100. この災厄の生まれ変わりを
「お、ふぃ、りあ?」
その人は、血だまりの中にいた。
赤色と銀色の混じった海だった。
「あぁ、ひどい、お怪我を」
右の手の甲から前腕にかけてが鋭く裂け、脇腹は抉れている。特に腹からの出血が酷い。
傍らには美しき獣も倒れている。獣に息はない。
この獣は処女のみを好み、男を襲う。
「一角獣に突かれたのですね?」
彼のそばにひざまずき、顔色、脈、傷の具合を見ていった。
「はは、油断、した……」
あの人の兄らしく美しい顔が、苦しそうに歪んでいる。脂汗をかいた額には、金糸の髪が張りついていた。
意識が遠くなりつつあるのか、若苗色の瞳は半分ほどしか露わになっていない。
「腕、腱まで切れて……。お腹、臓器にも、損傷が。脈も、弱く」
良くはない。だが、勝機はある。
「ゲームに出てくるやつなら、どれでも、全部、可能性は、あったのに……。まさか、俺のところに」
「でも、大丈夫です、これなら、なんとか。――聖なる力よ、かの者を癒やせ、」
「いい」
「なにが、いいのです?」
こんなに血まみれで、青白くなって。いったい、どこにそんな力が残っているのか。
「っ、あぅ、アル、」
一度目の世界の私のように。
心身を病んでも、妹を刺し殺すことはできたように。何かが体を突き動かしたのか。
「痛いのですがっ」
アルティエロ王子は現実から逃れるようにぎゅっと目を瞑り、無事な左手で私の右手を強く掴むと、あらぬ方向に曲げた。
「やぁっ、あ」
癒やしの魔法を、邪魔した。そのまま勢いよく私を押し倒した。上に乗っかった。
「アルティエロ王子!」
ここは、一種の戦の場。
これを王位継承権を巡る争いと見れば、私と彼は敵になる。もっと直接的にやりあうことも覚悟して来た。
だから、いまさら手指の骨を折られたくらいで怯みはしない。こんなことで、私は屈しない。
「ごめん、ごめん……っ、ぐ」
「血、が。謝るなら、なんで」
閉ざした瞳から涙を流している彼を、口元から血をこぼす彼を、震えている彼を見捨てない。
「この匂いは、花睡薬、ですか?」
「毒と薬の試練もあって、……っ、おかげさまで、痛みはマシになっているのだろう、これでも。大丈夫だから、魔法は使わず、戻ってくれ」
「大丈夫ではありません!」
その薬は痛苦を和らげ、思考能力を奪う。
頭と感覚を馬鹿にする。
――歴史は繰り返す。
お披露目パーティーの夜の言葉が、頭をよぎった。
「王子、貴方は、今、冷静ではないのです。先ほどの大丈夫というのは、適切な治療をすれば助かるという意味です。このまま放っておいたら、貴方は」
「国王陛下は、俺に、いなくなってほしいのだろう? 最初から、いなければよかったんだ。俺なんて」
上体を起こし、こちらを見て。再び露わになった瞳は、悲しげな色をしている。寂しい色をしている。
あの夜のように、私と手を繋いだまま――今の私の手は、ちょっと変な形をしているけれど――彼は、また泣いている。傷ついている。
「そんなことはありません。貴方だって、愛されております。それに身近の者を、もう、失いたくないって。だから魔法迷宮で」
「どこにも、生まれてこなければ、よかった……!」
「ッ、だから、ぅ」
彼の血で濡れていたところに、彼とは違う熱さをおぼえる。懐かしい熱。嫌な感覚。あの日の再来。
「はぁ、あぁっ」
「……これ以上、きみを、傷つけさせないでくれ、止まれない」
「なに、それ……っ」
刃が離れ、じゅわりと血があふれだす。
「あぁ、もう、痛いんですってばぁ! 馬鹿! 怪我してる手で何してるの馬鹿! 大馬鹿! 痛い!」
「ごめん、でも、死にやしないよ」
「わかってます! また手加減してくださって……っ、そういうところが腹立つんですよ馬鹿!」
一角獣に刺していた剣を、また、さくりと。昔みたいに脇腹に刺されても。私は、まだ。まだ。
―― 一度目の私と、一緒なのでしょう?
