014. あなたのことが
婚約を破棄された日から、私の体調はさらに優れなくなった。寝込むことが多くなり、冬季休暇明けには、学園に通える日よりも、屋敷に籠もっている日の方が多くなっていた。
頭はうまくはたらかないし、すぐにイライラしてしまう。義妹は忙しいのか、たまにしか見舞いに来てくれなかった。キスもしてくれなかった。
それが、寂しかった。
一方カミラ夫人は暇なのか、私が寝込んでいる部屋に来ては、いろいろと蔑んできた。
子どもを生めない体のことや、華やかでなく貧相な見た目のことを馬鹿にされた。言うだけ言って、すぐに帰る。悪趣味な女。
あの日まで知らなかったのは私だけで、ハイエレクタム家の他の人間は、とうに知っていたのだ。義妹も、私が不妊であることを知っていた。
私が人前であんなふうに言われる機会をバルトロメオ殿下に与えたのは、義妹だった。彼女が協力しなければ、私はあんな屈辱を受けなかったかもしれないのに。そう思うと、また彼女への殺意が芽生えそうになる。その都度すぐに摘み取るけれど。
私は薬学を学びたかった。薬学研究だって、したかった。だから、比較的調子の良いときは、足元が覚束なくても学院に通った。意地だった。
一度目の私が義妹を殺した日は、いつの間にか過ぎ去っていた。高熱。体の痛み。呼吸困難。私が苦しんでいる間に、時間はどんどん進んでいった。この手からこぼれ落ちていた。
「こんにちは、ジェームズ先生」
「お前……。無理すんなって、言ってんだろ」
「昨日と今日は、いつもより、調子が良いんです。ドラコ、いますか」
「ああ、いる。連れてくるよ。ひとまず座りな」
ジェームズ先生は、こんな私にもエスコートをしてくれる。手をとって、そっと身を抱えるようにして、丁寧に椅子に座らせてくれる。
私なんて女扱いされなくても仕方ないのに、先生は優しい。もしかすると、こんなにも痩せて、やつれているからかもしれない。
私を見るときの彼の瞳に、最近は哀れみの色も見るような気がする。
と言っても、本当にたまにしか、私は学院に来られていないのだけれど。前に来たのは、もう一週間は前のことになろうか。
十二月の二十四日に婚約破棄されて、今日は、二月の何日かだ。もうちょっとで、国王陛下と王妃殿下がご帰国なさる。
――陛下に、もう一度だけでも、お会いできるかしら。こんな私でも……。
上着を羽織り直して、スカートから覗く脚を見下ろす。今にも折れそうだった。
学院の制服は緩くなってしまって、ベルトで留めないとスカートはずり落ちてくる。上着の肩のところは、よく滑って斜めになる。
手の甲を見ると、肌は艶がなく、骨が浮き出ていて。もうお婆さんみたいだな、と思った。まだ十七歳なのに。
『まぁまぁ! ひしゃしゅびゅりゃあ!』
「あら、ドラコ。前より、お喋りになったわね。ええ、久しぶり」
ジェームズ先生が、準備室からドラコを抱えてやってくる。ドラコは前より大きくなった。生後数ヶ月かの人間の赤ちゃんくらいの大きさはある気がする。
「けっこう重いが、持てるか? お前の手、すぐ折れそうだから怖え」
「たぶん、大丈夫です。膝の上に、座らせてあげてくれますか?」
「ああ」
先生がドラコを私の膝の上に置く。私と違って、彼はずっしりと重くなったものだ。
『まぁまぁ! まぁまぁ! やったぁ!』
「かわいい……」
ドラコの頭を撫でたり、指を甘噛みさせてあげたり、指と手とを繋いだりする。
私がドラコと遊んでいるのを見て、ジェームズ先生は心底哀れそうな顔をした。
「お前、大丈夫か?」
「頭のこと心配してます? 失礼ですね」
「なんというか……なんか、ヤバそう」
「やっぱり失礼ですね」
「オフィーリア」
先生の方を見ると、彼はいつにないくらい真剣な顔をしていた。私はぼんやりと彼の瞳を見つめる。
「お前が……いなくなりそうで、怖い」
「やだ、不吉なこと言わないでくださいよ」
「本当に無理をしないでほしい」
「本当に、今日は調子いいんですよ? 熱もないし、まだ吐いてないし、いつもよりは痛くなくて、気絶もしてないんです」
先生は、深いため息をつく。
調子が良くないときはどのような状態なのか、わかってしまうようなことを言ったからだろうか。
「治療法とか、治療薬とか。俺も調べてるから。お前の家のやつらは信じられん」
「先生が、治してくれるんですか?」
「治してやるから、まだ頑張ってくれ」
「頑張って生きてても、どうせ生涯独り身ですけどね。虚しい」
ひとりで生きていくつもりだったのに、いざ誰にも娶ってもらえない身であろうことを自覚すると、虚しく思うようになっていた。
具合が悪いせいで、心も弱っているのかもしれない。死にたいというわけではないけれど、未来に希望を持てない。
元気になれば、前向きに生きていけるようになるだろうか。独り身生活も楽しめるようになるだろうか。
「じゃあ、学院を卒業したら、俺の嫁にしてやろうか」
「……赤ちゃん生めませんよ?」
こんな空気にそぐわない冗談を言った先生に、私もできるだけ軽めな返事をする。手慰みにドラコをくすぐると、彼はキャッキャと笑った。
「それでも良い、俺は。ほら、ドラコもいるし。まあ、ここの薬学科教師になるってのもありだな。枠は空いてるし、お前は翠玉クラスでも優秀だから、きっとなれる」
