047. 一・公爵令嬢に仕えた侍女の祈り〈最初ノ世界〉
あどけない灰色の瞳が絶望に染まっていくのを、私は見ていることしかできませんでした。
――これは、私の後悔。
奥様が亡くなられました。まだお若かったのに。オフィーリアお嬢様の弟君をお腹に宿したまま、御子とともに、奥様は旅立ってしまわれました。
黒いご衣装をお召しになったお嬢様は、まるでお人形のよう。可愛らしい丸いお顔から一切の感情を消し、私たち侍女がお慰めすることさえ許しません。
私はオフィーリアお嬢様に仕える侍女でしたのに、お嬢様に何もしてさしあげられませんでした。
――ずっと、最後まで。
「これからは、私にやさしくしないでね」
ある日、たった二歳のお嬢様はおっしゃいました。どこか子どもらしく、けれども年の割に大人びた言葉遣いで。
子どもは大人より敏感だと聞きます。そのうえ賢いお嬢様のことです。察していらしたのかもしれません。
ハイエレクタム家が、これから狂っていくことを。
旦那様が、新しい奥様をお迎えになりました。旦那様の実子であると彼女が主張する、小さな小さなお嬢様と一緒に。
「――きれい」
遠目から、初めて母娘を見た時。お嬢様は呟かれました。
これが奥様のことだったのか、小さな妹君のことだったのか、私は知りません。
これから先も、絶対に知ることはできません。
新しい奥様と、妹君――イラリア様との出会いから、オフィーリアお嬢様は変わってしまわれました。
少しずつ、少しずつ、元のお嬢様でなくなっていかれました。
でも、それより先に変わってしまったのは、私たちの方。
私はオフィーリアお嬢様の侍女でなくなり、イラリア様の侍女になりました。
オフィーリアお嬢様付きの侍女は誰もいなくなり、お嬢様は、おひとりになられました。
『死なせない程度に世話をしろ』
これが旦那様から使用人たちに下されたご命令でした。私を含め、多くの使用人は、旦那様の恐ろしい企みの全貌までは知らなかったのです。
無知も、無力も、罪なこと。
聖女殺しが大罪だというのなら、お嬢様が罪人にならざるを得ない環境を作ってしまった私たちは、何という名の罪で裁かれるのでしょう。
きっと法の下に裁かれることはなくとも、いずれは罰を受けることになるのだと思います。お嬢様を死に追いやった全員が、です。
私たちは、新しい奥様に命じられるがまま、オフィーリアお嬢様を虐げました。いま思えば、狂っておりました。
ですが、たとえ時が巻き戻ったとしても、私たちは別の道を選べそうにはありません。こうするしかなかった。そう強く感じているのです。
誰も彼もがイラリア様だけを愛し、オフィーリアお嬢様には一縷の愛も与えませんでした。まるで何かの魔法にかかったように。
今日もオフィーリアお嬢様がイラリア様を泣かせてしまわれたので、私たちはお嬢様にお仕置きしなくてはなりません。
今日もオフィーリアお嬢様がイラリア様より劣っていらっしゃるので、私たちはお嬢様にお仕置きしなくてはなりません。
旦那様や奥様から死を望まれているのに今日もオフィーリアお嬢様は生きていらっしゃるので、私たちはお嬢様にお仕置きしなくてはなりません。
お嬢様は、どのようにあの家で生き延びていらしたのでしょう。今となっては、よく思い出せません。
私もお仕えしていた頃には確かにお嬢様を愛おしく思っていたはずなのに、いつの間にお嬢様の頬を叩けるようになったのでしょう。
お嬢様の声も涙も体温も覚えているのに、わかりません。
私はどうして、お嬢様をお救いできなかったのか。
「ねえ、■■■」
「なんでしょうか、イラリア様」
イラリア様は、とてもお美しく成長なさいました。オフィーリアお嬢様からいくら傷つけられようと、その肌に傷が残ることはありません。
イラリア様は、どこをとっても完璧で、きっと……神の愛し子なんてものでなく、彼女そのものが神さまだったのでしょう。
だから、みんな彼女を愛したのです。彼女のためなら狂えたのです。
誰も彼もから嫌われたオフィーリアお嬢様を、この女神さまだけは、ずっと。
「オフィーリア様は、今日も悲しんでいらしたかしら」
「……はい。とても」
「そう」
イラリア様は、いつも手鏡をお持ちになっています。
オフィーリアお嬢様に気づかれないよう、鏡の中のお嬢様を見つめるためです。
イラリア様は、いつもオフィーリアお嬢様のことを調べています。
密かに、誰にも知られぬように。私たちには読めない何かを綴っていらっしゃいます。
「イラリア様は、オフィーリアお嬢様のことがお嫌いなわけではないのですよね?」
「ええ、もちろん。誰よりも愛しているわ」
「ならば、なぜ……お嬢様を、その」
「オフィーリア様が私を嫌うのは決定事項。ならば私は、オフィーリア様が生き延びるための道を選ぶまで。でも、そうね。失敗したら、その時は――」
イラリア様は、確かにオフィーリアお嬢様を愛しておいででした。ただ、多くの人から〝普通〟と括られる愛し方をご存じなかったのでしょう。
まだ十歳のイラリア様です。ときおり一般から外れてしまうのも仕方ありません。私たちは、イラリア様が自ら学ばれるのを待ちます。いつまでも。
そもそもイラリア様にとって正しいのなら、それは世界にとっても正しいのです。イラリア様は女神さまですから。
イラリア様は、何をなさっても罪にはなりません。彼女はイラリア様ですから。
「ふへへへ、ふふ、オフィーリア様に殴っていただけました! えへへへ〜。ちゃんと予定通りにできました!」
