4. 窓から見える庭
シンが北へ行って2年目になりました。梅雨空の続く寒い日に、仕事中の夫が戻ってきました。
「おおーい」
お勝手口から夫が大声で私を呼びました。私は部屋で一人静かに縫い物をしていた手を止め、ゆっくりと立ち上がりお勝手口に行きました。
すると夫に連れられ、見慣れない森守りの青年が立っていました。夫は、
「ガクって言うんだが」と簡単に青年を紹介しました。「何か急ぎの用があるらしいんだ。うちの庭を少しいじらせてやってくれないか」
「庭を?」
私は思わずその青年をじろじろと見回していました。青年と言ってもシンと同じ年くらいでしょうか。もしかするともう少し上かもしれません。人懐っこそうな優しい目をしていて、いかにも急いで来たという風に肩で息をしていました。
「ガクと言います。すみません、ほんのちょっとだけで良いので、お庭に入らせてもらえないでしょうか」
青年の挨拶はとてもさわやかで好印象でした。彼は小脇に薄茶色の花瓶のようなものを抱えていました。それが何か関係あるのでしょう。もしかすると土を入れるのかもしれません。
「構わないけど、お庭は荒れ放題よ?」
シンが連れ去られてから、本当に私は庭に出ませんでした。縁側を開けることもしなかったので、庭にたくさんの雑草の緑があることは知っていましたが、どのくらい茂っているかも見ないようにしていました。そんな庭に入っても、何ができるのでしょう。
「大丈夫です。ほんのちょっとだけですから」
「何をするの?」
思わず興味がわき聞いてみました。
「少し端っこを掘らせてください。それからこの壺を置かせてほしいんです」
「その壺?何が入ってるの?」
「何も入ってないんですが、ほら」
そう言って、青年は壺のふたをポンと音を立てて開けると、中が見えるように見せてくれました。確かに何も入っていません。私には彼が何をしようとしているのかさっぱりわかりませんでしたが、そのくらいなら良いと思い、庭に入ることを承知しました。
「まあ、良いわよ?」
「ありがとうございます!」
青年はとても嬉しそうに礼を言い、主人に連れられて庭に行きました。主人はそのまま森へ戻ったようでした。
ものの10分くらいでしょうか、すぐに青年が庭から声をかけてきました。
「すみません、終わりました!ありがとうございました!」
「はーい」
私は彼を見ることもしないで、返事だけをしておきました。彼は急いでいるようで、木戸を開ける音がしたかと思うと、「さようならー」と言い残して、パタパタとかけて行ってしまいました。風のようにサーっとやってきて、すぐに去って行ってしまいました。一体何だったのか考える間もなく、彼の印象はすぐに薄れてしまいました。
私は彼が何かをした庭に出ることもしませんでした。
それからひと月半ほど経ち、すっかり夏が来ました。空は青く、明るい夏です。それでも私はずっと家の中にいました。もう、ずっとそうなのです。どんなに明るい日差しがあろうと、閉め切って暑かろうと、私は窓を閉めひっそりと暮らすのです。
「おばさん、シンは帰ってきた?」
勝手口から声がしました。テトの声です。
私が勝手口に出て行くと、テトは見るからに採れたてとわかるような新鮮な野菜をたくさん持って立っていました。
「え、いいえ?シンが帰ってくるなんて聞いてないけど?」
私がそう言うと、テトはちょっと首をかしげて考えたようでした。
「じゃあ、まだかな。こっち帰るように手紙出したから、そろそろ来るかと思ったんだ。あ、コレ」
テトは私の腕に、大量の野菜を乗せてくれました。
「シンが来たら食べさせてやって。じゃ」
それだけ言って、テトは去って行きました。仕事中だったはずです。でも、野菜を届けるという名目でここにきたようでした。
さて、では近いうちにシンが帰ってくるようなので、家の掃除をしなければなりません。
普通だったらウキウキするでしょうか。一人息子が遠い地から里帰りするのですから。ところが、私の心は何も、感じてはいませんでした。私の息子が帰ってくる、というよりは“あの”シンが来ると思った方がしっくりくる、なんとも情けない親なのです。嬉しくないことはないのですが、あのシンにどう接したら良いのかいまだにわからないのです。
テトの予告通り、次の日の午前中にシンはやってきました。私が掃除をしている時です。
開いているお勝手口をトントンとたたく音がしました。それから
「ただいま」
という声が聞こえてきました。声変りをしているシンの声です。夫の声を少し高くしたような声です。
私が気づいてお勝手口に行くと、シンが雪駄を脱いでいるところでした。そして私に気づいてもう一度
「ただいま」
と言いました。
シンが「ただいま」というのを初めて聞きました。
「おかえりなさい。テトが、シンが帰ってくるって知らせてくれていたのよ」
私はなるべく普通に、シンに話しかけました。それでも返事は期待していませんでした。ところが、
「あ、うん」
という短い返事が返ってきたのです。驚きました。そして会話をしたことで気づきました。外はとても暑かったということを。
「暑かったでしょう?お水飲む?」
少しの期待を込めて話しかけると
「うん、ちょうだい」
という返事が来たのです!
