028. 「おかえり、フィフィ姉さま」
ゲルトとのお見合いの日から数日が経った。私はアンナと一緒に、切り落とした髪を洗っていた。できるだけ無心になる努力をして、もう私のものではない髪を清めていく。
「フロイドお嬢――いえ、えぇっと、フロイドさま? この御髪はどうなさるのですかぁ?」
「妹にあげるわ」
「へ!?」
あの日から、私は女性物の服を着なくなった。
武術の稽古の時に身に着けていた服をここ数日は着ていて、男性物の服が届いたらそれを着はじめることにしている。この容姿で、スカートなど穿ける気がしなかった。
「昔、妹から指をもらったことがあったの。だから、これはそのお返しよ」
「指?」
「髪切り、爪剥ぎ、指切り。昔の遊女はそれで――まあ、とにかく。前にもらったもののお返しよ」
「へぇー……」
二度目の最期の時は意識が朦朧としていてはっきりとは覚えていなかったが、三度目の彼女から、あらためて教えてもらった。
彼女が元いたニホンという世界では昔、遊廓の遊女たちが深い愛を客に示すために、自分の体の一部を差し上げていたのだと。
彼女が私のそばで指を切り落としたのは、そういう意味でのことだったらしい。
あとは聖女の力と〝血の記憶〟の効果で、彼女の血を浴びていると、巻き戻った後も私が前の人生のことを覚えていられると推測したからだとか。
血の記憶のおかげかは定かではないが、私は彼女との過去を覚えているので、彼女の望む展開にはなっただろう。
彼女が帰ってくるまでの〝イラリア〟が何だったのかは、私にはよくわからない。彼女曰く〝オトメゲームノプログラムドオリノヒロイン〟というものの可能性があるらしい。
「フロイドさまは、妹さんのことがお好きなんですかぁ?」
「え? いいえ、べつに。なぜ今の流れでそんな話になるのよ」
「今まで黙ってましたけどぉ、妹さんへのお手紙を書くときのフロイドさま、恋文を書いてるみたいな顔してるんですぅ」
アンナの方を見ると、彼女はニヨニヨと笑っていた。完全に、これは学院でしばしば見た、「新しく成立した恋人を茶化すときの顔」と同じ顔だ。私は彼女を睨みつける。
「アンナ。貴女、一度お医者さまに眼を診ていただいた方が良いと思うわ」
「えぇ?! 酷いですフロイドさまぁ! アンナの眼は健全ですよぉ」
私は健全なのですぅ! と主張するアンナをあしらいながら、私は彼女と一緒に、洗い上がった髪を拭いていった。乾いたら何束かに分けて、白いリボンで括る。
「遠目から見ると、高級な絹糸っぽく見えなくもないですねぇ」
「そうね、アンナ。……今まで、ありがとうね」
「えっ、やだぁフロイドさまったら。今からそんな、しんみりした感じの台詞を言わないでくださいよぉ」
「ふふふっ。たしかに、まだ早かったかもね。あと二週間、貴女は私の大切な侍女だわ。もちろん家を出てからも、貴女は大切だけれど」
私がそう言うと、彼女は照れたように笑った。
この家に来てから、およそ十年。
アンナには本当に世話になった。彼女のおかげで私は、過去の私よりも明るく過ごせた。
ときどき彼女にイラリアと似ているところを見つけると、嬉しくなったり懐かしくなったり、胸が痛くなったりしたもので……。まあ、とにかく侍女としては好ましく思っている。
彼女と一緒に過ごせて、良かった。
「フロイド。ちょっとお話をしましょう」
「はい、奥様」
ある夜のこと、私は奥様に声を掛けられて、お話をすることになった。彼女の部屋へと連れられる。
奥様は、今宵もとても美しかった。
出会った時から十年経っても、容貌の老いは感じられない。玻璃燈の灯りが銀色の髪を照らし、琥珀色の瞳は強く煌めく。
「フロイド。最近はどう? もうすぐ家を出ることになるけれど、寂しかったりはしない?」
「グラジオラス家の皆さんと離れることは、寂しく思います」
