018. 「おかえり、イラリア」
久しぶりのキスに、頭がくらくらするくらいに嬉しくなる。甘い果実酒に酔わされるような幸福な高揚感が、胸の奥からこみ上げた。
しばらくした後に唇を離して、ふたりっきりで見つめ合う。
「イラリア……っ」
「フィフィ姉さま。……また会えて、良かった。遅くなって、ごめんなさい」
「貴女なのね。今まで……ずっと、ずっと……少しだけ、寂しかったわ」
再び彼女の唇が触れる。
深く深く、長いキスをする。まだ幼さの残る吐息が漏れる。頬が火照って熱くなる。
彼女が一瞬唇を離した隙に、私は彼女の顔を押しのけた。
「待ってっ、イラリア」
「なぜ?」
「こんな……こんなキスは、子どものするものじゃないわ。絵面が、まずい気がするの。こんな姿を誰かに見られたら――」
「見られない。大丈夫」
「んっ……」
また触れて、溶けるようなキスを味わわされる。幸福感と快楽が体に刻み込まれるようなキスだった。
こんな幼い体で味わってはいけないような、そんなキス。
何度も繰り返し唇を重ねた。
彼女への想いが募ったせいか、今まで味わったことのない深い感動のせいか、いつの間にか泣いてしまう。
小さなイラリアが、私をベッドの上に押し倒す。
「イラリア。これ以上は駄目よ」
「フィフィ姉さま。我慢できない」
「抱きしめて、添い寝ならしてあげるから。それで許してちょうだい、ね? これ以上されたら、おかしくなってしまうわ。比喩や冗談なんかじゃないわよ。……私たちは、今は六歳と四歳なの。強い刺激は体に良くないわ」
「……うん。理解した」
「いい子ね。では、貴女の話を聞かせてちょうだい。何があったの?」
彼女を抱きしめて、私は彼女の話をゆっくりと聞く。
彼女はいつもと少し違うあの言葉遣いで、過去の人生のことと、今の状態のことを話してくれた。
イラリアは、もともと、この世界の人間ではなかったらしい。彼女は〝ニホン〟という異世界で生きていた、病弱な少女だった。
彼女のいた世界には〝オトメゲーム〟なるものがあると言う。読み手が途中で選択肢を選ぶことができて、それによってストーリーが変化する、挿絵がたくさんついた恋物語の一種らしい。
〝イラリア〟や〝オフィーリア〟や〝バルトロメオ〟は、その物語の中に出てくる人物だったのだとか。不思議な話もあるものだ。
つまり、今こうして私の腕の中にいるイラリアにとっては、自分の生きていた世界で読んでいた物語の中の人物に、いつの間にか自分がなっていたということになる。
オトメゲームは、物語を最後まで進めた後、最初からまたやり直して別の選択肢を選んで遊び、そうすることで変化するストーリーを楽しむものらしい。
病弱な彼女は、オトメゲームの三回目を進めている途中で死んでしまった。そして、気づけばイラリアになっていた。
そんなイラリアには〝オトメゲームらしい能力〟がついていた。
ひとつめは、ニホン語とこちらの世界の言語とを脳内で自動変換できる能力。
彼女がニホン語で話しているつもりで話せば口からはこちらの言語が出て、彼女の耳から入るこちらの言語は脳内でニホン語に翻訳されたと言う。
ふたつめは、人々が自分をどれだけ愛しているかわかる能力。それぞれの人の近くに浮かぶ架空の花の色で、彼女は自分に向けられる愛情の程度――好感度を知ることができたらしい。
が、彼女がこちらで三度目の人生を始めたら――つまり〝彼女〟の意識や記憶が〝イラリアの器〟に入ってきたら――その能力がなくなっていた。
彼女がニホンでこのオトメゲームをやっていた時、彼女は三度目の幼少期のストーリーを進めている途中で死に、その際にオトメゲームも彼女と一緒に火葬されたはずだと言う。
この世界が彼女のやっていたゲームの世界そのものならば、そのゲームが火葬されたタイミングで、私たちの暮らす世界にはたらくゲームの強制力とやらも壊れた。
巻き戻りもゲームの力のひとつなら、もう今の世界が最後かもしれない。そう彼女は考えている。
オトメゲームの強制力とやらがなくなって、イラリアにあったオトメゲームの能力もなくなってしまった。
今までは翻訳能力に頼っていたから、こちらの言語をうまく話せない。
今までは自分が好かれているかどうかがわかったのに、それがわからなくなってしまったから、人と接するのが怖い。
――それが、今の彼女の状態だ。
「フィフィ姉さま。わかった?」
「うーん……まあ、なんとか。世界は広いのね。私の知らないことが、まだまだたくさんあるみたい。頑張って話してくれて、ありがとうね」
彼女と話していたら、かなりの時間が経ってしまった気がする。あんまり長時間話していると大人たちに怪しまれそうなのだが、大丈夫だろうか。