「じゃあ、教師を目指そうかしら。……なんて。ふふふっ」
「笑えるなら、まだ良かったわ」
「そうですね」
ジェームズ先生も独り身なことだし、独り身同士、若い世代の教育に励むのも良いかもしれない。薬学科の教師になれば、自分の好きな薬学にずっと携わることができる。
ほんの少しだけ、未来に希望の光が見えた気がした。……その光は、すぐに消えてしまうのだけれど。
「いっそ国から逃げるか、オフィーリア。俺と一緒に」
「はい……? ご冗談、を――っ! ぅあ」
そう、あまりにも、あっけなく。此度の私の未来は潰えた。
「おい、どうした」
「突然、痛く……っ」
胸に鋭い痛みが走って、ドラコを抱き込むようにしてうずくまる。咳き込む私の背を先生がさすってくれている。彼の手の存在を感じている間も、痛みは増していった。
強い痛みに、意識が飛びそうになる。どうにか目を開けていようとするも、たびたび負けそうになって……。
『まぁまぁっ!! ぎゃあ!』
「あら……?」
気づくと、なぜかドラコの体がぬるりとしていた。私の手は真っ赤だった。まるでイラリアを殺した時のように。
口の中で血の味がすることに気づく。制服の上着もスカートも、血で濡れていた。
「お前、血っ……!」
再び口から血があふれ出る。抗う術もなく、目の前が霞んでいく。もう駄目かもしれない。
椅子から転げ落ちそうになる体は、先生に抱きとめられた。
「オフィーリアっ!!」
今日は、調子が良いと思っていたのに。今日は、久しぶりに学院に来れたのに。
ジェームズ先生とドラコが何か言っている。何度目かの吐血をする。
胸が痛くて、血を吐いて。イラリアを殺した時と似ている。彼女もこんなふうに苦しかったのだろうか。
意識を失って、少しだけ戻って。また失って、戻る。その繰り返し。
ゆらゆらと水の上を浮き沈みするように、私はかろうじて生きていた。
長年仕えてくれた医者は、もう駄目だと見切りをつけた。
「やっと、死んでくれるのだな」
バルトロメオ殿下がそう言うのが聞こえた。
「先日イラリアを抱いた。いい夜だった……。――ふっ、なんて顔をしている。醜いな。お前と違って彼女は健康だから、いずれ子ができるかもしれない」
すでに尋常じゃないくらいに痛かった胸が、さらに激しく痛くなった。
「そうなれば、嫉妬深いお前でも、さすがに祝福してくれるだろう……? いや、それはないか。お前はその姿を見られないものな。十月十日後はおろか、一日先さえわからない命……。まだ俺の声は聞こえているのか? ん? ああ、泣かないでくれ――」
早く死なせてくれと今度は心が叫んでいる。彼の言葉も、鼓動も、まだ止まらない。
「フィフィ姉さまっ!」
久しぶりに、イラリアの声が聞こえた。彼女に触れたいのに、手を動かせない。
「神に愛されし、聖女の癒やしの力よ、かの者を蝕む病を治せ。癒やせ。……治れ。治れ!」
彼女が魔法をかけると、痛みは和らぐ。
けれど、きっと完全に治すことはできないだろう。
もうすぐ、私は死ぬはずだ。やっと……。本当に、やっと。
「――治れ! 治れっ! 治れぇっ! ……なんで、治せないの。やだっ、やだぁ! フィフィ姉さま、治ってぇ!!」
「も、う……いい、の。い、ら、りあ」
聖女と言えど、魔法を使いすぎたら壊れてしまう。彼女に無理をさせるほどの価値も可能性も、私には、ない。もういい。私は、もういいのだ。
彼女の輪郭が、ぼんやりとしか見えない。髪の色と瞳の色が綺麗なことは、わかるけれど。
「ご、めん、ね」
「姉さまが、何を謝るって言うんですか。悪いのは私です。私と、あの男が。ちゃんと……した、つもりだったのに。私、聖女失格だ。私のせいで……っ」
「こ、ろし、て……ごめ、ん、ね。いたかった、でしょ……。ごめん、ね……」
「姉さま……?」
今の彼女に言っても意味はない。こんな謝罪に意味はない。けれど、どうせ最後なら。死んでしまうなら、謝りたかった。
貴女の幸せを奪ってごめんなさい。貴女の未来をうばってごめんなさい。
「こん、ど、は……しあ、わせ、に……」
「フィフィ姉さま。もしかして……覚えてる、んですか?」
「ご、め、ね……。ら、り、あ……」
「まさか、なんで。もしかして、血の記憶……っ?!」
彼女のいう意味は、わからなかった。
彼女がどこかにいってしまう。
さみしい。おいていかないで。
イラリア。
そばに、いて。
イラリア。
「姉さまっ! あのね、私のいた国ではね、昔――」
「ま、た……お、はな、し……?」
「そう、お話だよ。昔ね、遊女が、深い愛を伝えるのに――指を、切ったの」
「ゆ、び……」
「こうすれば、また、会えるかもしれないから……! だから……! もらって、ね」
銀色がはしって、赤色がほとばしる。イラリアから、赤がおちる。
くちびるに、イラリアが、ふれる。
ああ。なんで。いまさら。
「フィフィ姉さま、愛してます」
「わた、し……は、きらい……」
わたしいがいを、だきしめた、あなたがきらい。
わたしいがいに、きすをした、あなたがきらい。
わたしじゃなく、あのおとこのものになる、あなたがきらい。
わたしに、あたたかさを、しあわせを、おしえて。でも、ひとりにしてしまう、あなたが。
わたしは、だいきらい。
「いらりあ……」
いらりあ。わたしは。あなたの、ことが――……




