038. この想いの名前は
ひらり、ひらり、こちらの国にも雪が降る。十二月の末から一月の頭にかけては、冬季休暇だ。
私は聖夜祭の翌日にベガリュタル国を発ち、レグルシウス国のグラジオラス家へと帰省した。夕方頃に屋敷に到着して玄関扉を開けてもらうと、一番に駆け寄ってきたのはレオンだった。
「おかえり! フロイド姉――いや、オフィーリア姉ちゃんの方がいいのか?」
「ただいま、レオン。どちらでも良いわよ」
「じゃ、フロイド姉ちゃんって呼ぶ。髪伸びたな!」
「ええ、そうね」
レオンと話していると、奥様もこちらにやってきた。レオンも奥様も、ふたりとも元気そうだ。良かった。
「おかえりなさい。フロイド……で、いいのかしら?」
「はい。この家ではフロイドのままで構いません。ただいま帰りました、奥様。こちら、お土産です。またお菓子ばかりですが」
「どうもありがとう。お風呂、沸いてるから入ってきなさい。寒かったでしょう?」
「はい、ありがとうございます。入ってきます。旦那様は夜にお帰りですか?」
「ええ、そうよ。ゆっくり温まっていらっしゃい。また、たくさんお話ししましょう」
「はい!」
雪降りの寒い日でも、この家は温かい。学院の寮生活も自由で楽しいが、グラジオラス家のみんなや使用人たちに囲まれて過ごす、ここでの時間も好きだった。
私はお風呂で体を温めて、私の帰省にはしゃぐアンナに着替えを手伝ってもらった。夜に旦那様が帰ってくると、みんなで夕食をいただいた。夏以来のグラジオラス家での団欒の時間だ。
「元気そうだな、フロイド。あちらでの生活は楽しいか? 最近はどうだ?」
「はい、とても楽しいです。最近は、大学院の入学試験のために勉強に励んでいます」
「薬学を学びたいと言っていたな。今までは騎士の道まっしぐらだったが、いつ興味を持ったのだ?」
「実は前から興味は持っていたのですが、部活で薬学研究部に入ってから、さらに興味を持ちました。将来は騎士として働くことになるとしても、何かあったときに薬を作れたら、自分や仲間を助けることにもなるでしょう。そういう強さも欲しかったのです。
あと……もしかしたら、ですが。教師になるかもしれません。騎士として生きられるように育てていただいたのに、道を変えるのは、心苦しくもあるのですが……教師になることにも、興味があります」
「私は、教師も良いと思うわ。貴女の好きなように生きてほしいもの」
「僕も、フロイドが騎士以外の道を選んでも、怒ったり失望したりはしないさ。自分の生きたいように生きなさい。困ったときは、なんでも相談して良い」
「ありがとうございます。旦那様、奥様」
私らしく生きることを許される言葉に、胸がじんと熱くなる。本当に私は、良き人に拾われた。どんな道を歩むにしても、絶対に彼らへの恩は忘れまいと思う。親孝行のできる娘でありたい。
「フロイド姉ちゃん、友だちとか恋人とかの話はないのか?」
「恋人ではないけれど、昨日求婚されたわ」
「「「えっ?」」」
私以外の三人の声が、同時に重なる。三人ともが、食事をとっていた手を止めた。私も一瞬遅れて、ぴたりとフォークを止める。
自分の発言した内容を理解して、自分でびっくりした。こんなふうに報告するつもりはなかったのに、つい口から漏れてしまったのだ。
「あの……いえ。あの。義妹に、求婚されました。はい」
「義妹って、姉ちゃんが手紙によく書いてる、イラリアさんって人?」
「そ、そう。そうです。あの、その……」
私は口ごもって、現実逃避するように、皿の上の料理を無心で食べる。美味しかったはずの料理の味が、ぼんやりとしかわからなくなってしまった。
目の前の皿の中身がすべて片付いたあとで、再びみんなの方を見る。三人とも、私をじっと見つめていた。
何か言わないといけないとは思ったけれど、何と言っていいかわからなかった。
「えと、あの、あの……ごめんなさいっ! 部屋に戻ります!」
「あっ、フロイド!」
マナー違反だとわかっていながら、私は我慢できずにそこから逃げた。
イラリアからの求婚のことを、嬉々として報告してしまった自分のことが、恥ずかしかった。
まだ承諾したわけでもないのに。まだ私は、自分の気持ちを固められているわけでもないのに。
私は部屋に入った後、そのままみんなのもとに戻れなかった。私はアンナに手伝ってもらって、ぼんやりと寝る支度をして、ベッドに入った。
