019. 貴女のものな覚えはない
私の朝は、義妹にキスされるところから始まる。
「フィフィ姉さまっ、おはようございます!」
「おはよう、イラリア」
「大好きです! 愛してます!」
「ええ、ありがとう」
あれから一年ほどが経って、私は七歳に、彼女は五歳になった。〝おはようのキス〟も〝おやすみのキス〟も、拒むことがない日課になった。
彼女の言葉遣いは、もうほとんど問題ないくらいには自然になった。好感度が見えない対人関係にも慣れてくれたようだ。
「今日は、姉さまが登城なさる日でしたっけ?」
「そうよ」
「寂しくなりますね」
「そうね」
「抱きしめていいですか?」
「どうぞ」
イラリアがぎゅうっと私を抱きしめる。やはり子どもは体温が高い。とても温かい。
このまま彼女と抱き合ったまま部屋から出たくない。が、残念ながら、そうはいかないのが現実だ。
未だバルトロメオの婚約者である私は、たびたび登城させられている。前の人生より頻度は高めで、なぜかあの男は私に優しげに接してくる。
前に馬鹿にされた時のことを思うと、いまさら何をされても、彼へ好意的な思いを抱くことなどできないが。
彼の婚約者になって、一年。城の中で信頼できる人を、私は少しずつ増やしていった。駒にできそうな人物を選定し、彼らとの親交を深めることに努力した。そして、ある計画も密かに進めていた。
今日、あの下女は私の望む結果を持ってきてくれるだろうか。時間をかけて彼女を懐柔したつもりだけれど、能がなければ意味がない。あれはきちんと仕事のできる女だったろうか。
「姉さま」
「っ……?!」
考え事をしながらイラリアとの抱擁を続けていると、いきなり、彼女が首筋に噛み付いてきた。ゾワリとした感覚と痛みに私は声を上げ、逃れようと身をよじる。
彼女の小さな口が、位置を変えて、また私に噛み付いた。優しい痛みと、甘やかな痺れが走る。
「らっ、イラリア! いきなり何をするの!?」
「私だけ見て。私のことだけ考えて」
「だめ、やめて! あざ、痣になるわ! まずいでしょ? やめましょう?」
「フィフィ姉さまは私のものでしょ? ちゃんとわからせてあげなきゃ」
「ねっ、やだ、イラリアぁ……っ」
半泣き状態で、私は彼女に甘噛みされた。前も思ったが、この義妹、節操がないのだ。
私には許容範囲外な触れ合いを、いとも平然とやってくるのだ。
彼女が唇を離して満足げにため息をつき、腕の力を緩めてくれたところで、私は急いで彼女から逃げる。
「もういやっ! 貴女なんて嫌いよっ!」
「フィフィ姉さま。『ラーリィといちゃいちゃしてるときに、他の女のこと考えてごめんなさい』は?」
「言わないわよ! なぜ私がそんなことを言わなきゃいけないわけ!?」
さも私が悪いことをしたかのように、彼女は私に謝罪を要求する。ただ城にいる下女の仕事がうまくいったかどうかを考えていただけなのに、私が謝れと言われる謂れはない。
というか、よく私が他の女のことを考えていたとわかったものだ。彼女は自分の目元をこすって、わざとらしく泣き真似をする。
「ラーリィ、姉さまが他の女のこと考えてて寂しかったなぁ。えーん。とっても悲しいなぁ。うぇーん」
「もうっ、嘘泣きなんて可愛くないわ。……ああ、もう! ごめんねラーリィ! 今日は身支度をしたら早く出なければならないから、またあとでね!」
そう言って、私は部屋から飛び出した。
今日は早めに出なければならなかったことは事実だったし、めそめそ嘘泣きをしているイラリアに構うのは面倒くさかったし、何より彼女に噛まれたところがどうなっているのか早く確認したかった。
扉の向こうで彼女がくすくすと笑う声を聞きながら、私は早歩きで廊下を歩く。
鏡を見たら、やはり赤みのある小さな歯型がいくつかついていた。そこまで痛くなかったし、そのうち治るとは思うが、誰かに見られたら恥ずかしいことこのうえない。
私はメイドに、どうか今日だけは髪を結い上げないでくれと頼み込む羽目になった。
身支度を済ませ、「登城するというのに、みっともない髪型ね!」などとカミラ夫人からだる絡みをされた後、ようやく私は屋敷を出て、城へと向かった。
庭園のテーブルにティーセットを並べ、私とバルトロメオはお茶をする。……なんて愉快なことだろう。本当に。
「オフィーリア」
「なんですか、バルトロメオ殿下」
「今日はいつもと髪型が違うんだな」
「そうですね」
この男と一緒だと、王城で出される上質なはずの紅茶もあまり美味しく感じられない。
なぜ彼の朝のティータイムに私がお供しなければならないんだ。私のことを好きなわけでもないくせに、なぜこうも登城させるのだ。