寂しくて、薬でおかしくなって、傷つけてしまう。
「貴方の思惑どおりには、させない」
私は、未だに、彼を切り捨てられない。
痛くても、つらくても。
これは、私もしてきたこと。
過去にもされてきたこと。
ただの繰り返しと、聖女殺しの罰だ。
「自分だけ癒やして、ここを去れ、はやく」
アルティエロ王子は、言って、私の上から退いた。床にひとり転がった。
なにがなんでも私に癒やされたくないようだ。お腹に穴があいて重傷のくせに偉そうに。
――私の怪我は、まだ、大丈夫。失敗の可能性を考えたら、彼が先。
なんという、みっともない王子と王女。
もっとうまくやれたらよかった。
「アルティエロ、おにいさま……。もう、黙って、おとなしく癒やされて……? 貴方が、死んでしまう」
「っ、やだ、触るな」
脚を絡めて、歪な右手を彼の首元に這わせて。左手で彼の腹に触れる。
――イラリアなら、もっと綺麗にやるのでしょう。
だらしない恰好だ。でも、今は不恰好でも何でもいい。なりふり構っていられない。
「なぜ、ここまでして、諦めない」
「私は、王女だから、聖女だから」
私は、イラリアほどには癒やしの魔法がうまくない。
力の調整がうまくできなくて、聖女イラリアを再び目覚めさせる治療の過程で、自分の心臓を壊した。
ジェームズ先生は、そのせいで、疲れを癒やす程度の魔法さえ許してくれなくなった。正直、過保護だと感じる。
でも、悪いのは弱い私だ。信頼してもらえないのは、私の弱さのせいだ。
私は、もっと強くなりたい。
「かの者を、癒やせ、治せ――」
私の癒やしの魔法は、私自身を破滅させる危険性を孕んでいるから。
聖女オフィーリアは、不器用で、頑張りすぎてしまうから。
私を真に愛するひとは、大切にするひとは、私に力をみだりに使わせたがらない。
時には活かしてくれても、できるだけ避けようとする。小さな魔法で終わらせようとする。
私を壊さないために。
――ああ、でも、聖女というのは、救うことを刻み込まれているもので……私と彼女は……世界は……。
私だって、救いたい。
今世の私は、聖女、だから。
救いたい。
「俺なんかを癒やして死ぬのは〝オフィーリア〟じゃない!」
アルティエロ王子は、荒れた声で叫んだ。
〝私〟のことじゃないわと、直感した。
「――っ、オフィーリアの相手は〝バルトロメオ〟か〝せんせい〟だけだ! なのに、なんで」
「……、なんです、それ? オトメゲームのこと?」
「英雄にも、悪女にも、なるな。オフィーリア・ハイエレクタム。このゲームの外に堕ちたらいけない、手に負えないっ」
「もうハイエレクタムじゃないの」
「こんなの、したくて、してない……。いつだって、俺は、傷つけたくなんて、なかった」
「アルティエロ王子、落ち着いて。こんなにしておいて、おかしいですよ……。私を刺したのも、骨を折ったのも、あの夜に犯そうとしたのも、貴方。それは背負って」
「俺は、ここで死ぬ」
「はい、でも離しませんから、死ぬならあとでね。もう、とりあえず治されておきなさい、馬鹿。――お腹の傷は、治り、ましたから……。あぁ、うまくできて、よかった」
「……、くっ」
――魔素濃度の高い空間だと、そこから魔力を補えはするけれど。精神は相応か、それ以上に削れるような。なるほど。
これも、間違えなければ死なない、間違えれば命が危険。そういう仕組みらしかった。ここにも魔法迷宮らしさを感じる。
――よかった。致命傷は、癒やせた。私でも、できた。
勇者や聖女の魔法については、未だにわからないことも多い。
現代の魔法使いは単属性の魔法しか使えない。昔の魔導書がすべてそのまま参考になるわけではない。個人差も大きい。
――魔法社会の、復活。三国の魔法使いが集ったのは、あの計画のため。でも、大地の勇者が欠けているから……。
もしかすると、あの方々はいらっしゃらないかもしれない。
あの方だけは、絶対にいらっしゃっても。
……まあ、戻ってみないことにはわからないが。
「アルティエロお兄様」
私は、抱きつくように彼の右腕を引っぱった。
彼は痛そうに「うぐっ」と声を上げた。これといった抵抗は、もうなかった。
「貴方は騎士だから、利き腕を壊したままではいけません。すぐに治さないと!」
「先に、自分を治して……」
「あら、私、これでも摩耗しているのです。もう一歩たりとも歩けません。貴方に運んでもらわないと帰れそうにないの」
「嘘つき」
「嘘じゃありません。おんぶして? お兄様」
「そんなにお兄様お兄様言わないでくれ、困るから」
「もう家族で、義理でもお兄様でしょ? ――はい、治った!」
「さっきから、なんで無詠唱でやるんだ。何度も発現させないと治せないくせに、唱えた方が楽だろうに」
「唱えてやろうとしたら邪魔されたからですが? 死にたがりのお兄様」
「悪かったって。……俺が、やらかした、きみの、怪我は」
「お腹の止血はしました。手は何も。うちのミレイちゃんに治してもらいますわ。だから早く、みんなのところに行きましょう? イオリ」
「怪我しておかしくなっているのか?」
「失礼ですね」
「本当ごめん」
「こんなでも、貴方は私が好きだから。私を置いていけないでしょう? 一緒に死ぬのも、いえ、ここで私に先立たれるのもお嫌でしょう? 私の勝ちよ」