「本当に大きくなったわね、フロイド。あまり、こういうことを言うのは、どうかと思うのだけれど……貴女みたいな可愛い娘を育てられて、良かったわ」
「今は、可愛さなどないと思いますが」
「もちろん、今のあなたのことも私は好きよ。特に幼い頃は、貴女に贈るドレスや小物で『可愛い』を押し付けてしまったことも、あったかもしれないけれど。嫌だったなら、ごめんね」
「いいえ。押し付けられたと思ったことなどありません。嫌だとも思っていません。私の希望を聞いて、いろいろと用意してくださって、嬉しかったです。ただ、今は……しばらくは、可愛いものから逃げたいだけですわ」
この家ではハイエレクタム家と違って、私が普段身につける服飾品も、可愛らしいものや綺麗なものを与えられていた。あまりにも可愛すぎると抵抗感があったため、色味を落ち着いたものにしてもらったり、飾りを控えめにしてもらったりしていたけれども。
私は表情が豊かな方ではないし、そんな様子から、可愛いものを嫌がっていると思われたこともあるかもしれない。しかし、奥様の好みに合ったものを身につけるのが、私は嫌ではなかった。
奥様やアンナと相談して服を仕立てる時間やアクセサリーを選ぶ時間は、とても好きだった。
奥様が、ふと、どこか遠くを見るような目をする。
「……私ね。実は、レオンのときが難産だったの。命が危ない時間もあった中、ふたりとも死なずにいられたのは、嬉しかったけれど……その時に、もう子どもを生めなくなってしまったのね。
だから貴女のことを、すぐに養女にしてしまったのだと思うわ。可愛い娘を持つのが、私の夢だったから。
貴女が隣国の行方不明のお嬢様だということを知っても、この家で育てたのは、私のワガママだったの。その時には、もう貴女が大好きになっていたから、手放したくなかった」
「……そう、なんですか」
十年前、トントン拍子でこの家に迎えられてしまった時は驚いたものだが、そのような事情があったとは。
私が隣国の行方不明の公爵令嬢だと知ってもなお、ここで匿うように育ててくれたのは、もうこの家には娘が生まれないからだったのか。
もちろんそれだけが理由で私を可愛がってくれたわけではないだろうが、私は自分がこの家で愛された理由のひとつを、家を出る数日前の今になって知った。
「……私も、子どもが生めません」
「え?」
私の告白に、奥様は目を丸くする。
今までずっと黙っていたことだった。恥ずかしくて、つらくて、誰にも知られなくなかったことだった。
月のものが来るのが遅いことをこの家の医師に指摘されたときも、詳しい検査を断った。子どもを生めないと知られることは、耐え難く惨めなことだと思ったから。
今になって言ってしまったのは、奥様と私が同じだったからだ。同じなら、言ってしまっても良いと思えた。言うのもつらいが、ずっと隠すのも心苦しかった。
「今までは、お伝えするのも恥ずかしく、黙っておりましたが……私は、子どもを望めない体なのです」
「……そ、うなの? うちの医者からは、聞いていないけれど……」
「生家で知ったことです。幼き頃に父親に飲まされていた毒で、そのように。今まで黙っていて、申し訳ございません。……それゆえ私は、結婚など望んではいけないのです」
奥様が唇を震わせ、ひどく悲しそうな顔をしている。
失望されただろうか。大事に育ててきた娘が、そのような身だったなんて、と。
「……フロイド」
「はい。奥様」
奥様が私のいるソファへと来て、私をぎゅっと抱きしめた。幼子をあやすように、短くなった髪を撫でられる。奥様は泣いていた。
「親不孝な娘で、ごめんなさい」
「そんなことないわ。そういうことで泣いているわけじゃないの。……今まで、知らなくてごめんなさい。そう思っていたなら……貴女にとっては、お見合いの話なんか、つらかったでしょう……」
「私が黙っていたのですから、奥様に非はございません。……独り身でも、ちゃんと幸せになってみせますから。どうか悲しまれないでください」
