016. 花睡薬と毒と良薬と
『抗不安薬――花の蜜に似た、甘くて危ないやつ――花睡薬の類だ。お前も知識はあるだろう。すぐに現れる症状は、意識障害。うまく頭がはたらかなくなる。眠くもなる。長期的に影響を受けるのは内臓。中毒になると、悪夢に悩まされる場合もある――』
『ただ、かなり強い味と匂いで。独特の甘みがあるから、普通の食事に含まれていたら気づくはずなんだ。冷暗所での保存が基本、加熱は厳禁。特定の酒に混ぜると雑味が飛ぶから、誰かに盛るって場合は、冷たい酒と一緒に飲ませることが多い。もちろん俺がやってるってわけじゃなく、よくある事例としてな』
『嫌な話だが……そうやって意識を混濁させて、暴行をはたらくやつもいる。違和感がないなら、まあ大丈夫だとは思うが。そういう意味でも、万が一にも何かあったら、誰かにちゃんと相談するんだぞ。俺じゃなくてもいいから、校医にでも』
『何はともあれ――酒に弱く、めったに飲まない、そのうえ薬の知識もある真面目で優秀な学生から、花睡薬の匂いがする。そいつぁ気がかりだ。話を聞いて、お前らの状況を見る限り、妹が酒にってわけでもねえだろうからな。あいつはただの酒好きで、美味いもんをお前にも飲ませたいってだけだろう』
『だが、もしかすると――お前の家にいる、誰かが。お前にバレないように、何かしてるんじゃないか。そういう疑いはある』
『仮に本当に、花睡薬が盛られていたとして。なんでそんなことをするのか。あれもこれも、俺の杞憂かもしれないがな。伝えておく』
『自分の症状を正確に理解できないように、花睡薬で混乱させて。他の悪事を隠しているとしたら……? お前が、おかしなことに気づかないように。ゆっくりと――』
あの時の先生の推理は――もしかしたら、ほとんど正解だったのかもしれない。
二度目の私は、もう死んでしまったけれど。彼の言葉を活かして生き延びることは、できなかったけれど。
寝返りを打ち、目を開け、ため息をつく。頭が混乱していた。現実を見ることを拒否していた。ちゃんとしなきゃいけない。でも、まだ受け入れられない。今度の私にはおかしい自覚があるので、きっと過去二度の人生よりはマシだ。
三度目の人生を始めて、初めて先生のことを夢に見てから、数日後。私はまた発作を起こした。そして、気づいてしまった。
ハイエレクタム家の人間は、ずっと――断続的に、私を害し続けているのだ。と。
うまくはたらかない頭で現実を見るため、ゆっくりと。これまでわかったことと考えを整理しよう。
まず、先生が恐れ、不思議に思っていた花睡薬のこと。これは先生の言葉を思い出してから目星をつけて、在り処を確かめた。ベッドのそばのサイドテーブル上、花が活けられていないのに置いてあった花瓶だ。
普段は何も入っていない、あの花瓶。しかし私が発作を起こす前後は違う。誰もいない時に毎日その瓶を傾けてみたから、どんな場合に盛られるかも、その理由も予想できている。
中から甘い匂いのする液体が出てきたのは、発作を起こす前日や発作後にだけ。最初に見つけた時に少量舐めてみたら、存在自体は確定だ。学院三年生の授業で学んだので間違えない。これこそが花睡薬だった。
食事に盛るでもなく、酒に混ぜて飲ませるでもなく、瓶に隠して気化させて、誰かが私にその薬を摂取させていた。
あれが公爵や夫人の命令によって用意されたもので、そのことを使用人も知っていたならば。二度目の人生で義妹と初めて一緒に眠ったあの翌朝、メイドたちが慌てていたのも、そのせいかもしれない。
自分たちでさえ、お嬢様が病弱だろうと発作後だろうと何だろうと気にかけず、必要最低限のときしか訪れない――そんな、危ない薬を気化させている部屋に、大事なもうひとりのお嬢様を一晩じゅう放置してしまったのだから。とりあえずは私のせいにしてきたものの、世話役たちも影でそれ相応の罰を受けたことだろう。
『ゆっくりと、やつらは――お前を殺そうとしている』
次に、理由、目的。花睡薬を摂取させて何をしたかったのかについては、概ね先生の予想した通りだ。母とそのお腹の子を殺した過去の書類を見た時から、いや、本当はそれ以前から、なんとなく察していた。
やつらは私に、花睡薬以外にも、体に良くない毒物を摂取させていたのだろう。花睡薬は、それを隠すための薬だ。
私の頭を混乱させて、おかしいことに気づかないように。飲食物のせいで、毒物のせいで体調不良になっているのだと、察せられないように。私の思考能力を奪った。
二度目の人生最後の秋冬頃には、もう私の鼻は馬鹿になっていたのだと思う。花睡薬がある生活に慣れてしまって、学院で危険性や特徴を学んでも気づけなかった。
特に冬頃は、もう発作とは関係なく、常に花睡薬やその他の毒物を摂取させられていたという可能性もある。でなければ、あんなにも一気に体調は悪化しないだろう――。
と、わかったことや考えてきたことは、こんなところだ。
過去の人生の知識とジェームズ先生の忠告がなければ、今度の私も、きっと、そのまま毒物に侵され続けていた。彼には感謝しなくてはならない。
――どうにか、いつか恩返しをできると良いのだけれど……。それは時間をかけて考えていくとして。
今するべきなのは、できるだけ健康に幼少期を生き延びることかしらね。悪い薬は内臓に蓄積されていくから、今から排除しておかないと。
体を害する薬を、私は今なお飲まされている可能性がある。というか、自分の感覚から言うならば、明らかに飲まされている。