添い寝しているところを見られたら、また前のように鞭で打たれるかもしれない。
鍵はかけているが、針金で鍵付きの引き出しをこじ開けた前科のある私からすると、それでも安心できなかった。
「私は、うまく話せない。人と話すことは怖い。フィフィ姉さまが好き」
「ええ、ありがとう。まあ、元気そうで良かったわ。読み書きはわかるって言っていたわよね。話すのもまったくできないわけではないみたいだから、自然な言葉遣いは少しずつ覚えていきましょう。好感度? がわからないってことも、少しずつ慣れていけばいいわ」
「フィフィ姉さまが優しい。フィフィ姉さまは可愛い」
「へっ?? なっ、なに言ってるのよ」
突然「優しい」だの「可愛い」だのと褒め言葉のようなものをもらってしまい、驚いて変な声が出る。
イラリアの唇が一瞬触れる。彼女はにこにこと嬉しそうに笑った。
「可愛い。大好き。愛してる」
「可愛いのは、貴女の方でしょう」
「姉さまは私のことが好きか?」
「いいえ、嫌い」
ぴしゃりとそう言うと、イラリアは少し寂しそうな顔をした。その顔を見て、チクリと胸が痛む。
私は、イラリアが嫌いだ。彼女のせいで胸が痛くなることばかりだから、嫌い。イラリアのことなんて嫌い。
「姉さまは怒っているか?」
「怒ってないわ」
「私は姉さまとキスすることを望む」
「……キスまで、ね」
彼女とまた唇を重ねる。嬉しい。懐かしい。
あの男に奪われる前のイラリアが帰ってきた。
私のイラリア。私だけにキスをしてくれる、イラリア。
「……おかえり、イラリア」
「ただいま、フィフィ姉さま」
暗い、暗い、夜の中。
彼女のことしか見えない。
彼女のことしか感じない。
幸せな、一夜だった。
「えー……と、イラリアは、どうやら何かのショックで自然な言葉遣いを忘れてしまったようです。大人たちが怖いのは、幼子によく見られる人見知りかと」
「お前、本当にイラリアに何もしていないだろうな? 鍵をかけて、朝まで戻ってこないとは……」
「話をしている途中でイラリアが眠ってしまい、部屋を出ようにも出られなかっただけにございます。断じて私はいかがわしいことなどしておりません」
翌朝。目が覚めると、扉の下の隙間から伝言らしき紙が入れられていた。そこには私宛の「起床したら直ちに書斎まで来い」という命令が記されていた。
これは何かを疑われているなと思いつつ、私はまだ眠っているイラリアを置いて書斎へと向かった。
父は、まあ幼子を相手にするにしてはあまりにも威圧的な態度で、昨夜のことを問うた。
私は淡々と答える。父は疑いの目を向けることをやめない。
イラリアの無事がメイドたちによって確認されるまで、私は容疑者のままなのだろう。しばらくネチネチといろいろ聞かれた。
暴虐な姉だと思われているのか色欲魔な姉だと思われているのか何だか知らないが、イケない領域に進もうとしたイラリアを止めたのは私なのだから、むしろ誰か私のことを褒めてほしい。私がこの家で褒められることなど、どうせあり得ないだろうけれど。
メイド長が書斎に入ってきて、イラリアの体に特に問題が起きていないことを告げる。そこで、ようやっと私は尋問から解放された。まったく朝から面倒事はよしてほしい。
あのイラリアが帰ってきて、姉さま大好きにこにこ状態になったので、私に対する家の空気が多少和らいだ。
イラリアが私にばかり構おうとするので、彼女に自然な言葉遣いを教える役割を私がいただくことになった。
メイドの監視があるので、そのときにはキスなどはできないが、毎日彼女と一緒に過ごすことを許されるようになった。
「ラーリィは、フィフィ姉さまが、好き」
「イラリア、その例文はもう十分だと思うのだけれど」
「ラーリィは、フィフィ姉さまを、この世の誰よりも、愛している」
「ちょっと応用すればいいってわけじゃないのよ。私への愛の言葉は、練習しなくても言えるでしょう? ……って、恥ずかしいこと言わせないで頂戴。まったく」
「照れている、フィフィ姉さまは、とても、可愛らしい」
「もうっ」
イラリアがニヤニヤと私を見つめる。ふざけるのも大概にしてほしい。
見た目は幼いので子ども扱いされるのをいいことに調子に乗っているが、このイラリア、中身はなかなかの年齢である。
ニホンという異世界で生きた年と過去二回の人生で生きた年とを足し合わせれば、精神年齢はゆうに三十を越えているはずだ。もっとも、どの人生でも十代で死んでいるということなので、精神年齢は十代で止まっていると考えることもできるのだけれど。
――あら? そういえば……イラリアは、どうして巻き戻ったのかしら? 異世界で生きていた彼女は病気で死んで、一回目のイラリアは私が殺して……二回目は?
