032. ワガママな願い事
ある日の放課後のことだった。
「おい、グラジオラス」
「なんでしょう、王太子殿下」
まったく何の因果か、三度目は紅玉クラスのクラスメイトになっていたバルトロメオに、私は話しかけられた。あからさまに不機嫌なご様子である。心の底から面倒くさい。
「用があるから来るんだ」
「はあ。わかりました」
敵対心を向けられているのをひしひしと感じつつ、席から立ち上がる。部活に行きたいところだったのに迷惑なことだ。
ひと気のない廊下の隅で、彼は立ち止まってこちらを振り返る。
「貴様、イラリアの何だ?」
「何だ。とは、どういうことでしょうか。王太子殿下。強いて言うなら、部活仲間で友人でしょうかね」
「ふっ、男女間に友情など成立するか」
男装姿でこの学院にやってきて、グラジオラス家の養子と名乗った私のことを、一部の学生は生物学的にも男性だと思っているらしい。彼もその口だった。
そう思われているぶんには困ることはないので、私も訂正はしていない。
「僕は成立すると思います。殿下とは考えが違うようですね」
「イラリアから離れるんだ」
「……なぜ?」
なるほど、たしかに『イケメンエリート王子は可哀想な貧乏伯爵令嬢を溺愛する』なんて小説を部下に命じて世に送り出してしまう程度には、彼の頭の中は彼女でいっぱいのようだ。
私の頭の中の大部分を占めるのもイラリアなので、強く批判することはできないが。
「夏に流星祭があるだろう」
「そうですね。ありますね」
「俺はその日に彼女に求婚するつもりなんだ。邪魔はしないでくれ」
「なるほど。彼女から一緒に祭りに行こうと誘われても断れということですね。了解しました」
「……貴様、誘われる可能性があったのか?」
「驕りかもしれませんが、誘われるとばかり思っていました」
「くそっ、本当に気に食わないやつだ!!」
バルトロメオは歯ぎしりし、去り際に私の脛を蹴ってから退場した。けっこう痛い。あんなに短気で次期国王の座が務まるのだろうか。
「……流星祭、か」
過去二回の人生では、彼と彼女がキスしている姿を目撃してしまったイベント。あまり良い印象は残っていない。
案の定、その日の夜に彼女から誘われて、私は泣く泣く断った。彼女はめそめそ泣き出した。「ようやくフィフィ姉さまと流星祭デートできると思ったのにぃ……!」とのことである。私も同じ台詞を言いたかった。
が、「レグルシウス国にいたときの友人と行くことになっているから、ごめんね」ということにしておいた。
ちなみにここで出した友人とはマッダレーナさんのことであるが、彼女は流星祭の頃にはすでに帰省している予定なので、これは完全なる嘘である。
流星祭の前夜は、「明日は姉さまが他の女とデートしてても許してあげるので、今日は一緒に寝てもいいですか……?」というイラリアのワガママを受け入れて、彼女と一緒に眠った。
バルトロメオがイラリアを呼び出している場所については彼女から聞いているので、こっそり見張っておくつもりだ。べつにストーカーではない。
八月の八日、流星祭当日。
朝からどんよりしているイラリアの髪を夕方頃に結ってやって、彼女がちょっと機嫌良くなった後で、私は町へと出かけた。
祭りの賑わいを見ると心躍るものがあるが、特にこれと言った目的もないので、ぶらぶらとただ気ままに歩く。
また短剣投げの屋台のおじさんに声を掛けられ、真ん中を射止めた。前の人生での命中はまぐれだったと思うが、今度は普段の武術の稽古が役に立った節もあるだろう。
昨年は誰も真ん中を当てなかったのだと言うおじさんから、前の私がもらったのと同じウサギのぬいぐるみをもらった。
体の前で抱えると、胸から腰までがぬいぐるみですっぽりと隠されてしまうほどの、大きなウサギだ。
途中、ドラコを連れて祭りに来ていたジェームズ先生と会ったりしながら、私はまた苺飴を食べたり、迷子になった小さな女の子の親を一緒に探したりなどした。
無事に母親が見つかって女の子と別れたところで、そろそろイラリアとバルトロメオの待ち合わせ時間だ。