ついイラリア様を傷つけてしまわれた時、オフィーリアお嬢様がどんなお顔をなさっているか。イラリア様にはお見えになっているのでしょうか。
おそらくは何かのフィルターがかかって、お嬢様の可愛らしさしかお見えになっていないのでしょう。
私もオフィーリアお嬢様がお可愛いことには賛成です。
あの頃は口が裂けても言えませんでしたが。
イラリア様を殴ってしまわれたオフィーリアお嬢様は、もっと酷いお仕置きを受けるのに。
お嬢様はイラリア様と違って、怪我の治療を受けることは許されていないのに。
どうしてイラリア様は笑っていられるのでしょう。ああ、でも、イラリア様もお可愛いです。
「イラリア様がご満足されたなら、私たちも嬉しく思います」
私の疑問など、どうでもいいことでした。思い返せば、当時は疑問に思うこともありませんでした。
イラリア様は女神さまですから、イラリア様が是と言えば是、否と言えば否。
そうしてあの家は、世界は回っておりました。
「ねえ、■■■。オフィーリア様の寝顔を見たいの。邪魔者が来ないように、はからってくれない?」
「かしこまりました」
イラリア様は、どこまでも無邪気で。罪の意識など欠片もないのです。でも問題ありません。イラリア様は女神さまですから。
オフィーリアお嬢様をお薬で眠らせて、イラリア様が何かなさっています。私には何も見えません。聞こえません。そういうことになっております。
すべてはイラリア様の御心のままに。私も、お嬢様も、世界も。
「ねえ、■■■。聞きたいことがあるの」
「なんでしょうか、イラリア様」
十四歳になられたイラリア様は、神殿で『聖女の素質あり』と告げられました。旦那様や奥様は大喜びでした。
オフィーリアお嬢様は……どうだったでしょう、記憶にございません。
「たとえば、別の世界が……パラレルワールドが、あったとして。私がオフィーリア様の妹でなく、どこか別の貴族の家の娘として生まれて、ただの令嬢としてオフィーリア様と出会えたなら。そしたら――」
イラリア様のお御髪を梳かしていた手を、私は止めました。驚いて動けなくなった、の方が相応しい表現かもしれません。
鏡に映るイラリア様は、なんと涙を流していらっしゃったのです。
初めてお見せになる姿でした。いえ、お泣きになっている姿は、何度も見たことがあるのですが……そういうことではなく。
あの瞬間、初めてイラリア様をひとりの〝人間〟だと思えたのでした。女神さまのヴェールが捲れました。
「私も、オフィーリア様と仲良くなれたかな」
けれど、すぐにヴェールは元通り。あれは見間違いです。見間違いです。
イラリア様は今も、みんなの女神さまであらせられます。大丈夫です。私は何も見ておりません。
答えは決まっておりました。彼女はイラリア様ですから。私はイラリア様の望む答えをお伝えするまで。
「ええ、仲良くなれたかもしれませんね。今からでも、遅くはありません」
「ねえ、■■■」
「はい、イラリア様」
「いつか、大聖女になる時のために。お願いがあるの」
「イラリア様のお願いでしたら、何なりと」
その夜、私はイラリア様と閨を共にし、数日後、予定通りに仕事を辞めました。
もともとイラリア様の学院入学をお見送りしたら、他所の男と結婚することになっていたのです。
イラリア様の侍女でなくなり、ハイエレクタム公爵家の使用人でなくなり、平凡な貴族の男の妻になりました。
それから数カ月が経った頃のこと。私はこの世で最も貴重なお手紙をいただきました。
イラリア様から届いたそれは、いわば遺書というもので。
イラリア様はこれからオフィーリアお嬢様に殺されてしまうであろうこと、オフィーリアお嬢様はそれから程なくして処刑されてしまうであろうこと、そして――イラリア様の最後のお願いが記されておりました。
ベガリュタル王国の王都に戻った時には、すべてが終わっておりました。
イラリア様もオフィーリアお嬢様も亡くなられ、私のご主人様はどこにもいらっしゃいませんでした。
だから、私は。
イラリア様のお墓参りに行きました。神殿でオフィーリアお嬢様の救済を祈りました。おふたりの月命日に、必ずおふたりのことを想いました。
――イラリア様が亡くなられてから、ちょうど一年後。私はイラリア様の最後のお願いを果たします。
イラリア様を偲ぶべく、その日はバルトロメオ王子殿下もハイエレクタム家のお屋敷にいらっしゃいました。
旦那様も、奥様も、お嬢様方をお守りできなかった不甲斐ない使用人たちも。みんなみんな、あの屋敷に揃っておりました。
イラリア様は、神にも人にも愛されていらっしゃいます。ですから、彼女の願いを叶えるのは容易いことです。神さまが力をお貸しくださるのですから。
それに今となっては、本当に、イラリア様ご自身が女神さまかもしれないのです。私たちの過ちの言い訳ではなく。
某国の炎の勇者様を連れ、屋敷を燃やしました。あいつらを全員焼き殺しました。ざまあみろですね。皆さまが燃えていく姿は、吐き気を催すほどに綺麗でした。
これで私も、オフィーリアお嬢様のおそばに戻ることをお許しいただけるでしょうか。
歴史に残る悪女になれたでしょうか。
聖女様と悪女様の愛憎譚を、最高のバッドエンドで終わらせられたでしょうか。
『失敗したら、その時は、貴女が――』
私の首を落とす刃は、オフィーリアお嬢様の瞳のような灰色で。死にゆく私を見守る空は、イラリア様の瞳のような青色で。
本当に別世界があるのなら、どうか。
おふたりが、今度は幸せになれますよう――