こんな普通のことが、とても嬉しくて私は感激していました。シンは、北の地でうまくやっているどころか、返事や会話ができるようになっていたのです。
シンは荷物を置きに自分の部屋へ行きました。私はその間に、冷たい水を湯呑にたくさん入れて、食卓の上に置きました。
その時です。シンの部屋から大きな声が聞こえました。
「ああー!」
シンがあんな大声を出すとは一体何事でしょう。
続いてシンが、部屋からバタバタと駆け出してきました。苦手な虫でもいたのでしょうか。
ところがシンの顔は、怯えた風ではなく、むしろキラキラとしていて驚いて喜んでいるようでした。このシンにあんな顔ができるものかと思わず見入ってしまうほどです。
「おかあさん、おかあさん!」
シンはまるで小さな子どものように叫んで私の元へ来ました。その姿は、あの4歳の日に、庭に蒔いた種から芽が出てきた時の表情と全く同じだと錯覚してしまうほどでした。
シンは私のそばまでくると、キョロキョロと見回し、そして縁側の方へ走りました。
いつも閉め切っている縁側の前の障子をガラリと開けると、縁側のヘリに立ち、庭を覗き込みました。自分の部屋の前辺り(右側)に首を向け、そして信じられないほど大きな声で
「やったー!」
と叫び、ガッツポーズをして高く飛びだしました。
裸足で雑草だらけの庭に飛び出したシンは、庭の中をぴょんぴょん跳ねながら
「おかあさんのお花が咲いた!やったー!」
と叫んでいたのです。
まずあのシンが、こんなにはしゃいだ姿をするのを呆然と見ていました。信じられません。
それから、シンが言ったことを考えました。「お母さんのお花」が咲いたというのです。お母さんのお花ってなんだったかしら。聞いたことがあります。
シンは庭から縁側に走ってきて、縁側に膝をついて
「お母さんが植えてくれたの?」
と聞いてきました。そしてまた庭に出て花を見に行きました。
私もシンにつられて、縁側に出ました。なんて久しぶりでしょう。庭は長い雑草がたくさん生えていて、シンの足元がまったく見えないほどです。
そして、シンの部屋の前を覗き込みました。
そこには、大きな向日葵がこちらを向いて咲き誇っていました。垣根に沿って5本も生えています。
私は目を疑いました。なんの手入れもしていない庭に向日葵が並んで咲くなんてことがあるでしょうか。
シンはしばらくじっと向日葵を観察していました。その背中がとても嬉しそうです。
私はそんな姿をずっと見たかったのです。シンが喜んだり、飛び跳ねたり、感動したりする姿を、ずっと見たかったのです。
思わず嬉しくなり、涙がこみ上げてきそうになりました。縁側から居間に戻り、シンに汲んであげた湯呑の前に座りました。
シンは縁側で足を拭いて、部屋に入ってきました。そして私の前に座りました。それから、
「お母さんのお花は向日葵だったんだね」
と言いながら、嬉しそうに水を飲みました。私は何も言えずにただシンを見ているだけでした。
「お母さんが植えてくれたの?」
シンはまた、さっきと同じ質問をしました。
「え・・・違うわ」
私は思い出しました。「お母さんのお花」とは、4歳のシンが咲くのを楽しみに待っていた花だったことを。夫が種を蒔き「これはお母さんのお花だよ」と言ったのでした。シンは覚えていたのです。いえ、思い出したのでしょう。
「シン、あなた記憶があるの?」
私はシンの顔を覗き込みました。シンは記憶があまりなかったはずです。それに、思い出させないようにもしていたはずでした。シンは私を真っ直ぐに見つめて言いました。
「思い出したんだ。冬に、色々あって」
そう言うと少し泣きそうな顔をしました。シンがこんなに表情豊かになるなんて思いもしませんでした。そんな表情ひとつひとつは、とても美しいものです。
シンはまた表情を変え、今度は優しい笑顔になり
「ねえ、お母さんはあの花のこと、覚えてた?」
と聞いてきました。本当にあの4歳のシンと間違うような表情です。
「お母さん、忘れてたわ。さっきシンに言われて思い出したのよ。ごめんなさいね」
「そうなの?思い出して良かった!ホントにあの花はお母さんみたいだもんね」
そう言って、シンはまた縁側に行き、向日葵を見つめていました。
「思い出して良かった」
そうシンは呟いていました。少し泣いているようでした。
シンは記憶がありませんでした。
きっととても辛かったのでしょう。
幸せな思い出のないままに成長しなくてはならないなんて、辛すぎます。だからシンが「思い出して良かった」と言ったのは、何とも重みがありました。
「それにしても、どうして花が咲いたんだろ?」
シンがそう言いながらまた居間に戻ってきました。
それを聞いて私は思い出しました。
「そういえば、梅雨の時期に、誰か来たのよ」
