043. 聖女は愛で目を覚ます
「まま、はぁよぅ!」
ドラコの声に、私は研究資料から目を離し、彼を見る。私の養子として育てている彼は、私といつも一緒に寝ていた。
朝、私は起きてもすぐにはベッドから出ない。彼が起きるまでは、ベッドのそばのサイドテーブルに置いている資料を読み込む。それが日課となっていた。
深緑色の髪を撫でると、彼は嬉しそうにキャッキャと笑う。
「おはよう、ドラコ。今日はジェームズ先生がいらっしゃる日よ」
「じぇい! やったー!」
ドラコはジェームズ先生のことを「じぇい」と呼ぶ。ジェームズ先生は、ひと月に一、二回、リスノワーリュ侯爵邸に訪ねてきてくれていた。
私の様子を見て、ドラコと遊んで、イラリアを蘇らせる研究への助言をするために、時間を見つけてくれているのだ。ありがたいことである。
マンドラゴラのドラコは、今では人間の二歳児らしい姿に成長した。無事にすくすくと育ってくれていて、嬉しい限りだ。もともとは人参だったからか、頑なに人参は食べてくれないけれど、他の野菜は食べてくれる。
付きっきりで面倒を見られないのは申し訳ないが、彼は私によく懐いてくれていた。メイドたちとも仲良くやっている、可愛い息子だ。
「こんにちは、ジェームズ先生」
「じぇい〜っ!!」
「おう、ドラコ。今日も元気だな。オフィーリアも元気か?」
「ええ、それなりに」
私は笑って、彼を邸宅へと迎え入れる。
ジェームズ先生は、ドラコを可愛がってくれる伯父さんのような、私たち姉妹のことを心配してくれる兄のような、身近な存在になっていた。私たちの生活を支えてくれる、心強い味方のひとりである。
「研究は、どうだ?」
「まあ、悪くはありません。サクラの実のおかげで、一気に進みましたから」
「お前が『あの実を食べて死ぬ』って遺書みてえに送ってきたときは、本当びっくりしたわ」
「その節は、お騒がせしました」
私は軽い口調で、ジェームズ先生に謝罪する。真面目な謝罪は前にしたから、今はこのくらいでいいだろう。
前の冬に、あの薄紅色の花が咲いた。秋に、木の実がなっていることに気づいた。
母は、死雪花の実を食べると死ぬと言っていた。ちょうどその頃の私は、イラリアを蘇らせる研究がうまくいかないことで気を病んでいて、精神がボロボロだった。とち狂った私は、その実を食べて死のうと思った。
すりおろしたものを目覚めないイラリアの口に運んで、ドラコにも食べさせて、私も食べた。いきなり死んでいたら使用人たちが驚くと思って、事前にジェームズ先生に手紙でその旨を知らせていた。
当日、私が食べた後に彼は屋敷にやってきて、ものすごく怒られた。無理やりに催吐薬を飲まされて、吐かせられた。
「お前、二度とすんじゃねえぞ」
「はい、もちろん。反省しています」
あの実を食べて、私たちはどうなったか。端的に言うと、なぜかちょっと元気になった。イラリアは目覚めないままだったが、私とドラコは体や心の調子がいくらか良くなった。
実の成分を細かく調べてみると、栄養価が高いだけでなく、魔素を豊富に含み、様々な薬効を持っていることもわかった。私は喜々として、その実――イラリアのいた世界ではあの花を「サクラ」と言うようなので、彼女が目覚めることを願って、私は「サクラの実」と呼んでいる――を、研究に使いはじめた。
が、ジェームズ先生は私たちが無事だったからと言って、すぐに私を許してくれたわけではなかった。
『死ぬと思って食べさせるなんて、親失格だ。ドラコのことは、しばらく俺が預かるから』
彼はそう言って、私とドラコを引き離してしまったのだ。可愛いドラコが屋敷からいなくなってしまって私は悲しみに暮れたが、やがて自分が悪かったのだと気づいた。
イラリアがもう目覚めないかもしれないと絶望して、研究にも疲れて、サクラの実を食べてドラコとイラリアと一緒に死のうとした私。
後を追って死ぬのはもうやめてくれと、私はイラリアに言ったのに。もう今度は誰も殺さないと、決めたはずなのに。
私は心が折れかけて、死ぬことを選ぼうとしてしまった。ドラコを可愛いと言いながら、彼を殺そうとしてしまったのだ。馬鹿だった。酷い女だった。
やっぱり私は極悪令嬢。今の状況を正確に言うなら、極悪侯爵だった。
私は反省した。ジェームズ先生に謝って、反省文も書いた。ドラコにも謝った。目覚めないイラリアにも。ジェームズ先生からは、お説教をいただいた。
『ひとりで頑張ろうとするから、そうやって変なことを考えるんだ。自分で自分を追い詰めるな。誰かに相談しろ。俺でも良いし、グラジオラスの家族だって、手紙を送ったら返事をくれるだろう。気のおけないメイドでもいい。
