037. 求婚の薔薇の花束
私はバルトロメオの隣にいるイラリアのことを見る。彼女の表情には、やや歪みが表れていた。私がそこから読み取れる感情は、不快だった。
彼はイラリアのもとにひざまずき、彼女の指先にキスをする。手袋越しとは言え嫌な光景だ。あとであの手袋は捨てて、彼女の手は洗わせてやらないと。
彼の侍従が何か持ってきて、バルトロメオはそれを受け取った。人々のざわめきの中、彼は続ける。手に持つものの覆いを剥ぎ取り、彼女の方に差し出した。それは、赤い薔薇の花束だった。
「イラリア・ハイエレクタム伯爵令嬢。たとえ君が、家格の下がったことで悩もうとも、家の貧しさに苦しもうとも……私はそんなことは気にしない。私が幸せにする。結婚し」
「お断りします」
イラリアが食い気味に拒否し、バルトロメオはポカンとした顔になる。まさか、断られることを想定していなかったのだろうか。玉砕覚悟の求婚だとばかり私は思っていたのだが。
「い、イラリア……? 今、何と……?」
「お断りしますと申し上げました。私は殿下の妻にはなりたくありません」
「イラリア。王家からの命令を断るのは、君の家に良くない」
「王家から、ではなく、殿下個人のご命令でしょう。脅しのおつもりですか? 私は家のために殿下と結婚するなんて御免ですし、そうしなければならないと言うのなら、家を出ていきます」
「冗談だろう? イラリア。君には、世話をできるような後ろ盾はいないはずだ」
イラリアはため息をついて、バルトロメオが縋るように掴んできた手を、勢いよく振り払った。彼女は私のもとへと歩いてくる。
「――オフィーリア・フロイド・グラジオラス様。貴女に申し上げたいことがございます」
「な、なんでしょうか」
改まった雰囲気のイラリアに、私は緊張する。これは、そういう展開だろうか。
彼女が、バルトロメオに触れられていない方の手で、私の手をとる。
彼女は先程までの表情から一転、やわらかく笑った。
「その前に、逃げましょうか。こんな場所では落ち着きませんからね」
「え、ええ。そうね?」
「バルトロメオ殿下。火急の用のため、失礼させていただきます。皆さまは、どうか楽しい祝祭を。――行きましょう、フィフィ姉さまっ!」
彼女は駆けるように、私の手を引いて早足で歩く。
それについていけるように、私の歩みも早くなった。ドレスのスカートの裾がふわふわと揺れる。
外には、またひらひらと雪が降っていた。
それを見ながら歩いていると、あの薄紅色の花が、木の枝に芽吹きはじめていることにも気づく。今年は咲くのが早そうだ。
王城の庭園にある噴水のもとで、彼女は足を止めた。
「手、洗ってきますね」
「ええ、わかったわ」
彼女は私と繋いでいた手を離し、手袋を外して噴水の水へと浸ける。洗わせたいとは思っていたが、こんな冬の日の水はひどく冷たいことだろう。
「……イラリア。そんなふうにしたら、寒いでしょう」
「でも、あいつに触られたままなの、嫌ですから」
洗われた手が、水面から顔を出す。はらわれた水滴が、夜の空気の中をキラキラと落ちる。
赤くなった指や手のひらは、痛々しげに見えた。彼女に直接触れたくて、私は手袋を外す。
「姉さま?」
「私が、温めてあげるわ」
彼女の手を、私の両の手で包み込む。
前に彼女がしてくれたように、吐息をかけて、触れて、こすって、私の熱を彼女に移す。彼女の手に、ときどき唇を触れさせる。
「あの、フィフィ姉さま」
「なぁに、イラリア」
「なんか、恥ずかしい」
「貴女が寒くなくなるまで、離さないわ」
「うぅ……も、もう寒くないですよ……?」
「本当に?」
「うん、本当。積極的な姉さまにびっくりしちゃって、暑いくらい」
「じゃあ、もう終わりにするわね」
彼女の指先に口づけてから、私は彼女の手を離す。
彼女の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。とても可愛い。
「こんなことされたら、期待しちゃうじゃないですか」
「何を?」
「ううん、なんでもないです。姉さま。私が『いいよ』って言うまで、目を瞑っててくれますか?」
「……ええ、わかった」
彼女に言われた通り、私は目を瞑る。キスでもされるのかと思ったが、聞こえてきたのは衣擦れの音だった。
さすがにこんな真冬に外で服を脱ぐことなどあり得ないはずだが、彼女は何をしているのだろう。
目を開けたくなる気持ちをぐっと抑えて、私は彼女の声を待つ。
ふと、唇に、やわらかさが触れた。
「もう、目を開けていいですよ」
「あら。後ろに何か隠しているの?」
彼女の手は、何かを隠すように、彼女の背中の後ろにあった。
私が笑って尋ねると、彼女も愛らしくはにかむ。
「オフィーリア・フロイド・グラジオラス様」
「はい、イラリア」