幸せになれる自信はないくせに、口先ではそんな言葉を作り出す。親を安心させたいという心が、私にも芽生えていたということだろうか。今まで、ハイエレクタム家の父や継母に対しては抱けなかった感情だ。
こんなふうに泣かせてしまっている時点で、良い娘だとは言えないとも思うが。
奥様とふたりで十年間の思い出話をして、夜を明かした。あっという間に日は過ぎて、私がこの家を出る日になった。
「今まで、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「気をつけて行くんだぞ」
「お手紙を送るわ」
「帰省するときは、お土産買ってこいよ」
旦那様と奥様とレオンから、三者三様の言葉をいただいた。侍女のアンナや、稽古で世話になったグラジオラス家の騎士、他の使用人たちとも、十分に別れの挨拶をしてきた。
と言っても永遠の別れなどではなく、近いうちには夏の長期休暇の時に、一度また帰ってくるつもりではあるのだが。
そうしてみんなに見送られた私は、馬車に揺られて国境を越え、十年ぶりにベガリュタル国の地を踏んだ。
レグルシウス国の学院にいた頃に、聖女様ことイラリアが星夜寮に暮らしているという情報は入手していたので、私もその寮に入ることにしている。
この学院には学生寮が三つあり、男子だけの寮が太陽寮、女子だけの寮が月光寮、どちらも受け入れている寮が星夜寮である。
制服は女子向けのものをもともとは頼んでいたが、新たに男子向けの制服も注文した。
新学期が始まる一週間前に、私はベガリュタル国の貴族学院へと足を踏み入れた。マッダレーナさんは、もう到着して月光寮に入っているという。
彼女への挨拶もしなければな、と考えながら星夜寮に向けて歩いていると……周りにいた何人かの学生たちが、にわかにざわめいた。
何事かと原因を探し、振り返った私はすぐに見つける。
薔薇姫と謳われる女が、こちらに向けて走ってきていた。
鼓動が高鳴り、得も言われぬ感動が体じゅうの血液を駆け巡る。
「フィ――フロイドさまっ!」
よく通る美しい声が聞こえた。
彼女が纏うのは制服ではなく、どこかに出かけていたのか、町娘らしいワンピースドレスだった。
赤色のスカートが揺れ、翻る。
はしたないから、おやめなさい。とでも咎めるべきだろうか。
そんなことを考えながら、私は胸に飛び込んできた少女の体を受け止めた。
ローズゴールドの髪に、シャランと音の鳴る髪飾りがついている。それは、私の贈った簪だった。
聖女様の突然の奇行に学生たちは唖然としているようだ。
まさかこんなにも人目につくところで抱きつかれるとは思っていなかったので、私も驚いている。
胸元で、切なげな甘い声が聞こえた。
「お会いしたかったのです。……ずっと、ずっと」
「あー……私もです、よ?」
フロイド・グラジオラスとして留学してきたからには、下手に彼女と親しいような話し方はできない。
どうすれば良いか困っていると、私の頬に彼女からのキスが落ちた。彼女の唇が、私の耳元へとやってくる。
やはり、彼女のこういうところは変わらない。そのことにひどく安心する。
彼女は私の耳元で、私だけのために囁いた。
「おかえりなさい……っ。おかえり、フィフィ姉さま」
私の正面に戻った彼女の空色の瞳からは、ぽろぽろと涙が落ちていた。
私は指先でその涙を拭い、彼女の頬へと唇を近づけ――キスする勇気はやっぱりなかったので、その過程はすっ飛ばして耳元で囁いた。
「ただいま、イラリア。……私も、会いたかった」
彼女は泣きながら、嬉しそうな笑い声を上げた。
やわらかな手が私の頬を包み、私は自然に目を瞑る。
ずっと、ずっと求めていた。私も、きっと彼女も。
私は十七歳、彼女は十五歳の春。
今までは生きられなかった春の日に、私たちは十年ぶりのキスをした。