ゲームの通りに生きて、エンディング後に巻き戻ったなら、イラリアは十代で死んだはずないわよね。彼女の考えが間違っていたのか、私の解釈が間違っていたのか……それとも、何か隠し事をしているのかしら。
「ねえ、イラリア」
「はい、フィフィ姉さま」
「……ちょっと」
メイドがいるところで口に出して言うのは憚られたので、私は紙に小さな文字で書いた。
『貴女はどうして巻き戻れたの?
私が死んだ後、貴女はどうしていたの?
貴女は、どうして死んでしまったの?』と。
イラリアは私の書いた問いをしばらく見つめた後、にこりと笑った。彼女は綺麗な文字で言葉を返す。
読み書きの方は能力があった頃も翻訳できず、彼女は前の人生で学んだことを覚えていたらしい。だから今でも文字は書けるし、書き言葉と同じようになら話すこともできるのだ。
彼女の返事は、
『ラーリィは、ラーリィらしく生きて、ラーリィらしく死んだ』
――とのことだった。
私は、ただ「そう」と返して、ふたりの筆談をインクで塗りつぶす。誰かに見られたら困る内容だ。ふたりの記憶の中だけにとどめておかなければ。
なんとなく、はぐらかされたような気がする。もしかしたら話したくないことなのかもしれない。
冷静に考えれば、自分が死んだ時のことなど、誰だって進んで話したくはないだろう。
私だってバラバラにされた時のことを、彼女に詳細に話す気にはなれない。
そもそも自分の死について話すことができるのなんて、私たちくらいだろうけれど。
……まあ、何にせよ、彼女の精神年齢が四歳ではないことは確実だ。ゆえに私には、本物の四歳児を相手にするように彼女を扱う義理はない。多少厳しくても許されるはずだ。が。
「可愛いフィフィ姉さまは、ラーリィに、勉強を教える」
「いちいち無駄な形容詞をつけなくていいわ」
「ラーリィは、フィフィ姉さまが、大好きであるため、彼女がいると、勉強がはかどる」
「……」
厳しくあたろうと思っても、イラリアの顔を見ると、そんな気持ちはすぐにしぼんでしまう。
嬉しそうにきらきらと輝く空色の瞳に、花が咲くように、ほころぶ口元。どうしようもなく可愛い。この可愛さを壊すなんて、非人道的ではないかと思えるくらい、幼いイラリアはべらぼうに可愛い。
「貴女、本当に可愛いわね」
「フィフィ姉さまが、ラーリィを褒めた。フィフィ姉さまの頭が、おかしいようだ。ラーリィは、フィフィ姉さまを、心配している」
「いきなり失礼ね! なんなのよ!」
柄にもないことを言うと、いつもこれだ。イラリアは、私をからかうことを新しい遊びにしているらしい。
完全にもてあそばれている。悔しい。何をやったって、彼女には勝てない。
「優しいフィフィ姉さまが、ラーリィは、大好きだ」
「あんまりふざけていると、書き取りでもさせるわよ」
「それは遠慮したい」
「なら真面目にやりなさい」
「わかった。私は頑張る」
やっと真面目にやってくれるのかと思ったら、彼女は机の下で手を繋いできた。指を絡めて手のひらを密着させる、いわゆる〝恋人繋ぎ〟という繋ぎ方だ。
授業中にこんな接触をするだなんて、まったく不真面目な生徒だこと。そう心の中で思っても、彼女の手を振りほどけないくらいには、私は彼女に絆されていた。
不埒な先生である私は、むしろ彼女の手の柔らかさにドキドキしてしまってさえもいた。
再び幼子まで戻ってしまった私たちは、そんなふうな触れ合いをしながら、また成長していった。




