3. 距離と再認識
「ここがあなたの部屋よ」
私たち夫婦は、シンを家に連れ帰りました。シンが4歳まで住んでいた家です。部屋もそのままです。
シンはキョロキョロと部屋の中を見回しました。
シンは部屋に入り、文机のそばに立ち振り返りました。私はその姿を見て、彼を連れ帰ってきて良かったとホッとしました。この部屋に子どもがいるというのはなんて素敵なのでしょう。
「ベイは?」
だしぬけにシンが言いました。ベイとはいったい何なのでしょう?
「ベイって?」
私は思わずシンに聞き直してしまいました。すると夫が私に「ほら、過去のことは・・・」と小声で耳打ちしました。
そうです。彼の記憶はあやふやなのですから、彼が何を言っても、私にはわからないのですし、その記憶をほじくり返してしまってはいけないのです。
「ベイブレードは?いつ来るの?」
それが誰かの名前だと言うことは分かりましたが、私たちはそれ以上なにも答えてあげることはできませんでした。
私たちがそれ以上なにも答えないでいると、彼は窓辺により外をじっと眺めていました。
「さあ、荷物を置いたら、居間に行きましょう」
そう言って、家の中を案内しました。彼は少し覚えているようでした。厠や風呂場の場所も知っていました。
食事の時、最初は手づかみで食べようとしていました。
「シン、お箸を使うのよ」
そう教えてあげると、彼はお箸を左手に持ち、きちんと扱いました。お箸の使いかたを覚えているのです。しかも、彼は左利きです。それも4歳の時と同じでした。
一番の難関はお風呂でした。虹森でも訓練をしたのですが、彼はお風呂が怖いようなのです。
夫がシンの衣服を脱がせようとすると怒ったように帯を抑えるのです。無理やりにでも脱がせようとした時に、事件は起こりました。
「ほら、脱ぎなさい!」
夫が無理やりシンの帯をはずしたところで、シンは言葉にならない声を発しました。
「うあー!」
本当に野生児のようです。そして、シンが振り払った左手から何かが飛び出たのが見えました。
それは私の目の前を勢いよく通過して行き、シンの反対側の壁にぶつかりました。
壁はバン!と大きな音を立て、そして一瞬炎が上がりました。
「ひ、火の玉!」
私は腰を抜かして転びました。
シンの手から火の玉が飛び出したのです。家を焼くほどではなかったのですが、人の手から火が出るなどということがあるでしょうか!
私の反応と夫の形相から、シンは自分がやってはいけないことをしたと理解したのでしょう。小さくなって震えていました。
「シン、それはやっちゃいけないよ」
夫は優しく諭していましたが、結局後で、虹森に手紙を出しました。シンが火の玉を出したことはどう対処したら良いのかわからなかったからです。
夫が手紙を出した翌日には歌司様から手紙が来ました。シンの“火”のことでした。
手紙によると、どうやらシンは火を扱う魔法が使えるということでした。それに物を燃やすことや、物が燃えやすい状態などが分かる能力があるということでした。
誰が見ても恐ろしい魔法なので、ウタ・ツカサ様はシンにその魔法を使わないように指導したとのことでした。
ということは、私たち夫婦も、シンにそのように教えなくてはなりません。そんな魔法を世間様に知られては、私たちも白い目で見られてしまいます。
私はシンを学校にやることが怖くなりました。もし、親の見ていないところで、シンが火を付けて火事にでもなったら大事です。それに、そんな姿を見られたらきっと友だちもできないでしょう。親が見ても恐ろしいと思うのですから、他人が見れば何と思うでしょうか。
ただ、シン自身も、火を出すことはやってはいけないことというのはわかっているようでした。これは、彼を信じなければならないのでしょう。親にとって指導のしどころでした。
そんなことで、シンは3日ほど家に慣れると、学校に行くようになりました。
学校の先生もシンが特殊であることはわかってくれていました。ツカサ様が言っておいてくれたのでしょう。
シンは学校を嫌がりませんでしたが、なかなかなじみませんでした。それは、言葉を発しないからです。
私たちも、彼がちゃんと喋ったのを聞いたのはほんの数回程度です。それが学校では、何も言わないというのです。当然友だちもできません。
