049. 三・ペンペン草が枯れた夢〈未来編〉
夢を見た。
学院三年生のある日、居眠りをしていた授業中。
俺――ジェームズ・スターチスは、生々しい後悔の念とともに目を覚ました。後頭部がズキズキと痛むのは、仮眠の影響だけではないだろう。
――なんだ、これ。なんだこれ。なんなんだ、今のは……。
おかしな記憶が戻ってきたというべきか、まるで別の人生の記憶を見たようだというべきか。
黒板に書かれた文字列をノートに写しつつ、先ほどの不思議体験について整理する。
夢の中では、俺はこの学校に勤務する薬学科の教師だった。薬学研究部という部活の顧問も務める三十代目前の男。
ちなみに現在の俺は、医学・薬学系の翠玉クラスに在籍する十七歳の学生だ。夢に出てきた女子学生と、ちょうど同い年。
その女子学生以外の人間の顔は、夢の中では霞んでいた。彼女だけは、なにか特別だったのだろうか。
目覚めて数分が経った今でも、ただひとり、彼女の顔なら鮮明に思い描ける。
冬に舞う落ち葉の色の髪。さらさらで真っ直ぐ。大事に伸ばしていたのがよくわかる。
雪国の湖のような銀色の瞳。いつもほんのりと寂しげで、どこか遠くを捉えているような。
ふたつ年下の妹が関わるときだけ、ころころと様々に表情を変えてみせる彼女。
妹のことを考えるときには、他のどんな難問を解くときより真剣な顔をする。妹と触れ合うときには、恋に喜び悩む少女らしい顔を見せる。
彼女の中心は、いつも妹だった。
あの王太子の相手としてお似合いかはさておいて、間違いなく、未来の王妃に相応しい女性だった。
皆の模範となる優秀な学生だった彼女の弱点をあえて指摘するならば、体が強くはなかったこと。
部活動や自主学習にも熱心に取り組んでいた彼女は、ある放課後に俺の目の前で吐血し、倒れ、数日後に帰らぬ人となった。
彼女の名は――オフィーリア・ハイエレクタム。
……ん? ハイエレクタム? オフィーリア、ハイエレクタム??
ペンを止め、考える。いや、考えるまでもない。俺はこの名前を知っている。この国の貴族なら、誰でも彼女の名を知っている。
ああ、そうか。なるほどな。真剣に向き合った数分間は無駄だった。本当にただの夢なのだ。馬鹿馬鹿しい。徒労感と安心感に、俺はため息をつく。
ハイエレクタム家と言えば、由緒正しき公爵家。オフィーリアは、そこのお嬢様のお名前じゃないか。たしか……今は、四、五歳といったところ。
彼女の歳から考えるに、あの夢は、およそ十二、三年後の世界を舞台にしていたようだ。
一時は正夢かとも思ったが、そんなはずはない。あれが未来の現実になるとは思えない。なってはならない。別の人生などとも考えたくない。
彼女があんな酷い人生を送ることは、許されないから。誰も救えなかった世界なんて、認めたくないから。
だから、ただの夢なんだ。
俺が大学院生をやっている頃、この世界のオフィーリア様は王太子殿下の婚約者になった。夢に出たオフィーリアと同じだ。
第三魔毒血症研究のために夜を明かすときなどは特に、彼女の顔が脳裏によぎる。俺は彼女の夢を何度も見ていたせいで、ずっと忘れることができないでいた。
夢の世界の俺は、実の妹を救えなかったのみならず、あのお嬢様のことまでも死なせてしまった。どこまでも無力で、無価値な人間。
大丈夫だろうか、ふと今日も心配になる。身の程知らずにも俺は、現実では会ったこともない、十二歳も年下のご令嬢のことが気になっていた。
赤の他人を気にかけている余裕なんてないのに。早く治療法を見つけないといけないのに。
あの夢の中では、俺の妹の死はただの過去。
ハイエレクタムのお嬢様との夢しか見られないから、よくわからないけれども――『俺が二十歳の時、十四歳で死んだ』と。妹について、俺はそう言っていた。
その時まで、あとどのくらいだ? 二年は無い。一年と数ヶ月――妹の病状の進行具合を考えれば、あと一年も無いかもしれない。
ただの夢だと割りきれれば良いが、妙に心に引っかかった。本能が無視するなと言っていた。
どんなに夢を見ても、彼女のことしか出てこない。彼女と話したことしか、出てこない。……なんでだよ。
俺が第三魔毒血症の治療法を確立したことになってんだろう? その世界では。ちょっとくらい見せてくれよ……。
――誰も、救えなかった。あれが正夢なら、俺は……。
大切なひとを守れない医学に、この探究に、なんの意味があるのだろう。頑張っても無意味なんじゃないか。たまに思う。
睡眠時間の不足や過労のせいで、おかしくなっているのだ。頭の片隅では理解している。でも眠れない。限界まで起きていないと。不安で先に心が駄目になる。
――どうしたら、俺は救える?
