022. 新たな名前
夢を見た。
イラリアにキスされて目覚めた、あの日のことを。やわらかくて温かいイラリア。私の可愛いイラリア。
素敵な夢を見て、いい気分で現実の私も目を覚ます。剣で刺されて置き去りにされたことも夢だったのではないかと、一瞬思った。
ぱっと目に入ったのが天井で、自分がベッドの上にいることがわかったから。
「あら、ようやくお目覚めですねぇ。名無しのお嬢さま。お加減いかがですかぁ?」
――は?
喉がカラカラで、うまく声が出てこなかった。掠れた声にも満たない、ただの空気が口から漏れる。どうやら長い間、眠ってしまっていたらしい。
普段ならイラリアが座っているはずの見舞い客の椅子に、今日はやけにのんびりした口調のメイドが座っていた。新人なのだろうか、見覚えがない顔だ。
ぐるりと部屋を見回して、いつもと何かが違うことに気づく。
現在私が寝かされているのは事実だが、ここは普段の私が寝ている部屋ではない。壁紙も床板も家具も、私の部屋のものとはまるきり違う。
そのうえ、寝ている私にわざわざメイドが付き添ってくれていることなんて、過去の人生でも今の人生でも、一度もなかった。実はまだ夢の中なのだろうか。
「奥様にお知らせしてきますねぇ。ちょっと待っててくださぁい」
おさげにした栗色の髪をぴょこぴょこと揺らして、メイドは眠そうに部屋から出ていった。
私は自分の頬をつねってみる。ちゃんと痛い。ならば、ここは現実のはずだが、どうしてこうも見知ったものがないのだろう。
貴婦人らしき人と医師らしき人と一緒に、先程のメイドが戻ってくる。
はて、彼女は「奥様」と言っていたはずだが、目の前にいる女性は、どう見てもカミラ夫人ではなかった。この人たちは、いったい誰だ。
「ようやく目を覚ましたのね。良かったわ。三ヶ月も眠ったままだったから、もう駄目なんじゃないかと……」
――三ヶ月?
そんなにも眠っていたとは、病弱な私でも新記録ではなかろうか。医師だという女性が私の体を診てくれている間に「奥様」はぺらぺらとよく喋った。
彼女の話を聞くに、ここは私の暮らしていたベガリュタル国の隣国である、レグルシウス国のグラジオラス辺境伯領。
私はそこの領地の一部である、森の入口に倒れていたらしい。いつの間にやら国境を越えてしまっていたようだ。
馬車から引きずりおろされた時には、すでにレグルシウス国だったのだろうか。それとも森に捨て置かれた後、誰かに体を運ばれたのだろうか。
私の体内時計が狂っていなければ、あの時の馬車に乗っていた時間の長さでは、とてもグラジオラス辺境伯領には辿り着ける気がしないのだが。どうだったのだろう。
剣を刺して私を置き去りにした騎士は、きっと私を殺すつもりだった。誰かに命ぜられて行なったと考えるのが妥当だろう。
誰が、なぜ私を殺そうとしたのか。どうして森に置き去りにしたのか。なぜ隣国に来てしまったのか。いろいろと疑問はあるが……まあ、ともかく。
良い身なりで血まみれのお嬢さんこと私が倒れているのを見つけた領民が、まず保護してくれた。
その後に領民からの知らせを受けたお優しいご領主様――グラジオラス辺境伯が、私を引き取って、屋敷で世話することにしてくれた。
これが、私が意識を失っていた間に起きたことだと言う。
こうして保護し、世話をしてくれたというのは、とてもありがたいことだ。領民も領主も良い人だ。
生きているなら、ひとまず良かった。悪い人に拾われて酷い目に遭わずに済んで、良かった。
体を清めてもらって服を着替えさせてもらうという信じられないくらいの好待遇を受け、喉が潤った私は、今度はただ聞くだけではなく奥様とお話ししなければならなくなった。
悪い人ではなさそうだが、いったいどこからどこまで話せばいいのやら。しばらく黙ってもじもじしている私に、奥様がやわらかな口調で話しかけてくる。
銀色の髪に琥珀色の瞳をした、美しい女性だ。
「突然知らないお家で目覚めて、びっくりしたでしょう」
「あ、はい」
「あまり緊張しなくていいわ。そうねぇ、何から聞こうかしら。じゃあ、貴女のお名前は?」
「私の、名前は――……」
答えようとして、一旦止まる。
ここで、正直に答えてしまっていいものだろうか。
おそらく私は、誰かに命を狙われている。
隣国に来てしまった理由はわからないが、下手に名乗って自国に戻ることになったら、今度こそ本当に殺されるかもしれない。まだ様子見をしていた方が良いのではなかろうか。
「わ……わかりません」
「わからない……? もしかして、記憶喪失なのかしら!?」
「家の名も、自分の名も、わかりません。……ごめんなさい」
「あっ、謝らなくていいのよ。取り乱して、こちらこそごめんなさい。そうねぇ、それは大変だわ。どうしましょう。医師に相談しなくてはね」
「えっと、あの……誰かに、殺されそうだったことは、覚えてます。でも……それ以外は、わかりません」
嘘をつくのは心苦しいが、これも自分の身を守るため。誰かに狙われていることは告げたのは、何も知らずに私を匿って、この家の人々が危険に晒されたら申し訳ないからだ。
困り顔の奥様だが、醸し出される雰囲気から、カミラ夫人と違って頭の悪い女ではなさそうなことはわかる。私は慎重に言葉を選んだ。