「貴女のことを、ずっと愛しています。私と……結婚してくれますか?」
「!」
彼女が差し出したものを見て、私は目を丸くする。
それは、大きな薔薇の花束だった。たくさんの薔薇の花が、何本ものペンペン草とともに束ねてある。
そして薔薇の色は、イラリアの瞳の色と海の色とをグラデーションにしたような……鮮やかな青色だった。
それらは白い紙で包まれ、灰色のリボンで結われている。
「すごいわね、これ。何本あるの?」
「108本です。本数の意味は『結婚してください』。そして青い薔薇の意味は、『奇跡』『夢叶う』。フィフィ姉さまと一緒に幸せになりたい私の夢も、結婚して子どもを持ちたい姉さまの夢も、一緒に叶えましょう。姉さまと幸せになるためなら、不可能と言われることでも、私は奇跡の成功に変えてみせる」
「……イラリア」
返事を、すぐに言葉にすることはできなかった。ただ彼女の名前を呼んだだけで、涙があふれる。
これまで口先では彼女を突き放してきたことが何度もあったけれど、今の思いだけは誤魔化せない。
私は今、とてつもなく、嬉しいと思ってしまっているのだ。
涙を拭ってくれるイラリアに、私は心配事を吐露する。
「私たち、半分血が繋がってるかもしれないけれど」
「でも姉さまは、いつも義姉妹だってことにしてたでしょう。わからないことは、都合良く解釈しておきましょう。私の実の父は、姉さまのお父様と同じ人じゃない。私はきっと、お母様と他のお客の子です!」
「もし仮に異母姉妹だとしても、問題はないの?」
「それは……ホムンクルス研究の成功と、私と姉さまの子を作ることを、姉さまも前向きに考えてくれているという解釈で大丈夫ですか?!」
「貴女がそう思いたいなら、そういうことにしてあげる」
「えへへ、嬉しい。何か問題があったとしても、それも全部解決して、私は幸せを掴みます! 私たちの子は、ちゃんと元気に生まれてきますよ!!」
「……そう。なら……良かったわね。と言っておくわ」
手を繋いで、ふたりで噴水の縁へと腰掛ける。イラリアがくれた花束は、膝の上に置いた。
「この花、どうやって調達したの?」
「薔薇は、私が働いているお花屋さんで、賃金の代わりにしてもらいました。特殊な加工をしてあって、枯れない薔薇なんです。店長が協力してくれたので、こうして108本にできました! 他の本数にも、いろいろ意味があるんです」
「貴女は物知りね。ペンペン草は?」
「私と姉さまがデートした山に生えてたのを、何本か頂戴してきました。学院の薬草畑のは、ちゃんと薔薇と一緒に咲いたままですよ。安心してください!」
「そうなのね。良かった。……とても、綺麗だわ」
108本もの青い薔薇の花束で求婚されるなんて、夢見たことすらなかった。
私がこんなロマンティックな求婚をしてもらえるなんて、期待していなかった。
「姉さまも、とても綺麗ですよ」
「ドレスとアクセサリー、ありがとうね。……私、変じゃない? 似合ってる?」
「うん。似合ってる。ものすっっごく、可愛くて綺麗」
「えっと、ありがとう」
「私、ドレスを着てる可愛い姉さまも好きだし、騎士服を着てるかっこいい姉さまも好き。姉さまは、姉さまの着たい服を着ていいんですよ。どんな姉さまも、私はきっと大好きになる」
イラリアの言葉に、私は思わずときめいた。
どんな私もきっと好きになるという言葉を、嬉しく思った。ドレスも騎士服も着て良いのだと言われて、ほっとした。
「私ね、ピンク色のドレスがずっと着たかったの。でも……かっこいい私も嫌いじゃないわ。可愛くもなりたいし、かっこよくもありたいのは……欲張りかしら」
「ううん。それでいいんですよ。今度、一緒に服を仕立てませんか? まあ、うちはあんまり無駄遣いして良いような状況じゃないですけど……でも、服なら必要なものだし!」
「あまり無理はしないでね。私に贈るのにも、大変だったでしょう?」
「今まで貯めてたお金と、私のドレスの予算でどうにか工面しました! 節約するのは得意なんですよ」
「あのね、イラリア」
「うん、なぁに? 姉さま」
私は薔薇の花束を脇に置き、彼女のことを抱きしめる。
どう言葉にしていいのかわからずに、しばらく黙ってしまった。彼女は、そんな私の背を優しく撫でてくれる。
「あのね……貴女からの求婚は、とても嬉しかったわ。ありがとう、イラリア。でも、返事は、もう少しだけ待ってほしいの。まだ覚悟ができないから、もう少しだけ、待って。今度、ちゃんと言うから。今はまだ……」
「うん、わかった。姉さまのことなら、いつまででも待ちますから」
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「フィフィ姉さま。キスは、してもいいですか?」
私は、こくりと彼女に頷く。彼女の手が顎に触れ、私は目を瞑った。