夢の中の彼女は、家庭で虐待されているようだった。後妻の娘である妹ばかりが可愛がられ、オフィーリアは酷い扱いをされていた。婚約者の王太子も悪い御仁だった。
聖夜祭の日のことは、何度夢に見ても毎度気分が悪くなる。彼女との婚約を一方的に破棄した王子は、ひどく不愉快なことを言い、彼女を侮辱して傷つけた。
あれから彼女はさらにやつれて、二月になってから亡くなった。より正しく言うのなら、殺された。
あんな目に遭わせるわけにはいかない。どうか現実にならないでくれ。
下級貴族の学生に過ぎず、彼女の役に立てる何かを持つわけでもない俺は、ただ願うことしかできなかった。
今は――俺は、この第三魔毒血症と闘うために足掻かなくては。家族を、妹を助けるために。
夢に見た後悔を現実にしないように。
願い通りと言うべきか、夢と違うことが起きた。俺が妹の治療を終えた頃、オフィーリア様は行方知れずになった。
あの日、学院にやってきた変なお嬢様は……。いや、考えても仕方ない。
妹は、あの子の見た〝未来〟のおかげで救えた。研究を進めなければ。
オフィーリアは見つからないまま、一年、二年、三年……月日が過ぎた。その間に俺は第三魔毒血症の治療法を確立した。ハイエレクタム公爵は伯爵へと降爵された。ざまあみろだ。
授業中の居眠りで初めてあの夢を見てから、十年以上が経った頃。彼女の妹――イラリアが、俺の勤める貴族学院に入ってきた。彼女は、薬学研究部を作りたいと言った。驚いた。
そいつは、夢の中でオフィーリアが設立した部活だった。いや……夢ではなく、本当に別の人生だったのかもしれない。イラリアの言動で察した。彼女には、俺が見た夢と同じ世界の記憶があるのだと。
イラリアは、やけに俺を信頼しているらしい。オフィーリアの話をしょっちゅう俺に聞かせた。彼女の彫刻を作ったり、彼女の絵を描いたり、どう考えても薬学とは関係がないことを部活の時間にやることもよくあった。
イラリアは、オフィーリアが生きていると信じていた。手紙が届いたと、めちゃくちゃ喜んで駆けつけてきたこともあった。
ちらりと見せてもらった手紙は、ああ、確かに……夢で見るオフィーリアと、同じ筆跡をしていた。
あれは、本当にあったことなのだろうか。あんなに酷い目に遭ったことを、彼女自身も覚えているのだろうか。
夢の中のオフィーリアが死んだ日も、俺が死んだ日も過ぎて。妹が二年生になった時、彼女は帰ってきた。
髪を切って、男装をして、名前をフロイド・グラジオラスに変えて。
一目見て、わかった。
喋り方が変わっても、髪型や服装が違っても、彼女は彼女だった。
――オフィーリア・ハイエレクタム。
こうして現実で会った時も、夢の中でも、彼女への思いは変わらない。別の世界ではうまくいかなかったけれど、俺は……彼女を守りたかった。
病弱な姿が、自分の妹と被ったのかもしれない。家族や婚約者から理不尽な扱いをされても胸を張って生きる姿に、好感を持ったのかもしれない。
――そうだな。やっぱり、妹と重ねていたところが大きかったのかもな。今度は死なせない。って。
断片的にしか思い出せない、別の世界で生きていた俺は。
彼女には、幸せに生きてほしいと思っていた。特定の学生に肩入れするのは不誠実だと知りながら、顧問をしている部活の子だからと言い訳して、彼女とその妹が穏やかに過ごせるよう見守った。