次の日。私が起きたのは、遅めの時間のことだった。
身支度をして、部屋の外に出る。廊下を歩いて数歩のところで、レオンに遭遇してしまった。
「あっ、フロイド姉ちゃん。おはよ」
「おはよう、レオン。……昨夜は、ごめんなさい。旦那様と奥様にも、謝らないとね」
「べつに俺は気にしてないよ。びっくりはしたけど。……ちょっと、話す時間あるか?」
「ええ、大丈夫よ」
「じゃ、お茶でも飲みながら話そうぜ」
レオンに頷いて、私は彼とお茶を飲むことにする。彼に向かい合って座ると、とりあえずクッキーを食べた。甘いものを食べたら気持ちが落ち着くかと思ったのだけれど、なかなか思うようにいかない。
「フロイド姉ちゃんさ、イラリアさんに求婚されたんだろ? でも、まだ返事はしてないって感じ?」
「ええ、そう。返事はできていないの」
レオンからの問いに、私は事実を答える。彼はどうやら、私にあの話を聞くつもりのようだ。この家の中では最も歳が近いし、相談に乗ってくれるつもりなのかもしれない。
「それは、イラリアさんのことが嫌だから? 断りたいけど、断りにくいってこと?」
「ううん、違う。……嫌なはずない。でもね、私……自分にイラリアと幸せになる資格があるかどうか、わからないの」
「資格って何? 姉ちゃんは、自分が幸せになっちゃいけないと思ってるの?」
「私ね……昔、イラリアにとても酷いことをしたの。誤解して、嫉妬して、彼女を傷つけてしまったの。だから、そんな悪い女である私が、彼女のそばにいてもいいのか……ときどき、わからなくなるの」
私は、イラリアを殺したことがある。その過去は絶対に変わらない。
そんな私が、彼女からの求婚を受け入れてもいいのだろうか。自分を殺したことのある女と一緒にいて、彼女は本当に幸せだろうか。そう、不安になる。
「イラリアさんは、どう言ってるの? フロイド姉ちゃんが過去に酷いことしたから、一緒にいたくないって? 違うだろ?」
「イラリアは、私と一緒に幸せになりたいって言ってくれたの。でも……」
「なら、イラリアさんにとっては、姉ちゃんと一緒になることが幸せなんだ。それはイラリアさんが決めることで、姉ちゃんが決めつけることじゃない。フロイド姉ちゃんは、どうしたいの?」
「私……私、は。一緒にいたいけど、でも、求婚を受け入れたら……」
「求婚を受け入れたら、何?」
「もう、誤魔化せなくなる……っ。そうなるのが、怖いの」
言葉にするのが怖い。だから言えない。私が初めて抱いたその気持ちは、過去に彼女を殺したから。
私は彼女に嫉妬して、彼女を殺した。そんなふうに人を恐ろしく変えてしまう、その気持ちが怖い。
今より淡いあの気持ちでさえ、あんな悲劇を引き起こしたのだ。私が今の彼女に抱く気持ちをもってすれば、きっともっと恐ろしいことができてしまう。
この気持ちが、叶わなかったとき。私はどうなってしまうだろう。もしも彼女が心変わりしたら。もしも彼女がいなくなったら。
私はまたこの気持ちを暴走させて、誰かを殺すのではないだろうか。
ならば、誰かを殺してしまう前に……私のこの気持ちが殺されればいい。こんな心、潰えてしまえばいい。
求婚を受け入れたら、私は期待してしまう。もっと先を求めてしまう。この心をもう殺せないくらいに、深く想ってしまうのだ。
「フロイド姉ちゃん。俺さ、今、好きな人がいる」
「へえっ!?」
レオンからの突然の告白に、私は思わず声を上げる。彼はいつもよりやわらかく微笑んで、想い人の話をした。
「ちょっと前に、父上と王都に行ったんだ。中央の騎士団を一度見てみなさい、ってな。それで、その時に……第一騎士団長の家のご令嬢に会った。姉ちゃんみたいに剣術や弓術が得意で、綺麗な人だったよ」
「第一騎士団長の家のご令嬢って……ローデンロン公爵家のクララ様のこと?」
「そう。俺には届きそうもない高嶺の花だ。でも好きだ。……恋って、怖かったり、傷ついたりすることもあるものだと思う。でも、それでも想って、そういうことを乗り越えた先で、本当に愛し合うことができるんじゃないか? ……なーんて」
レオンの言葉に、不覚にも私は感動した。
いつの間にこんな話ができるようになったのだろう。剣術や戦記物の話ばかりだった彼が、恋愛指南らしいことを言えるようになったなんて。
「レオン。……貴方も、青春してるわね。驚いたわ。姉ちゃんが知らない間に、身長以外も成長してたのね」