妹とお前が愛し合っているのは事実でも、お前らのことを大事に思ってる人間が他にいないわけじゃねえ。……大人だって、間違えることはある。お前はとっくに成人はしているが、まだまだ未熟者だ。人を頼れ。すぐに死に逃げようとするな』
彼の言葉に、私は泣いた。二回巻き戻って、三回目の人生であっても、私はまだまだ足りないところのある人間だった。
それから私は、積極的に人を頼るようになった。つらい時や、心が折れそうな時。誰かに話を聞いてもらうことにした。
そばにいる人と話すことはもちろん、隣国のグラジオラス家のみんなや、ファリア・ルタリ帝国の後宮に入内したマッダレーナさんとも手紙のやりとりをして、励ましの言葉をもらった。
きっとひとりでは、頑張り続けられなかったのだ。誰かに助けてもらって初めて、私はイラリアを蘇らせて彼女と一緒に生きることができるのだと、そう思った。
私たちが愛し合っていても、世界にいるのは私たちだけじゃない。いろんな人に支えられて、私たちの今の生活がある。互いの姿しか見えなくなるのは、まさに盲目だった。
イラリアが私を癒やして、愛して、幸せを教えてくれたのは確かだけれど、私を大切に思ってくれているのは、イラリアだけじゃない。
違う形の愛で、私を愛してくれている人がいる。私は自分のためにも、イラリアのためにも、そうしたみんなのためにも、諦めないで生きていこうと思った。
私が生き方を変えたのを見て、ようやく信じてくれたのだろう。私が心中をはかってから一ヶ月ほど経ってから、先生はドラコを私のもとに返してくれた。私はドラコを前よりも可愛がって、彼に与える食事を、ときどき使用人と一緒に作ったりするようになった。彼のために使う時間が増えた。
「ジェームズ先生」
「ん?」
「いつも、ありがとうございます」
「ああ。……研究、絶対成功させろよ。協力するから」
「はい。絶対に成功させます」
ジェームズ先生に、私はしっかりと返事をする。彼はドラコをあやしながら、私の研究の相談に乗ってくれた。
窓の外には雪が降っている。今の季節は冬だった。
春が終わるまで、あと数ヶ月。頑張らないといけないな、と自分を鼓舞した。みんなに支えられて、私は今日も頑張ることができる。
今年は暖かくなってから、薄紅色の花が咲いた。
今は、三月。あの卒業パーティーの日から、およそ一年が経っていた。
「おはよう、イラリア」
ドラコとの朝食を終えた後、私は彼女を寝かせている部屋に行く。彼女はまだ目を覚まさない。
けれど研究でうまくいった薬を投与しているから、いつかきっと目覚めてくれると信じている。
癒やしの魔法も併用して、どうにか彼女を救おうとしていた。
彼女の目が開く瞬間を、声を聞く瞬間を、待ち望んでいた。
彼女の唇にキスをして、彼女の体に日光がささないように、カーテンを開ける。日の光が当たったら、彼女の体は崩れてしまうかもしれない。
彼女の体を壊さないように、私は気を遣う生活をしていた。彼女を腐らせないように、彼女を人のカタチのままにしておくために。
サクラの花を眺めながら、私は彼女に話をする。返事は来ないだろうと思いながら。彼女の返事を心待ちにしながら。
彼女が私を呼んでくれる幻聴を、もう何度聞いたことだろう。彼女の声に振り返って、彼女がまだ眠っているということを、何度繰り返しただろう。
彼女の声が聞こえても、振り返るのが怖い。彼女が目覚めていないことを再確認するたびに、彼女がずっと目覚めないんじゃないかと、怖くなる。
だから私は振り返らずに、空元気で喋り続けるのだ。幻の彼女の声に泣きそうになりながら、笑うのだ。
「今日は、良いお天気よ。空が貴女の瞳みたいに綺麗で、サクラの花が美しく咲いてる」
…………ふぃ……ねー……
「もうすぐ貴女の誕生日ね。その前に春の感謝祭もあるし、貴女にあげるもの、考えなくちゃ」
……ふぃ、ふぃ……ねーね……
「何がいいかしら? 綺麗なお花? それともドレス? アクセサリー? きっと貴女なら、何をあげても喜んでくれるでしょうけれど」
……ふぃふぃ、ねえさま。……ふぃふぃねえさま。
「貴方が求婚のときにくれた青い薔薇。まだ私の部屋に、綺麗なままで飾ってあるわ。本当に枯れないのね……って、この話、つい最近もした気がするわ。『奇跡』『夢叶う』なんて、ロマンティックだから、とても気に入っているの」
……ふぃふぃねえさま、だいすき。……ねえさまは、わたしのこと……