オフィーリアとイラリアにとって、別の世界の記憶は、ふたりしか覚えていない〝秘密〟のようだ。だから、俺は知らないふりをした。記憶など無いふりを貫いた。
あんなダサくてみっともない記憶なんて、人に語るようなものでもない。
彼女の髪は、夢でも現実でも……いや、別の世界でもこの世界でも、綺麗だった。短くなっても、しっかりと手入れはしているのだろう。艶は消えていない。
彼女は薬学が好きだった。勉強熱心だった。いつもいつも頑張っていたのに、別世界では残酷にも殺された。
なぜだろうな、オフィーリア。なぜお前が死ななければならなかったのか、俺は今でもわからない。
オフィーリアとイラリアは、まあ仲良くやっているようだった。聖夜祭の日のドレス姿の美しさは衝撃だった。目に焼きついて離れないほど綺麗だった。他意はない。あのクズ王子がイラリアにフラれた時は爽快だった。
でも、三月……。オフィーリアとイラリアは、再び引き裂かれた。
ふざけるなと思った。何度、何人を死なせれば、あの野郎どもは気が済むのだろうと憤った。
イラリアを蘇らせようと励むオフィーリアを、支えたかった。守りたかった。
一歩間違えれば自ら死を選んでしまいそうな彼女を、明るい方へ引っ張ってやりたかった。
『お互い、今度は妹と一緒に生きられるように。頑張りましょう』
あの遠い日のお嬢様も、お前だった。変装していたって、隠していたって、今ならわかる。信じられる。
オフィーリアのおかげで、俺は妹を救えた。今度は一緒に生きられるようになった。
ようやく幸せになれそうだったオフィーリアが、このままイラリアと永遠に別れることなど許せない。
諦めて死ぬなんて、もってのほかだ。
一年後の春、無事にイラリアが目覚めた。ふたりは学生に戻って、たびたび波乱に巻き込まれつつも青春を謳歌して。満を持して迎えた結婚式の時は、年甲斐もなく泣きそうになった。
オフィーリアは大学院を卒業し、イラリアは学院を卒業した。実の妹が健在なこの世界でも、ふたりは妹のように可愛い存在だ。学院で会えないとなると……まあ、なんというか、寂しいものだ。
ドラコの伯父らしき存在として家に招かれることは多々あるものの、毎度毎度〝お邪魔している感〟が半端ない。本当に。
いちゃいちゃ惚気っぷりを延々と見せられる、こちらの身にもなってほしい。こちとら未だに独身だ。
さて――学院長曰く。
今年は久しぶりに薬学科の新任講師が来るらしい。武術の科目も持っているが、指導は薬学科、つまり俺がやれとのことだ。新婚で子持ちのやつだとか。
学院長から「君もそろそろ結婚したらどうかね」などと言われたが、余計なお世話。ムカつく老いぼれだ。
「失礼します」
凛とした、聞き慣れた声が薬学室に響いた。慌てて顔を上げる。
白衣姿で入ってきたのは、これまた見慣れた顔だった。ここにいるのを見たのは、随分と久しぶりだが……。
「お前、学校まで何の用だ? 何かあったのか?」
「いいえ、何も問題はありません」
「じゃあ、なんで」
「うふふっ……あのね、先生。私――薬学科の新任講師、オフィーリア・フロイド・リスノワーリュと申します」
その簡単な言葉の意味を飲み込むのに、平常の何倍もの時間がかかった。
「……新任講師」
「はい。驚かせたくて秘密にしてたんですけど、びっくりしました?」
オフィーリアは悪戯っぽく笑って、学院の卒業式の時のように、くるりと回った。