「酷いなフロイド姉ちゃん。俺が身長だけの男だと?」
「そんなことは言ってないわ」
「姉ちゃんがあっちから送ってきた手紙、ほとんどイラリアさんとの惚気話だなって、思ってた」
「べつに、惚気けてないわ」
「幸せになれよ、フロイド姉ちゃん。もう俺はお茶はいいや。……昼飯はちゃんと食べにこいよな。食べないと強くなれねーぞ!」
「わかってるわよ。もう」
レオンはニヤリと笑って、ティールームから出ていった。
私はアンナに紅茶のおかわりを注いでもらってから、しばらくひとりにしてもらう。
紅茶を飲んで、クッキーをつまむ。何枚も頬張って、乾いた口を紅茶で潤すことが続く。
頬から伝った雫が、唇にほのかな塩味を与えていた。
――私は……イラリアが、好き。イラリアに……恋を、している。
心の中でさえ、初めて言葉にした。ずっと胸の奥では抱いていたこの想いの名前を言葉にすると、さらに涙があふれた。
――イラリアが好き。本当に大好き。……好き。
私は、ようやく認めることができた。私は彼女に恋をしていて、彼女が誰よりも大好きな人になっているのだと。
奥様にはお昼に、旦那様には夜に、昨夜身勝手に退室した非礼を詫びた。
そして、私がイラリアから求婚されたこと。まだ彼女に返事はしていないけれど、私は彼女と一緒に歩んでいきたいと思っていることを告げた。
ふたりは私の考えを否定せずに聞いてくれて、挙式をするならグラジオラス家のみんなが参列できる時期にしてほしいとも言った。するとしても、先の話になるだろうけれど。
それから私は、それなりに心穏やかに過ごした。家でのんびりする以外にも、マッダレーナさんを含む、レグルシウス国の学院時代の友人と一緒に観光地に出かけた。
みんなそれぞれの場所で大変なこともあるようだが、元気そうだった。久しぶりの友人との集まりを存分に楽しんだ。
私がベガリュタル国の学生寮に戻った時、まだイラリアはハイエレクタム家に帰省中だった。私は同じ頃に帰ってきたマッダレーナさんと一緒に、またカフェでお茶をすることにした。
イラリアとのことは、そこで彼女に話した。まだ結婚すると決まったわけでもないから、他の友人たちにまで言うのは、ちょっと憚られたのだ。
「――で、貴女は聖女様からの求婚を受け入れることにしたのね。聖夜祭のあの展開、もう貴女たちがいなくなったあと、みんな大興奮だったわよ! あんなに盛り上がる祝祭も珍しいってくらい」
「う。恥ずかしいわ……。あと、まだイラリア本人には言ってないから……内緒にしておいて、ね?」
「ええ。わかったわ! はぁ……冬季休暇が終わったら、もう卒業まであっという間ね! 貴女は何か授業には出るの?」
「入学試験に使う内容の講座には出るけど、武道系の授業は出ないことにするわ。鍛錬は個人で毎日しても、手は怪我しないようにしておきたいの。念のためにね」
「進学勢は大変ね。私はエステに励んで、後宮で役立ちそうな授業だけは出るつもり。うぅ、貴女との別れが寂しいわ……っ!」
「私もよ。マッダレーナさん。後宮も大変だろうけれど、頑張ってね!」
「うん!」
私とマッダレーナさんは、ぎゅっと互いを抱きしめ合う。
マッダレーナさんは学院を卒業したら、ここから遠い異国の地、ファリア・ルタリ帝国の後宮に入内することになっている。世界中の賢い美女を侍らせる皇帝のもとに嫁ぐことは、彼女が長年夢見ていたことらしい。
家からの期待が重く、つらそうにしていた時もあったが、無事に入内が決まって良かったと思う。もちろん女の園での彼女の戦いはこれからで、彼女はもっと己の美しさに磨きをかけて、皇帝陛下に愛されるように励まなければならないのだろうけれど。
「皇帝陛下のお気に入りになって、旅行に同伴させてもらえるくらいの女になるわ。ワガママも聞いてもらえるように頑張るわね!」
「愛されすぎて、外に出してもらえなくなったらどうするの?」
「それならそれで幸せよ。どうにかして、お手紙くらいは許してもらえるといいのだけれど」
「そうね。貴女の幸せを願ってるわ」
「私もよ。貴女もどうか、幸せになってね」
「ええ、もちろん」
別れを寂しく思いつつも、互いの未来の幸せを願う。彼女のような友人ができて、私はベガリュタルでもレグルシウスでも、充実した学院生活が送れた。
私たちがこうして簡単に会えるのは、あと少しの間だけ。
私とマッダレーナさんは笑い合って、のどかな時間を楽しんだ。