「……聞いてない、こんなになるなんて」
アルティエロ王子は、やっと。くしゃりと笑った。
仕方ないな、と受け入れる笑みだった。
「きみは、俺が推した、俺の女神の儚い〝オフィーリア〟じゃないな」
「はい。今世は貴方の妹姫です」
「妹、か。うん。まあ、まんざらでもない」
「さっさとおんぶしてください、疲れちゃいました」
「はいはい、姫」
彼は軽く返事して、広い背中を私に見せた。
「失礼します」
私は彼の背に乗って、体重を預ける。
「強いな、オフィーリア。――オフィーリア・フロイド・リスノワーリュ」
「今、言われると、まるで私が重いみたいです」
「俺は騎士だ、ぜんぜん重いとは感じない」
そうして私と彼は、中央に向かいはじめた。
さっきまで彼のお腹には穴があいていて、私も傷を負わされているのに、なんだか平和だと感じた。
あの光景とくらべれば、ここでの戦いは、穏やかだ。
私が有利になるような動きはあれど、おまけに魔法社会の復活計画と絡められども、やっぱり国王陛下は全員を死なせないように魔法迷宮を選んだように思う。
アルティエロ王子もひとりの息子として、ちゃんと陛下に愛されていると思う。バルトロメオのように、うまく伝わっていないのかもしれないけれど。
「貴方は、私のお兄様。私の家族。前世は私より年下でも、今世は、お兄様です。これは譲りません」
「……そのこと、だが、ちょっと」
「はい」
「俺のいた世界は、成人が、二十歳で……。俺が死んだのは、十九の時で」
「はい」
「今のオフィーリアより、ちょっとだけ、前世でも年上だ」
「ふふっ、はい、そうなんですね。お兄様。――私も、ちょっと言いたいことがありまして」
「なんだ」
「髪、貴方は、短い方が似合いそう」
「……切るか、じゃあ」
「ちなみに今世はおいくつでしたっけ」
「もうすぐ二十八になる」
「あら、まあ、おにいさんですね。あらためて聞くと」
「ゲームの仕様のせいか、避妊薬のせいか、見た目だけ若いんだよ、あいつに寄って」
「ふぅん」
私が剣を抜いたことで迷宮の造りが変わったのか、やっぱり幻の間はなく。
私たちは、すんなりと中央の部屋に出た。
私は、イラリアのそばに戻ってこられた。
「! フィフィ姉さま……! フィフィ姉さま!? アルティエロ殿下もご無事……、あれ、ご無事? あれ? 血が? んんん? 姉さまがご無事じゃない!?」
「ただいま、イラリア。差し支えなければ、私を治してくれる? 訳あって、こちらの治療はできていないの」
「もちろん喜んで治しますっ――」
と、アルティエロ王子の背中を降りて、イラリアに甘えようとしたところで。
「あら」
私は、あの方の姿を見つけた。
「あら」
あの方もそっくりの反応をする。
薄紅の髪に、濃灰の瞳。幼女の姿をしているが、これは見かけほど可愛らしいものではない。
白いドレスを指先で摘まんで淑女の礼をして、彼女は言った。
「お久しぶりですね、わたくしの――女王陛下」
しん、と、部屋に集ったみんなが静まる。彼女に場を支配される。
ここで喋れるのは、私だけのようだった。
「ごきげんよう、はじめまして、女神さま。あるいは、お久しぶりね。〝わたくし〟の前世の恋人。……とは、言っても」
私に前世の記憶はない。女神さまに何度も干渉されて見せられても、なにも思い出しはしなかった。
「魂は〝彼女〟でも、私は、貴女の愛したひとではありません。記憶もありません。見せられても思い出すことは、ありません」
「それでも、貴女は、わたくしの唯一」
小さな女神さまは、にこりと愛らしく笑う。
髪色のせいか、どこかイラリアに似ている気もする。腹の底が見えない感じは、王妃殿下にも似ているようで。瞳の色は私や母と被って。
「ふぃ、フィフィ姉さま……?」
ここで声を出せるのは、さすがだ。勇気ある私の恋人。愛しい婚約者。
今の私は貴女のものではないと見せつけるように、私はイラリアにひとつキスをする。
きゃあっとクララ様の照れた叫び声がした。レオンが落ち着かせるように触れるのが見えた。
「イラリアに治してもらいながら、話をしましょうか。痛いので」
「あら、女王陛下、痛いとおっしゃれるようになったのですね」
「私でも〝彼女〟でも、痛いものは痛いのです。貴女に首を落とされた時も、ひどく。――さあ、皆さま」
ぐるりと皆を見回すと。すべての瞳が複雑な色をしていた。無理もない。
私と彼女の会話から、全員、もう気づいているのだから。
この異端に。禁忌に。
「新しい王太子を決めましょう」
私、オフィーリアは、この地の前王朝のとある王――今の世で〝殺戮女王〟と呼ばれる女――エレオノーラの生まれ変わりなのだと。
いくつもの戦を起こして、悪事を重ね、最期は愛した者に首を落とされた悪女なのだと。
――この災厄の生まれ変わりを、あなたたちは、許してくださるかしら?
女王エレオノーラの声が頭に響く。
――もしも今世も〝わたくし〟を討つひとがいるならば、それは、勇者さまか、聖女さま。
女神さまと声が重なる。私の中だけに届く。
――もう一度、貴女は〝王〟になる――絶対に。
私は、殺戮女王になんて、なりたくなかった。