「あ、そうそう! ドラコがね、『まま、だいすきっ!』って、最近言うようになったのよ。とても可愛いわ。嬉しくなっちゃう」
「ふぃふぃ、ねえさま……。わたしの、ことは……かわいく、ないの?」
「もちろん、世界で一番、可愛い……わ」
私は恐る恐る、彼女のベッドの方を振り返る。空色の瞳と、目が合った。
「ふぃふぃねえさま」
「い、イラリア? ……幻聴じゃ、ないかしら。夢じゃないかしら」
「ふぃふぃねえさま、あいしてる」
彼女の唇が動いて、声が聞こえる。長い睫毛を揺らして、彼女が瞬きをする。
頬をつねってみた。痛かった。もう一度と、頬を自分で強く叩いた。さらに痛かった。
こんなに痛いなら、夢じゃない。これは、現実だ。
私は緊張で震える足で、ベッドのそばへと歩く。同じく震える手で、彼女に触れる。
彼女の手は、温かかった。弱いけれども、たしかに力のある手で、彼女は私の手を握り返す。
「イラリア。……おはよう?」
「おはよう。ふぃふぃねえさま。かみが、のびましたね。とても、きれい」
「ええ、そう。伸びたのよ。また、伸ばしているの」
「わたしね、ゆめをみてました。……ねえさまと、いっしょに、いるゆめ」
「私も……私も、貴女のこと、何度も夢に見たわ。何百回もよ」
涙を流しながら答える私に、彼女は微笑む。
ああ、イラリアだ。私の可愛いイラリア。愛しいイラリア。
「ふぃふぃねえさま。だいすき」
「私もっ、大好きっ! あのね、イラリア。私、何度も貴女にキスしたのよ。〝おはようのキス〟も〝おやすみのキス〟も、その他のキスも。たくさん。全部で、一千回以上」
「ふふふっ、うれしい。ふぃふぃねえさまも、きす、すき?」
「もちろん、好きよ。貴女とするキスなら、全部好き」
「ねえ、ふぃふぃねえさま。ぷろぽーずの、へんじ。ちょうだい?」
「ええ、わかったわ。……ほんの少しだけ、待ってて」
彼女にそう言って、部屋の外へと飛び出した。メイドたちが驚いているのを横目に、私は屋敷の外へと駆け出す。
花壇のものはそのままに。自然に生えているものを探したい。
屋敷の影に生えた一本の雑草を見つけ、ぷちりとちぎった。小さな白い花がついている。これは、野の花だ。
急いで走って、彼女の部屋へと戻る。
震える手で、ペンペン草をひとつの小さな環の形にした。いびつだけれど、まあ良しとする。
ベッドのそばにひざまずき、彼女の指先にキスをする。空色の瞳が、キラリと潤んだ。
「イラリア・ハイエレクタム様」
「……はい」
「貴女のことを、心から愛しています。私のすべてを、貴女に捧げます。もう同じ間違いは繰り返さない。何度だって、愛を告げます。
何度も貴女の名を呼んで、キスをするから。貴女を愛していると、素直に伝えるから。……私と、生涯をともに歩んでください。結婚、しましょう」
「はいっ、喜んで」
満面の笑みを浮かべたイラリアの左の薬指に、私はペンペン草の輪っかをはめる。
素朴な、道端に生えているような花。私とよく似た花だ。私からの求婚に相応しい花だろう。
私は道端のペンペン草姫。彼女は大輪の薔薇姫。薔薇とペンペン草は、これからの未来を一緒に生きていく。
誰かから何か言われても、目の前にある壁が高くても。私たちは、この道を選ぶのだ。
「イラリア。キス、していい?」
「はい、もちろん。何のキスですか?」
「そうね、何のキスかしらね」
私は彼女にキスをする。
「愛してるのキス」
もう一度。
「ごめんねのキス」
何度も、何度も、彼女と唇を重ねた。
可愛い。私の大好きなイラリア。
「――おかえりのキス」
「ふぃ、フィフィ姉さま。ちょっと、もう無理かも。嬉しいんですけど、その。姉さまからのキス、嬉しすぎて、心臓、持たない」
「じゃあ、ちょっと待ってあげるわ」
イラリアは、林檎のように真っ赤な顔をしていた。彼女がこんなふうに照れているのは珍しい。可愛い。
「イラリア」
「何です、フィフィ姉さま」
「おかえり、イラリア。……愛してる」
「――んっ」
我慢できずに、もう一度キスをする。空色の瞳が私を恨めしげに睨みつけた。
「フィフィ姉さま」
「ごめんなさいね。貴女があまりにも可愛いから」
「もうっ」
彼女は怒ったように頬を膨れさせた。その愛らしい頬を撫でると、彼女はまた笑う。
「ただいま、フィフィ姉さま。私も、愛してるっ」
彼女が私の顎に手を添える。私は、おとなしく目を瞑った。
目覚めたばかりの彼女にも、しやすいように。ほんの少しだけ、自ら彼女へと近づく。
イラリアが、私にキスをした。
キスより先は、私たちだけしか知らない、ないしょの話。