金髪に若葉色の瞳という明るい色彩を持つ美麗な少年は、今日もなぜかやわらかく微笑んでいる。およそ私に向けるとは思えない笑みを、今度の人生の彼は浮かべてばかりだ。
もしや彼の目は腐ってしまったのだろうか。私はイラリアではないのだが。
「そなたの妹は元気か?」
「ええ、とても」
「私について何か言っていなかったか?」
「いいえ、何も」
「……そうか」
イラリアは基本、口を開けば私のことばかりである。巻き戻った後の彼女の口から、バルトロメオの名が出たことなどあっただろうか。
オトメゲームの話でも物語の登場人物名としてはその名を聞いたので、さすがにゼロではないだろうが……。それ以外に彼の名を出したのは、いつどのような会話でだったのか、すぐに思い出せない程度には、私たち姉妹にとって彼の存在感は薄っぺらい。
「少し散歩をしよう」
「はい、殿下」
この男と一緒に見ると、鮮やかなはずの花の色さえ、霞んで淀んだ色に見える。端的に言えば、彼との散歩は楽しくない。
彼に好かれようという気もなければ親切にしてやる気もない私は、自分の髪と瞳のような曇った色の心で、そっけなく立ち上がる。
彼と花を見るのはつまらない。けれど薔薇の花を見るときだけは、ほんの少しだけ心が踊る。花の中で、私は薔薇が一番好きだ。
彼と歩き続け、白い花が咲くという柑橘の木を見にいったところで、髪が何かに引っ張られるような感覚がした。
どうやら木の枝に絡まったらしい。進もうとすると、頭皮が引っ張られて痛いので進めない。どうしよう。
「どうした、オフィーリア」
「髪が枝に絡まりました」
「大丈夫か? ちょっと見せて」
「えっ、ちょっ」
バルトロメオの手が髪に伸び、私は思わず身を強張らせる。この男が至近距離にいることは、もはや生理的に受けつけない。
髪がほどけるような感覚がして、ほっと安心していたところ、彼はなぜか私の髪を大きくかきあげた。やわらかな風があざ笑うように首筋を撫で、まずい、と遅ればせながら気づく。
慌てて手で隠したが、時すでに遅しだった。彼の表情に不機嫌の色が滲む。
「この痣はどうしたんだ、オフィーリア」
「いえ、何でもありません。枝から髪を取ってくださってありがとうございます、王太子殿下」
「二度も言わせるな、オフィーリア。この痣はなんだ?」
「……おてんばな妹に、ちょっと噛まれただけですわ」
彼の発する威圧感に負け、私は正直に答えてしまった。この男、そんなにも私の痣に興味があるのか。今度の彼はやはり変人だ。
さらに不機嫌の度合いが上がったように見える彼に手を引かれ、私は宮廷医のところに連れていかれる。場所はアレだが怪我として見れば大したことでもない痣にやたらめったら薬を塗り込まれ、外から見えないようにガーゼを貼られた。
「これでいい。では、またな」
「はぁ。本日はありがとうございました、王太子殿下。では、また後日」
満足げに頷いた彼と別れた後、控えていた侍女のひとりに耳打ちされる。今度の人生で信頼を得て、私に協力的になってくれた者のひとりだ。
王城の一室で、私はひとりの下女と密かに会う。手駒以外にはバレないように、彼女に調べさせた事柄の報告を受ける。
私は書類を見て、思わず笑みをこぼした。
「ありがとう。ご苦労だった」
「オフィーリア様のお役に立てたなら、幸いです」
下女は頬を染めて嬉しそうに笑う。彼女なら、きっと私を裏切ることはないだろう。
彼女には、私が飲まずにこっそり保管していた薬を、町の薬屋に調べてもらっていた。また、母が生きていた頃に家に仕えていた医師を辿らせた。医師には知っている情報を吐かせていた。
判明したのは、私に日常的に処方されていた薬は、予想通りに体を害する毒性のあるものだったこと。
かつて母が飲まされていた堕胎薬と避妊薬は、娼婦だった頃のカミラ夫人が上客だった父に頼まれて、自分が飲むために与えられたものを渡していたのだったということ。
過剰に服用すると命に危険を及ぼすものだとわかっていたのにもかかわらず、父に命じられた医師は母にそれを飲ませ続けたこと。
カミラ夫人の妊娠がわかってからは、母にさらに魔毒を盛るようになったこと。
母の体を壊すために入手された薬や毒は――女の機能を奪う薬は、私にも投与されていたこと。
私から母を奪ったのは、私が母になれる可能性を奪ったのは、父だった。
カミラ夫人は、ただ妊娠しなくなる薬だとしか知らない、無知な女だった。
医師は大きな力を持つ父に逆らえず、母を死なせた後に屋敷から逃げていたのだった。
カミラ夫人や医師にも憎しみは抱くが、最も許せないのは父だ。父が命じなければ、私の母は殺されなかった。
これらの証拠の扱い方を手駒に指示して、私は城を後にする。下女から受け取った短剣を、ドレスの中に隠して。