私は彼らの姿が見えるであろう川辺に行こうとした――が、その途中で人にぶつかってしまった。相手は、なんとイラリアだ。
「イラリア……さん。こんばんは」
「……こ、んばんは。フロイド、さん」
「イラリアさん、なんで泣いているんだ? ん?」
フロイド・グラジオラスの口調で、私は彼女に話しかける。イラリアは私とぶつかってから、ぽろぽろと涙をこぼしはじめていた。
ぬいぐるみのおかげで衝撃は緩和されていたと思うのだが、どこか痛かったのだろうか。どうしたのだろう。
「待ち合わせ相手に、別の場所で偶然会って。それで無理やりっ、ほっぺにキスされたんです。……気持ち悪い。やだぁ……」
私の見ていなかった隙にやりやがったらしい。あの野郎。私の可愛い妹を泣かせるとは。すぐにでもあの男の脛を思い切り蹴り上げてやりたい衝動に駆られたが、今そんな気を起こしても意味はないので我慢する。
「そっか。それはつらかったね」
「待ち合わせ行きたくない……ふぃ、フロイドさんと一緒にいたいぃ……」
「わかった、一緒にいよう。これ、あげるから持ってなよ。顔も隠せるし」
「うぅ、ありがとうございます……」
彼女に巨大ウサギを渡し、手を引いて歩いていく。イラリアがこんなに泣いているのは珍しいが、それだけ本当はバルトロメオのことが嫌だったということで良いのだろうか。素直になれば、こんなに泣いてしまうくらい、彼とキスなどをするのは嫌だったということだろうか。
それなら、今までの彼女には、やはり私のせいでつらい思いをさせていたのだなと思う。私のせいで無理をしてしまった彼女のことは、これからは私が癒やしてやらなければ。とも思う。
川の水でハンカチを濡らして、彼女がバルトロメオにキスされたという頬を拭う。強く拭ってあいつの存在を消してやりたいところだが、彼女のやわらかな頬を傷つけてはならない。たかぶる気持ちを抑えて、丁寧にゆっくりと拭っていく。
イラリアが、ふいに呟いた。
「なんで、そんなに優しいの?」
「優しくないよ。ただ、僕も腹が立っているだけだ。――キスしていい?」
「え?! あ! はいっ!!」
「ぬいぐるみ、ちょっと下の方にしておいて」
向こう岸にいるバルトロメオの姿を捉えた私は、彼女の頬を包み込む。イラリアは意を決するように目を瞑った。
私はその頬を撫でながら、バルトロメオの方を見やる。彼と目が合った。あの男が私を認識して驚き、憤っている様を確認してから――彼女の頬へと口づける。イラリアは「あれっ?」と小さな声を出す。
「頬に、キスした。これで上書きだ」
「なんか、フェイントかけられた気分」
「でも泣きやめた」
「本当のキスは、やっぱりまだ私からしてあげないと駄目ですね」
そう言って、今度は彼女から私の唇に口づけた。どうやら彼女は、あちらにいるバルトロメオには気づいていないようだ。
巨大ウサギを挟むような形で抱き合った私たちは、何度か唇を重ねた。あの男はどこかへと去っていった。キスを終えて体を離した後に、彼女はウサギを一瞥して私に尋ねる。
「このぬいぐるみ、本当にもらっていいんですか?」
「ああ。きみのために獲ったんだ」
「本当ですか?」
「そう言った方がロマンチックかと思ってね。でも、イラリアさんにあげたかったのは本当」
「ピョンくんに似てて、嬉しいです」
「それは良かった」
彼女は本当に嬉しそうに頬を染めて、私たちに挟まれたせいでやや平らになってしまったウサギを、さらにぎゅうっと抱きしめた。ウサギがちょっぴり羨ましい。
空を見上げると、たくさんの星が降っている。前々回は、彼女の死を。前回は、彼女の幸せを星に願った。
「僕が今日、きみを甘やかしたのは、きみを縛るワガママな願い事をしたからだ」
「何を願ったんです?」
「ないしょ。絶対教えない」
「えー、フロイドさんの意地悪」
「うん。僕は意地悪だよ」
綺麗な星の降る夜に、私は身勝手なことを願う。
イラリアが、ずっと私のことを好きでいてくれますように――と。