シンの見た目は良くなりました。顔についていた痣も薄くなり、しだいに消えました。目の上の腫れもひいて、きりっとした目がわかるようになりました。そうしてみると、私に似ていました。
本当にこの子は私の子だったのです。
手足もだいぶ綺麗になりました。背丈は相変わらず低いようですが、このくらいの年齢だと個人差もあるので、そんなに気にならなくなりました。もしかすると大きくなり始めていたのかもしれません。
キリっとしていて、真面目そうで、喋らない子、ということで、少しずつ女の子には受け入れられているようでした。
ただ、やはり喋らないので、先生も手を焼いているようでした。どうしてか喋らないのです。
男の子たちはシンをからかうようになりました。耳が聞こえないだの、舌がないだの、そんなからかいがだんだん大きくなり、何も言わずに後ろから蹴ったり、物を隠したりするようになりました。それでもシンは何も言わないのです。先生に何か言えばいいのに、言わないのです。
そんなある日、恐れていたことが起こりました。
男の子たちの意地悪に我慢が出来なくなったシンが、火を出してしまったのです。
私には状況はわかりません。
どんなふうにしてシンが火を出したのか、どんなことをしたのか、わかりません。シンが言わないのですから。シンは悪者にしたてられ、悪魔の魔法を使う子として、先生からも注意を受けたのでした。
そんな学校での毎日は辛いことでした。
それでも、シンは学校を休みませんでした。嫌がるそぶりも見せませんでした。とても我慢強い子のようです。泣きもしませんでした。
ひと月ほどすると、夫はシンを森に連れて行き、歌司様が言ったように、テトにシンを任せることにしました。
森守りの技は、子どものうちに身に着けておかないとならないものが多いのです。遊びに組み込んでできるようになれば、苦労しなくてすみます。
学校がありますから、放課後にテトのところに行って見習いをすることになりました。
テトは、うちの隣に住んでいたので(森守りになってからは森に住んでいます)シンのことを覚えていました。シンがいなくなった時、テトは11歳だったでしょうか。(よく一緒に遊んでもらったものです。)彼の弟もいなくなったのです。それで、テトはシンが戻ってきたことをとても喜んでくれていました。
テトは本当によく面倒をみてくれました。彼自身も一人前になったばかりで(二年目だったようです)きっと大変だったのでしょうが、毎日森から家まで送り届けてくれて、一緒に夕飯を食べながら、シンの成長ぶりを教えてくれました。
「今日はツツを使った練習が随分上手になりました。な、シン!」
シンは答えませんでした。きっと森の中でも、テトにすら何も言わないのでしょう。
毎日そうやってシンのことを報告に来てくれていましたが、テトもシンが何も言わないことが辛かったはずです。
「シン、お前が無事に戻ってきてくれて、俺は嬉しいぞー!」
テトはそう言って、シンをぎゅうぎゅうと抱きしめました。テトは身体が大きく力も強いのです。シンは死にそうな顔になって
「やめろ、やめろ!テトやめろ!」
と叫びました。それがテトには嬉しくてたまらなかったようです。それから毎日、テトは何かと理由を付けてはシンに絞め技を繰り出し、シンは「やめろー!」と叫んでいました。
その甲斐あってか、シンはテトに口をきくようになりました。
「シン、無言じゃダメだ。せめて、返事はしろ、ハイの一言でいいから、必ずしろ」
テトが真剣にシンに言っていたのを聞きました。
シンはテトをしばらく見つめて、おもむろに
「はい」
と言っていました。
それからは、シンはテトだけでなく、私や夫や学校の先生にも、ちゃんと返事をするようになったのです。本当にテトの力技には感謝しています。
それでも、シンは“悪魔の魔法”を使う子どもとして世間から白い目で見られ、恐れられていました。
私もご近所様に何かを言われているのを知っていました。とても辛かったです。顔を合わせないようにして、小さくなって過ごしていました。
シンがいなくなった時とは全然違う苦しみの日々だったのです。
やがてシンは学校を卒業し、修行に入りました。修業はテトが受け入れてくれたので、本当に助かりました。それにしてもテト以外一体誰が“悪魔の魔法”を使うあの子を受け入れてくれるでしょう。
そして、一度森でも、シンは火を出してしまったようでした。森守りたちは大っぴらには言いませんでしたが、年寄連中にはひんしゅくを買っていて、夫も肩身の狭い思いをしていました。
