052. プロローグ〈1〉あの花が舞う学院で
私たちの一日は、今日もキスから――
「――イラリア。ちょっと」
「はいっ! なんですか、フィフィ姉さま」
イラリアは私の首に腕を絡めて、にっこにこの笑顔で唇を離した。仄暗い寝室の中でも、彼女の空色の瞳の煌めきはよくわかる。
「寝ぼけている間に熱烈にするのは、やめて。苦しいでしょ。死んだらどうするの」
「姉さまが死んじゃったら大変ですね。泣いちゃいます。でも、窒息寸前の死にかけくらいなら私が癒やせますから大丈夫です!」
「ああ、そう。貴女の方が寝ぼけているみたいね。久しぶりに身の危険を感じたわ。元気になったようで何よりだけど……」
私は彼女の頬を撫で、顎に触れ、ほんのりと唇を重ねるだけのキスをした。こちらからの触れ合いには未だ慣れてくれないのか、彼女は頬をぽっと熱くする。
「まだ日も昇っていない時間よ。病み上がりなのだから、もうちょっと、おとなしく休んでいなさい。遅刻しないように起こしてあげるから」
「姉さまったら、朝は苦手なくせに。おねえさんぶっちゃって」
「あら。おねえさんぶっているわけじゃなくってよ? 私は――」
「きゃっ」
彼女を抱き寄せ、耳元で囁く。
「もう、貴女の婚約者なんだから」
ふわり、ひらり。薄紅色の花びらが舞う。青空の広がる四月だった。
隣のイラリアはしなやかな腕を上へと伸ばし、手のひらを開くと、にこりと笑う。
「あっ、また捕まえました」
「反射神経も良いみたいね。私よりも健康そう」
「今度は何にしましょう。またネックレスとか?」
「貴女の好きにすればいいわ。――私も捕まえた」
「姉さまも成長しましたねぇ」
「馬鹿にしているの? これでも私は紫紺騎士よ。体は鍛えているの」
夢見花の木の下で立ち止まり、手を解き、代わりに腕を組む。今度は逃げたり離れたりしない。
いつかのように花びらを学生手帳の間に挟むと、再び手を繋いで歩きだした。学生たちの声がする。
「――あちらにいらっしゃるのは、薔薇姫様と……えぇと」
「姉君のリスノワーリュ侯爵閣下ね。かっこいい〜」
「私、おふたりで登校なさっているのを見るのは初めてだわ」
「聖女様は、その……亡くなられたと聞いていたけれど」
「ああ、それね。もうひとりの聖女様が、魔法で蘇らせたそうよ」
「蘇らせた? でも、死者の復活なんて〝真の不可能〟なんじゃ……」
「オフィーリア様は、妹君への愛で聖女になられて。イラリア様もね、実は」
「聞いた? あの噂。国王陛下が聖女様を――」
私たちを見る皆の目は、過去二度のどちらの世界とも違う。彼女と私が一緒にいることを、前よりも肯定的に見られている。
ちょっとくすぐったく温かい気持ちをおぼえると同時に、身が引き締まる思いもする。
私と彼女は、この国の聖女。力を持つ者として、正しく生きなければ……。
「フィフィ姉さま。――大丈夫」
「な、何がよ」
イラリアは私の手を握る力をぎゅっと強めて、励ますように凛とした声で言った。
「何もかも、全部、ふたりだから」
――ああ。見透かされている。
彼女が目覚めてから一気に緊張が解けて、これまでの均衡が崩れて、存外に脆くなった心のことを。今も胸を蝕んでいる不安を。
「ありがとう。イラリア。……好きよ」
彼女に「好き」と言うこと。「愛してる」と言うこと。それは、今や私の不安を和らげる良薬だった。
伝えずに後悔した過去があるからこそ、今は。
「私も愛してます。フィフィ姉さま」
「ええ。私も……あいしてる」
貴女に「好き」と「愛してる」を、溺れるくらいに伝えたい。……まだ少し、恥ずかしいけれど。慣れないけれど。
今年の春を、貴女と一緒に迎えられて良かった。
私は大学院一年生の薬学部で、イラリアは学院三年生の翠玉クラスで、再びの学校生活を送りはじめた。
過ごす校舎は変わるとは言え、建物があるのは同じ学園の敷地内。私の学院在籍時と比べても、そこまで距離はできていないはずだ。が。
「姉さまぁ。寂しかったです」
「嘘おっしゃい。今日は午前授業だったでしょう。ほんの数時間しか離れていないわよ」
「だって前より遠いんですもん」
復学した日の放課後のこと。待ち合わせ場所に現れるや否や、イラリアはべったりと私にくっついて離れなくなってしまった。私の腰に腕を回して、まるで駄々っ子のように。
