017. 「フィフィ姉さま」
私は六歳になり、義妹は四歳になった。
昨日は廊下で私が義妹にぶつかって、彼女が泣いてしまったために、カミラ夫人にふくらはぎを鞭で打たれた。
前の人生のこの日には、義妹が魔法で私の傷を治してくれたけれど、今度の彼女とは会話することさえなかった。
今日は、三度目の私が初めて登城する日。つまり、バルトロメオ王太子の婚約者になるはずの日だ。
またもや私は病のことを口に出さないようにと口止めされているが、残念ながら此度は従う気はない。
バルトロメオにいずれ知られて馬鹿にされるよりは、自分から言ったほうが良い。ついでに婚約しないことになればもっと良い。
着飾られて部屋を出ると、そこには義妹がいた。
「オフィーリアさま」
「あら、どうしたの」
「おはなしがございます。……ふたりきりで」
「そう。なら、貴女たちは下がりなさい」
「はい、オフィーリアお嬢様」
登城のために身支度の世話をしてくれたメイドたちを下がらせ、私と義妹のふたりきりになる。義妹は彼女らしからぬ冷たい目つきで、私を見つめていた。
「それで? 話って何かしら」
「オフィーリアさまは、なぜ設定どおりに動かないのですか。不具合ですか」
「はぁ?」
設定? 不具合?
突然何の話だと、私は首を傾げる。
「オフィーリアさまは、設定どおりに動けば――……設定、どおり、に――……設定――……」
「ちょっと、イラリア?」
様子のおかしい義妹は、なぜかそのまま黙って固まってしまった。私は彼女の肩を揺すってみるも、彼女は動かない。
瞬きはしているから、死んでしまったのではないと思うのだけれど。
「……もう、行くわね。あとはメイドに頼んでおくから」
そう声を掛けて、私はその場を後にする。
義妹のことは心配だったが、そろそろ出発時間が迫っていたのだ。
私はこれまでの二度の人生と同じように登城した。国王陛下にご挨拶をして、バルトロメオと散歩する羽目になった。
前よりは健康なので体力的には良かったのだが、脚は昨日鞭で打たれたせいで具合が悪かった。
大したこともない話をして、また私は転倒する。ここで転ぶのは、もはや私の運命なのだろうか。
「大丈夫か? オフィーリア」
「ええ……え?」
バルトロメオが私に手を差し出す。
その顔はなぜか、過去二度の人生とは違って、本当に優しげに微笑んでいた。
彼は呆然としている私の手を掴んで、どういうわけか、背にまで手を添えて立たせてくれる。
なんなんだ、これは。
手を離した彼から、私は三歩ほど下がって距離をとる。
「脚に傷があるようだが、宮廷医に診させようか」
「いえ、結構です!」
「そうか? まあ、何かあったら言ってくれ」
「あの、殿下……?」
「なんだ、オフィーリア」
なんだも何も、お前は誰だ。
そう問いたくなるくらい、目の前の男――今はまだ六歳だから〝少年〟の方が適しているだろうか――は、私の知っている彼ではなかった。
私の知っているバルトロメオは、初対面から私を見下してくる人間だったはず。
「殿下こそ、お加減が悪いのではありませんか?」
「いや、そんなことはない。俺は健康だぞ」
「いや、でも……」
「オフィーリア」
「は、はい」
バルトロメオは再び私の手をとって、その指先に口づけた。ますますわけがわからない。気色悪い。やめてくれ。
「此度のそなたとは、良い関係を築きたい。婚約者として、よろしく頼む」
「いえ、あの、私は……殿下の婚約者に相応しい者ではありませんわ」
「そんなことはない。父上に認められているそなたは、俺の婚約者に相応しい人だ」
「……私が、子を生めない身だと、しても?」
バルトロメオは私のその言葉を聞いて、微笑んだ。彼は、なぜか笑った。
最初の人生で私に刺されたイラリアが笑った理由に匹敵するくらい、彼の笑顔の理由がわからない。
「ああ、構わない。このことは、父上には黙っているのだぞ。下手なことを言ったら、そなたの家が困るのだから。そう、そなたの可愛い妹にも害が及ぶかもしれないからな」
「……かしこまりました。殿下」
心の声を正直に上げるなら「は?」である。まったくかしこまっていない。意味がわからない。
なぜ、この男はこんなにも、私の知っているのと違うのだろう。この男は、誰だ。
私は脳内に大量の疑問符を浮かばせながら、彼との散歩の時間を終えた。
私と父が家に帰ると、なぜか家の中はざわめいていた。
「どうした、何かあったのか」
「旦那様っ! イラリアお嬢様が――」
「イラリアに何かあったのか?!」
父が慌てて室内へと上がっていく。私も急いでその後を追いかける。
今までの人生では、この日の彼女に何かあったりしなかったはずなのに。前の彼女なら、元気に出迎えてくれたはずなのに。
家を出る前、彼女の様子がおかしかったことと関係しているのだろうか。彼女は大丈夫だろうか。彼女は――……。
「イラリア!」
「イラリアっ!」
カミラ夫人に、屋敷の使用人たち、そして医師。皆が集まっている部屋の真ん中の椅子に、義妹はちょこんと座っていた。
何かに怯えるような空色の瞳が、私を捉える。
「……フィフィ姉さまっ!!」
「っ!?」
――今。「フィフィ姉さま」と、呼んだ?