白衣の裾がひらりと揺れる。長い髪も、ふわりと舞った。
ああ、びっくりした。
「秘密だと? 水臭いやつだな。俺がどんだけ世話してやったと思ってんだ」
「はい、ごめんなさい。ジェームズ先生。頑張りますので、ご指導よろしくお願いいたします!」
「反省の色が見えない。やけに元気そうだ」
「だって嬉しいんですもん。ちゃんと薬学科の先生になれたことが」
彼女も、きっと覚えている。別の世界で生きた日々を。彼女が倒れる直前、俺が言ったことも。
嫁にもらってやろうかと言ったのは、冗談じゃなかった。在学中の教え子に教師が求婚するとは何事か。
なんて、誰かにバレたら懲戒処分になる発言だっただろうけど。
学生の若さや弱さにつけ込んで下世話なことを企む変態教師とは違う。それは本当だ。
他にも、自分を正当化するための言い訳ならいくらでも言える。でも、そんなことはどうでもいい。
仮に、万が一にも、あの世界の俺が、身の程知らずな恋をしていたとして。別の世界のことなど、誰にも咎めようがない。だから言い訳はしない。必要がないのだ。
ただ――幸せにしてやりたいと。
このひとりの学生の健やかな笑顔を見るためなら、何だって出来ると思った。
世間から叩かれる結婚だろうと。無駄な足掻きだと嗤われる、伝説の薬草探しだろうと。
「オフィーリア」
「はい、先生」
お前は、きっと知らないだろう。
倒れたお前を治したいと、俺がどれだけ強く望んだことか。治療法と治療薬を探すために、いくつもの晩を寝ずに明かしたことだって。
救えるかもしれない方法を、やっとの思いで見つけたら、もう手遅れだったこと。お前の亡骸を見て、俺が泣き崩れたこと。あのクズ王子に嘲笑されるくらい、ボロ泣きだったんだ。
お前の病状の悪化の仕方に、疑問があって。花睡薬のことも気になって。
お前の死後も調べ続けていたら、公爵と王太子の悪事に辿り着いたことも。証拠集めの最中、王太子の側近に俺が殺されたことも。
お前が、今、こうして生きていることが。ものすごく嬉しいのだということも。
こっちの気持ちなんて何も知らないで、健やかに可愛らしく笑うのだろう? オフィーリア。
ああ、そうだ、それでいい。
「結婚生活……幸せか?」
「はい、幸せですよ! 先生の方は、なんか落ち込んでます? もしかして誰かに『結婚しろ』とか言われました?」
「ああ、言われた。新任講師のことを、子持ちの若い男だと思わされてな。『それに比べてお前は……』みたいな目で見られた挙げ句、それだ」
「先生も結婚すればいいじゃないですか。先生をお慕いの令嬢も何人かいるようですし。アネモネ嬢とはいかがです?」
「新任講師、その話は終わりだ。薬学室の説明すっから、ついてこい」
クスクスと笑いながら、オフィーリアは慣れた足取りで薬学室を歩く。元気そうで何よりだ。
医療や薬学と関連のある職につくとは言っていたが、まさか薬学科の講師になるとはな。
ちなみにイラリアは、この春から王立研究所で医学の研究を仕事にすると言っていた。外科手術の技術やら人造人間づくりやらの研究をしたいらしい。
「……良かった」
「? 何がです? ジェームズ先生」
「なんでもねぇよ」
お前が――オフィーリアが、イラリアと幸せに生きられるようになって、良かった。
初めてオフィーリアとの夢を見た日から、心の奥底で引きずっていた後悔。あの苦い想いが、今やっと晴れた気がする。