「私は、何者かに、命を狙われている身です。私がいることで、そちらにご迷惑がかかると思われましたら、もちろん出ていきます」
「そうは言っても、ここを出たらどうするつもりなの? 貴女みたいな小さな子が、外にひとりで出て何ができると思うの?」
やや非難めいた色をした声で、奥様は言った。
たしかに私は現在、たった七歳の世間知らずの公爵令嬢であるわけだが、中身はそこそこ成熟している。生き延びる術は、多少は把握しているつもりだ。過去の人生では長生きできなかったけれども。
「そうですね、まずは娼館の扉でも叩いてみようかと。場所によりけりですが、私のような年の娘でも買ってくれるところはございます。どうせ殺されかけた身ですので、うまくいかずに野垂れ死ぬなら、それで構いません」
「なっ……なんてことを言うの」
奥様が目と口を大きく開く。貴婦人にしては珍しく、ころころとよく表情の変わるひとだ。七歳児から「娼館」なんて単語が出れば、まあ驚くのも無理はないと思うが。
祖母と継母が娼婦であった私にとっては、馴染みがある――と言ったら過言ではあるが、娼館がどのようなものなのかは、ある程度は知っている。
どうようもないときには、体を売るのも手段のひとつにはなろう。子を生めない身なので、客の子を孕んでしまう心配はないし、娼婦になれば、普通ならできないであろう経験もできる。
私が誰かと閨で愛を睦むことなど、あのままただの貴族令嬢として生きていたら、あり得ないはずだった。どうせ結婚などできない身。どうなったって構わない。
私がそんなことをしたら、イラリアが悲しみそう……なんて考えは、さっさと頭の隅っこに追いやることにする。
「――決めた。貴女、記憶が戻るまで、うちの子になりなさい」
「……はい?」
イラリアのことを考えて数秒間、意識がどこかへ旅に行っている間に、奥様はキリリとした顔になっていた。
凛とした様子で彼女は私を見つめ、励ますように手を握る。これは、どういう流れだろう。
「そんな死んだ魚みたいな目で、人生を諦めたようなことを言うなんて許せないわ。こんな貴女をみすみす外に出したら、グラジオラス家の女主人失格よ。
貴女の記憶が戻る日まで――いえ、もしも貴女が思い出しても帰りたくなければ、ずっと。この家で育ててあげる」
「いえ、私。そんなことまで――」
「子どもなんだから、しっかり大人を頼りなさい。世の中には悪い人もいるけれど、手を差し伸べてくれる人だっているんだから」
「いえ、あの、本当に……」
「今晩、夫が帰ってきたら話してみるわ。侍従長とメイド長にも相談しなくちゃ。じゃあ、何かあったら呼んでちょうだいね!」
奥様は満面の笑みで言うだけ言うと、どこかへといなくなってしまった。思い切りの良いひとと言うか、何と言うか。その勢いに圧倒され、しばし私はポカンとする。
彼女が消えていった扉の方を見つめていると、ノックの音もなしに、ふいに扉が開かれた。
今の私やイラリアと同じくらいの年齢らしい背格好の男の子が、ずけずけと部屋に入ってくる。
奥様とよく似た、銀色の髪に琥珀色の瞳をした子だ。
「お前、やっとおきたのか。ねてる間にケガが治ってたなんて、運がいいやつだな」
「……そう、ね」
「俺はレオナルド。お前の名前は?」
「わからないわ」
「ふーん。そうなんだ」
レオナルドという名は、先ほど奥様の口からも聞いた。このグラジオラス家のひとり息子で、やんちゃ坊主だと言われていた子である。
レオナルドは何が楽しいのか、見舞い客の椅子に座ってニヤニヤ笑っていた。やはり、小さい子の考えていることはよくわからないものだ。私はきっと子育てには向かないだろう。そもそも生めないが。
「じゃあ、お前。いまは〝名なしのおじょーさま〟のまま?」
「そう。名無しのまま」
「じゃあ、俺が名前つけてやるよ。お前、きょうから〝フロイド〟な」
「フロイドって、男の名前じゃない?」
「べつにいいだろ。俺がすきな本にでてくる男の名前だ。ありがたく思え」
レオナルドはニカッと笑って「またな!」と言って部屋から出ていった。まったく、何がしたくて来たのかわからない。興味本位だろうか。
第一印象としては、バルトロメオよりは好感の持てる男の子だと思う。子どもらしく、擦れていない感じのする子だ。
あの男のような面倒くささはなさそうなので、この家で世話になるとしても、そこそこ仲良くやっていける気がする。
夜に旦那様が帰ってくると、彼は私が無事に目覚めたことをとても喜んでくれ、私を養子にする話はあっさりと受け入れられた。
あれやこれやと手続きを何日間かかけて進められ、何の因果か、私はレグルシウス国のグラジオラス辺境伯の家の〝フロイド〟という名前の子になった。
これは仮の名前で、記憶が戻ったら前の名前や家に戻す手続きもできるから安心しろと言われた。温かく歓迎されているらしいことは良かったが、予想外の展開になかなか心はついていかなかった。
フロイド・グラジオラス。
そんな名前をもらって〝記憶喪失のお嬢さま〟の私は新たな生活を始めた。
イラリアに会えない、十年間の隣国生活の幕開けだった。