それでも、テトはシンをずっと守ってくれていたのです。修業に入って、ずっと森の家でもシンと一緒だったテトは疲れ切っていました。彼は体力がありますが、問題のあるシンと四六時中一緒というのは、体力だけでなく精神的にも相当辛かったはずです。
私はどうしてよいかわかりませんでした。あの子が一人前になるためには、ただ森で暮らせばいいのではないのです。森守りの仲間と馴染めなければならないはずです。
でも、どう見てもシンは馴染んでいませんでした。テトにだけ背負われて、狭い世界でもがいているように見えました。
ちゃんと普通に生きていくというのは何て難しいのでしょう。
私は、シンがどんな姿でも、戻ってきてくれれば良いと思っていたはずです。
それが、彼がひどい状態で戻ってきたときに、それを受け入れられませんでした。
そして今も、シンがどんな状態でも、息子として誇りを持てると思っていたのが、誰にも馴染めないでいるシンを責めてしまいたくなるのです。
シンの過去は誰も理解できないほど辛いものだということを理解しなくてはならないのに、“ちゃんと普通”になることばかりを考えていて、シンが本当はどうしたら良いのかを考えられませんでした。
私は、歌司様がシンを戻した時のことを思い出していました。
『本当に無理そうならば、この家で面倒を見ることもできるのですよ』
今こそ、本当に無理だと実感していたのです。
私は最初からシンに愛情を注いでいなかったのではないでしょうか。愛想のない無表情の子どもを必死になって“普通”に仕立てようとしてきましたが、私の理想である、あの4歳の頃の無邪気なシンとは大違いだったのですから、愛情の注ぎようがないのです。
―― 本当に無理、だったのね。
私はそう思いました。それで、歌司様に手紙を書きました。もう無理です、と。
シンは一人前の頭巾をもらっていました。もう15歳になっていたのです。その年もテトが相棒をかって出てくれてなんとか森守りとしてやっていました。それでももう、テトには申し訳なくていられませんでした。
やがてツカサ様から手紙が届きました。
『シンを北の森へやりましょう』とのことでした。それで、シンは16歳の春に、国の反対側、北の森へ行くことが決まりました。
私はホッとしました。シンを自分の目で見ていなくて済むのだと。シンのことを知らない誰かが、シンの相棒になってくれるのです。もしかすると、シンもその人には口を利くかもしれません。
くれぐれも“火”を出すことのないように注意をして、シンを送り出しました。その時もただひたすら“普通”になって欲しいと願っていました。
シンは、北の地に行った夏に一度戻ってきました。相棒の男の子は、にこやかな青年だと夫が言っていました。夫が見る限り、うまくやれているのではないかということでした。
皆伐の仕事でやってきた、最後の日、シンは一泊だけ実家に戻ってきました。相棒の子は一緒ではありませんでした。やはりうまく行ってないのではと私は思いました。相棒の子と仲良くやっているのなら、実家に連れてくるだろうと思うからです。
それでもあまり気にしませんでした。
シンは部屋に入ると、じっと窓辺から外を見ていました。気が付くと、シンは外を見ていることが多いのです。それは、この家に戻ってからずっとそうでした。外が好きなのでしょうか、誰かを待っているのでしょうか。9歳で戻ってきた時の言葉を思い出していました。
冬になり、お正月になってもシンは戻ってきませんでした。
シンにとってはそんなものなのでしょう。
実家と言っても、たいして温かい思い出があるわけでもなく、両親とも仲が良いわけではない。お正月に帰ってくる価値のない家だと。そう思われてもしょうがないのですが、とても寂しく感じられました。
シンは私の息子です。
でも、私たちの心は遠くにあるのです。私は理想を追い続け、シンは私の理想からかけ離れたところにいるからです。
無邪気でお喋りで甘えん坊。そんな子どもがいたはずなのです。それが、シンはその反対で、無表情で無言で誰の手も必要としていないような子なのです。
私の息子はどこへ行ったのでしょう。北へ行ったのは、私の息子ではないのでしょう。
シンは結局、鬼に連れ去られていなくなったのだと、このころになって私は再認識したのでした。




