私とて、この国の貴族のひとりだ。彼の存在くらいは知っている。
昨年から王家の一員となった、第三王子アルティエロ。廃太子バルトロメオの異母兄である。
国王陛下の命により、生まれた時から、彼は身分を隠して生きていた。
王族の侍従や侍女を輩出してきたゼアシスル伯爵家の養子として暮らし、紫紺騎士になってからは、バルトロメオに付き従っていた――らしい。
――そんな彼が、いったい私に何の用で……。ああ、あのこと絡みかしら。面倒ね。
「失礼いたしました。リスノワーリュ侯爵領主、オフィーリア・フロイド・リスノワーリュと申します。お初にお目に……かかるわけではなかったようですが、ご挨拶させていただきます」
「はい。驚かしちゃって、すみませんね。お会いできて嬉しいですよ。姫様」
「先程から、なぜ、そのような呼び方をなさるのでしょう。殿下」
「――貴女は〝第一王女〟だから」
囁くようなその声は、いやに耳にまとわりついて。
――やっぱり、彼の声とは違うわ。
そう、あらためて感じさせられた。