ローズゴールドの頭が私の胸に飛び込む。
私を含め、皆が目を見開いて義妹のことを見た。
「イラリア、どうしたの?」
「フィフィ姉さま! フィフィ姉さま!」
「そう呼ばれるだけじゃわからないわ。――いったい何があったのですか」
抱きついてきた義妹から視線を離し、屋敷の者たちへと視線を向ける。彼らはどうやら困惑しているようだ。
皆が互いを見合ってゴニョゴニョと何かを言う無駄な時間がしばし続いた後、医師が前に出て話しはじめる。
「旦那様とオフィーリアお嬢様がお出かけになった後、イラリアお嬢様がお倒れになりました。特に熱などはなく、原因はわからなかったのですが、先程お目覚めに。
しかし……お目覚めになられたイラリアお嬢様は……その、言葉遣いが拙く、屋敷の者たちに怯えていらっしゃるようなのです。脳か、あるいは精神面に何か問題が起きたのかと……」
「貴様、イラリアの気が狂ったとでも言うのか?!」
典型的な「鬱は甘えだ、病気じゃない」という考え方の父は、医師を鬼の形相で怒鳴りつける。
大人の男が大声で怒ったのが怖いのだろう、義妹の体がびくりと震えた。抱きしめる力を強めてきた彼女の頭を、あやすように撫でる。
こんなふうに彼女に触れたのは、本当に久しぶりだ。彼女の髪はとてもいい匂いがする。
「い、いえ。滅相もございません、旦那様。ショックでただ混乱していらっしゃるだけかもしれませんし……」
「どうすれば治るのだ! あんなやつに抱きついているなんて普通じゃない!」
しれっと「あんなやつ」呼ばわりされた。まあ良いが。
普通じゃないと言われても、こんな触れ合いなんて軽いと思えるくらい、前の人生ではキスしたり一緒に寝たりいろいろしていたので、なんだかしっくりこない言葉だ。
「イラリア、そいつから離れなさい」
「私はそれはできない!」
「ラーリィ、ママのところにおいで?」
「ラーリィは母親より姉を好む!」
「イラリア、おふたりのおっしゃることを――」
「私はフィフィ姉さまが好きだ!」
「……」
これは、言葉遣いが「拙い」と言うのだろうか。なんというか、一昔前の外国語の教科書にある例文の訳語のような言葉遣いだ。
文法的に間違ってはいないのだが、この国で育った子らしい自然さがない。なるほど、たしかに普段の義妹と何かが変わってしまったことは事実だ。
「あー……少し、私がイラリアと話してみましょうか。もしかしたら、年が近い者の方が話しやすいのかもしれません」
「ラーリィに汚い言葉を教えたら許さないわよ」
「もちろん、教えません」
「イラリアを傷つけるようなことを言ったら……わかっているな?」
「はい。理解しております」
義妹が私の言葉のせいで汚れようものなら、泣こうものなら、私は泣き叫んでも終わらない痛いお仕置きをいただく羽目になるだろう。
警告されたうえでそんなことをしたらどうなるか、私は理解している。義妹が、私の胸元でぽつりと呟いた。
「私は姉さまだけを望む」
「えっと、ふたりきりが良いということ?」
「うん」
「他の人がいると嫌?」
「うん。大人は信頼ない。大人がいると私は話せない」
「……とのことですが」
「ラーリィの部屋が良い」
「とのことです」
義妹が甘えるように私の胸にぐりぐりと頭を押し付ける。大人たちは、みんな困ったような顔をしていた。父が継母の方をちらりと見やり、ため息をつく。
「何かあったら、ただじゃおかない。早く行け」
「はい、父さま」
許可をもらえた私は義妹と手を繋いで、彼女の部屋へと向かった。扉を閉めると、義妹がカチャリと鍵をかける。彼女はカーテンまでぴっちりと閉め切ると、私の方を振り返った。
齢四歳の幼子がするとは思えない、熱っぽい目で彼女は私を見つめる。かつての彼女とどこか被って、心臓がドクンと跳ねた。
「フィフィ姉さま」
「イラリア――んっ」
こちらに来た彼女が背伸びをして、私の頬を包み込む。
幼くやわらかい小さな唇が、私の唇を塞いだ。