三年生の夏までは、これでも翠玉クラスの女子首席だったのだ。一、二年生の基礎の薬草学を学んだだけで始めた二度目より、三度目はもっと知識も経験もある。薬について知っている。
――間違えたら、大変なことになるかもしれない。危険性は承知のうえよ。それでも自分を信じて、やってみるとしますか。
もうじき朝食が運ばれてくる時間。私は新たな試みを始めるべく、心を固めようとする。
私が摂取させられている薬は、なにも毒物だけではない。ゆっくりじわじわと体を壊すように、時が来るまでは死なせないように、巧妙に調整されているはずだ。こちらの理由は朧げにしか予想できていないが、ともかくもハイエレクタム家の誰かさんは、時間をかけて私を弱らせている。
つまり――私の食事や処方薬の中には、私を壊すための毒物と、私を壊しすぎないようにするための良薬、そのどちらもが含まれていると考えられる。
メイドが食事と薬を持ってきた。私は「ありがとう」と礼を言い、緊張に鼓動をうるさくさせ、いつもより神経を尖らせて食事を始める。お決まりの不味い粥の匂いを嗅ぎ、凝視し、じっくりと味わってから飲み込んだ。
――相変わらず、不味いけど……。変なものは、入っていないみたいね。ただの嫌がらせで不味いだけだわ。
栄養をとるためと自分に言い聞かせ、なんとかすべて食べ終える。問題は、ここからだ。
――今の薬は、合わせて四種類……。明らかに外せるのは、これ。副作用がえぐい、私の今の病状には合わない薬。こっちは――
薬を選別し、私が生きるのに必要だと思われる薬だけを飲む。薬の飲み方を素人が自己判断で変えてはいけないとは言うが、そもそも私は信頼できるところから与えられてはいないのだ。こうするしかない。
毒物らしきものを排除して、良薬と思しきものだけを飲む――この生活を数日間続けてみると、体の具合が、わずかながら良くなった。さらに日が経つと、私の調子はもっと良くなった。どうやら間違っていなかったらしい。
私の体調が悪化しないからか、処方される薬に、毒物らしきものが増えた。どんどん増えた。私は、決してそれらを飲まなかった。
毒物と判断した薬たちは、処方日と薬の名前を書きとめて、別の紙に包んで保管を続けた。私の目から見れば、袋に記された薬の名前は嘘偽りだったけれど、念のため。隠し場所は家具の下だ。
そうして、一ヶ月か二ヶ月が経った頃だろうか。粥の味が変わった。気づいた時には、何かが変わっていた。私はまた体調をおかしくした。
与えても与えても私の調子が悪くならないから、粥にまで毒を入れることにしたらしい。症状に表れてから疑いはじめるなんて、私もまだまだだ。
それにしても、面倒なことをしてくれる。そんなにも私を害したいのだろうか。どうしてだろうか。
こんな形で来られては、どうにもこうにも避けようがない。毒薬の被害に遭わないために粥まで拒めば、飢え死にしてしまう。
私は仕方なく、固形で残っている薬草らしきものは避け、栄養のある穀物の部分だけを食べて、液体はできるだけ残すようにした。
完全に毒物を摂取しないようにできた時より調子は悪いが、何も対策をしないよりはマシだ。
また、私は具合が悪いふりもするようになった。元気にしている姿を見せつけて、粥に入れられる毒の量を増やされてはたまらない。
その他にも、あえての毒物摂取ということで、一部の毒薬は危険性に気づいていても飲むようにした。処方される良薬と毒薬には多くの種類があり、中には、ごくたまにしか出てこない毒薬がある。それだけは少なめに飲むのだ。
その毒薬を飲むと、やや時間を置いた後に発作が起こって呼吸困難になったり、嘔吐の症状が出たりする。そう、あの花睡薬の出番だ。
私の不健康を願う誰かさんは、こうして毒物によって酷い症状を起こさせるとき、花睡薬を使って私を混乱させる。私が自分の病状を理解できないように。毒物の存在に勘付かないように。
こうして毒を飲むと苦しい思いをする羽目になって嫌だったが、さすがにこの薬まで飲まないでいたら、普段薬を飲んでいないことがバレてしまう。私は我慢して飲み続けた。
ちなみに花睡薬については、処方薬にそれらの毒物が含まれると同時に瓶に入れられるので、その時期にはできるだけ目を瞑り、衣服や布団で肌を隠し、特に鼻と口はハンカチなどで覆って過ごすことによって摂取を抑えた。
あれは内臓に負荷のかかる薬だ、取り過ぎは避けたい。が、危ういながらも抗不安薬の一種であることは事実なので、多少は体に入っても気にしないという考え方にもした。
やむなく毒を飲み、それに苦しむとなれば、何かで不安を和らげたいもの。気休め程度でも、痛覚を馬鹿にしてしまいたいもの。
ひょっとすると、少しでも楽になれるように、毒に侵される苦痛を軽減できるようにという優しさから花睡薬を……? と、発作後におかしな考えをしたこともあるけれど。そもそも本当に優しいならば、こんな状況にはなっていないはずだとすぐに思い直した。冷静に考えられる頭脳は残せるように、やっぱり花睡薬はできるだけ取らない方がいい。
そうして私は、できるだけ悪い薬を体に入れないように生活した。義妹は私に構ってこないため、たまに見かけるだけだった。
幼い彼女はたいそう可愛らしく、成長するとともに美しさも足されていき、私とよくキスをした、かつての彼女の姿にだんだん近づいていった。