私はあの青年のことを思い出そうとしました。でも、あまりに短い時間しか見なかったのもあり、どんな名前でどんな顔をしていたのかあまり思い出せません。
「誰かって?」
「お父さんが連れてきたのよ。あなたくらいの森守りよ」
「僕くらい?テトとかじゃなくて?」
「明の森の森守りだったらお母さんだって知ってるけど、お母さんの知らない森守りだったのよ」
「ふうん。シトとかナルとかじゃない?」
「違うわ。お母さんが知らない顔の人よ」
シンは少し思い当たる若い森守りの名前を言いましたが、誰でもありませんでした。
「その人、何しに来たの?」
結局誰だか分からなかったので、シンはその先を聞きたがりました。
「うちの庭に入らせてくださいって来たのよ。それでほんの10分くらい、庭にいて、ああ、そうそう、壺を置きたいって言ってたわ」
「壺?」
「そうよ。このくらいの壺で、薄い茶色の綺麗な壺よ。最初花瓶かと思ったんだけど、木のふたが付いてたわ。横に濃い茶色でなみなみの模様が入ってる壺を、置きたいって言ってたのよ」
私が壺の説明をすると、シンがハッとして何かに気づきました。そして庭に下りて行きました。
庭にあの壺を探しているのでしょう。でも、壺はシンには探せませんでした。しばらく探して何も持たずに戻ってきました。
「ないなぁ。本当に壺を置いたの?」
「わからないわ。私は壺を置くところは見てないから。だって、ずっと庭に出なかったのだもの」
シンはちょっと考えた顔をしていました。それからまた私に聞きました。
「その森守りってさ、目が大きくて前歯が2本目立つ感じだった?」
「ええ、まあ」
私は思い出しながら相槌を打ちました。
「それで、あ、頭巾のここに赤い小さい石が付いてて、ガクって名前?」
「ええ、そうね。頭巾に赤い石が付いてたわ。名前も、多分ガクとかそんな感じだったと思うわ」
シンはだんだん真剣な顔になりました。
「梅雨のころ?まさか」
シンはその壺を置きに来た人が誰だかわかったのでしょう。それでも信じられないようでした。
「どうしたの?」
「だって、ガクはずっと僕と一緒にいたし、一度梅雨のころに町にお使いに行ったけど、4日でちゃんと帰ってきた。こっちに来られるはずがない」
「あっちの森の人なの?」
「僕の相棒」
なるほど、北の森は遠いのです。森守りが速く走れるからと言っても、4日間で往復するのは無理でしょう。
「でも、多分それはガクの壺だ」
シンは静かに言いました。
私はシンが言った、そのガクという青年が来たのだと思います。それで、彼が壺を置いたか、種を蒔いたかしたのでしょう。それしか考えられません。
それで向日葵が咲いたのでしょう。彼がなぜ向日葵を植えたのかはわかりません。でも、単なる偶然だとは思えませんでした。
シンは昔のシンを大きくしたような、快活でお喋りな青年に育っていました。それは私の夢でした。こんなに嬉しいことがあるでしょうか。
そして、私自身のことも気づきました。私はシンがいなくなってから、何もしなかったのです。シンのことを諦め、ただ嘆いていただけでした。生きる意味など何も考えず、あの理想のシンがいなければ何の価値もないと思っていたのです。でも、それは違いました。
私は私にできることをすべきだったのです。
シンが辛いとき、向日葵のように彼に微笑みかけてあげればよかったのです。たとえ彼が、昔のシンとは違っても、私が、昔の「お母さん」だったら、彼はもっと早くに昔のシンを取り戻していたかもしれないのです。
でも、逆でした。
シンは昔のシンを取り戻し、それによって、私に「昔のお母さん」を思い出させてくれたのです。
シンはきっと、ずっと背の高い黄色い花を覚えていたのでしょう。庭に出て、向日葵の花を見てあんなにはしゃぐシンを、私は嬉しくてたまらなくなりました。
ああ、感謝します。
私の子どもは帰ってきました。
私の子どもは、昔のシンと同じです。ただ、少しばかり違うところもあります。奇妙な魔法を使いますが、それでも私を愛してくれる私の息子です。
私はシンによって、私を取り戻しました。
私は今までずっと家に閉じこもり誰とも話しませんでしたが、今日はどうしてもみんなに私の息子のことを知らせたくなりました。嬉しくてしょうがないからです。
お祝いの赤飯を炊き、ご近所に配って回りました。
「私の息子が帰ってきました。一緒に喜んでください」と。
シンは帰ってきました。
ああ、感謝します。
おしまい
イラストは九藤 朋さまに描いていただきました。
ありがとうございます!
番外編1「お母さんのお花」はこれにて完結となります。
お読みいただきありがとうございました。
次回からは、番外編2となります。こちらも短く6話となっていますので、
続けてお読みいただければ幸いです。