「校舎が違うから廊下ですれ違えることもないしー、姉さまが授業を受けている教室を覗くこともできないしー、行事でも会えないんですよー? やだやだやだぁ。もう飛び級したい!」
「残念ながら、この学院に飛び級は存在しません。他所の制度を持ち出さないで。もう貴女も大人なんだから、やだやだしないの。無理よ」
「むうぅ……。病み上がりなのに、姉さまが冷たい。風邪ひいちゃいそう」
「こんな時ばっかり、か弱いふりをしないで。貴女の回復っぷりは驚くほどに良好です。――ねぇ? ジェームズ先生」
「いや、ここで俺に振ってくるなよ……」
先生はため息をつき、「またなんでここに来てるんだ。お前ら」と呆れたような声で言った。
私とイラリアが待ち合わせをしていたのは、そう、学院の薬草畑である。
「なんかぁ、なんとなくでここになりました!」
「なんとなくで来るなって」
「結局ドラコはリスノワーリュ家で世話をすることになったので……私もドラコもいなくなってしまったとなると、先生も寂しいんじゃないかな。と」
「おうおう。オフィーリアまで俺をからかうようになったのか? 成長したな。べつに俺は寂しくねえ」
イラリアを目覚めさせる研究に協力してくれたジェームズ先生との距離感は、学院卒業時よりも、ぐっと縮まった。
今の私たちにとって彼は、心から信頼できる――言うなれば、兄のような存在だ。
「それで? 久しぶりの学校はどうだった?」
「姉さまが一緒の校舎にいなくて寂しいでーす」
「今日のところは、特に問題なく。明日以降も勉学に励む所存です」
「そうか。どっちも大丈夫そうだな」
イラリアは「大丈夫じゃないですー!!」と子どもっぽく言って、私をぎゅううっと強く抱きしめた。
「相変わらず仲良しなこって」と先生は笑う。しみじみと。
「せんせー。部活も姉さまがいないと頑張れないので、連れ込んでもいいですか?」
「学院校舎に卒業生が入るには手続きが必要。それは大学院生でも変わらねえ。連れ込みたいなら姉さまに頼むんだな。
ああ、でも、ドラコに会うためなら来るっつってた姉さまも、お前ひとりのために来るかはどうだろうなー」
「えー! 先生がいじわるだー」
「くだらないことで揉めないでね。私がいなくても、ふたりとも仲良く部活に励んでください。私も来られそうなときは来るけれど……。ちょっと忙しいのよ。いろいろと」
「いろいろってなんですか姉さま!? 私に何か隠し事でも!?」
「姉妹でも、婚約者でも、伝えられないことはあるわ。不安にさせたくはないから、侯爵家当主としての仕事とだけ言っておくわね」
「これの面倒を見るのも大変だろうが……体に気をつけてな」
「ありがとうございます。先生」
「これってなんですか!? 何そこで信頼関係を見せつけてくれちゃってるんですかぁ!! 私が眠っていた一年の間に! 姉さま取られちゃった〜!!」
「取られてないから安心して」
ギャンギャンと喚くイラリアをあしらいつつ、私と先生は〝死者の復活〟や〝心臓の蘇生〟の話をした。
此度のイラリアの目覚めは、私と彼女がともに聖女であったがゆえに成し得た特例だが、これを利用して新たに確立できる治療法もあるかもしれない。
話を終え、私とイラリアが帰ろうとした時。ジェームズ先生は思い出したかのように言った。
「ああ、そういやさ。薬学研究部に入部希望のやつがいたぞ」
「えっ、新入生ですか?」
「いや、学院四年の蒼玉クラスの男子だ。イラリアと同学年だったやつで……。まあ、次に来たとき、会って話してみろ」
「はぁい。わかりました。――あっ、フィフィ姉さま。安心してくださいね。部員に男子がいたって、私の身も心も姉さまのものですから」
「それは心配していないわ。まったくね。では、ジェームズ先生。また明日」
「はいよ、また明日……って、明日も来るのかよ」
「我が婚約者のことは信じておりますけれど、その男子学生とやらには、一度は会っておきませんとね」
「フィフィ姉さま……! もしかして嫉妬してくださっ」
「帰るわよ。イラリア」
彼女と手を繋ぎ、王都にある別邸へと帰っていく。ここが私たちの新たな住処だ。
ふたりで「ただいま」を言って。メイドたちやドラコに出迎えられて。
再びの学校生活一日目は、こうして穏やかに過ぎていった。




