1. 鬼隠し
シンの部屋の窓からよく見えるところ、庭の端っこだけど、夫のシン(同じ呼び名なのです)が種をうえた春。
「この種は、お母さんの花だぞう」
「おかあさんのはな?」
シンが夫にたどたどしく聞くのを、私は縁側から目を細めて見ていたものです。
「お母さんみたいなお花が咲くんだよ」
夫がそう教えてやると、シンは嬉しそうに手を叩いて飛び跳ねていました。
「やったー、おかあさんのはな!」
そうして、縁側に座る私の元にきて、私の膝に頭を乗せて
「おかあさん、たのしみだね」
と、シンは甘えてきたものです。
シンは毎日、朝起きると自分の部屋の窓から、お母さんの花を確認していたようで、芽が出たときには、大騒ぎで部屋からかけてきました。芽はぐんぐん大きくなり、部屋の窓、シンが背伸びをしなくても見える高さまですぐに伸びました。
「おかあさんのおはな、おおきくなる?」
シンは夫がいるといつも花のことを夫に聞いていました。夫が植えたので、夫にしか分からないと思っていたのかもしれません。
「おかあさんのおはなは、なにのいろ?」
「さあ、何色だと思う?」夫が聞くと
「おかあさん、なにいろがいい?」
とシンは聞いてきました。
「そうねぇ、黄色いお花がいいわ」
私はどんな花が咲くのかを知っていましたが、敢えて知らないという顔をして、希望を述べました。
「きろいおはなになぁれ!」
シンはそれから毎日、花に話しかけていました。私のために黄色い花が咲くようにと。
芽はいつの間にか大きく育ち、茎はとても太く、高さもシンの身長をとうに越しました。
「おかあさんのおはな、おおきいねぇ」
シンは自分の部屋の窓から見るのを楽しみにしていて、花の背が高くなると外に出て、自分の身長と比べっこしていました。
「おかあさん、いつさくかなぁ」
シンは花が咲くのがとても楽しみなようでした。茎の先にはもうつぼみが付いていました。でも、このつぼみはもっともっと大きくなるのです。そしてシンのこぶしよりもずっと大きくなってから花が咲くのですから、まだもう少し先のことになるわけです。
「そうねぇ、つぼみが付いてきたから、もうちょっとしてからじゃないかしら」
私がそう言ってあげるとシンはまた飛び上がって喜びました。
「やったー!もうちょっと!おかさん、ぼくが5さいになるのとどっちがさき?」
「そうね、どっちが先かしら。シンは夏生まれだから、本当にどっちが先かわからないわ」
「ぼくといっしょがいいなぁ」
シンは5歳になるのも花が咲くのもどっちも、それは楽しみにしていました。
夫のシンは森守りをしているので、普段はあまり家にいません。シンと私と二人だけです。私も以前は仕事をしていましたが、シンを産んでから仕事を休み、ずっとシンと一緒の生活をしていました。
シンは私と二人だけの生活でも寂しそうにはしませんでした。勿論夫が帰ってくる日は喜んではしゃぎましたが、それ以外の日も一人でも遊べる子でした。
ある日夫がお休みの日に、シンと夫が縁側で遊んでいると、森の方が騒がしくなりました。
「おい、森の方、何かあったらしいから、ちょっと行ってくるよ、うん」
夫は、台所で食事の準備をしている私に言いにきました。
「あら、どうしたの?」
「森の空が赤いんだよ。山火事かもしれん」
「それは大変!」
夫は大急ぎで衣服を着替え、森に行ってしまいました。
「シン、もうちょっとで夕飯だから、待っててね」
「うん」
シンは夫が出かけてしまっても、縁側で一人でちゃんと待っていました。それくらい手のかからない良い子なのです。
しばらくすると、森の方から騒がしさが伝わってきました。大きな音がするわけではないのです。ただ、騒がしいと感じるだけなのです。そのいつもと違う雰囲気に、私は胸騒ぎがしました。夫の身は大丈夫かと心配したのです。火事などあっては、森守りと言えども危険です。命がけの仕事ですから、心配がないはずはありません。
私は胸騒ぎを振り払うように、食事を作ることに専念しました。
それでも、騒がしさは耳につきます。
「うわー!」
ところが、その騒がしさは、森での出来事だけではなかったのです。
近所から聞いたことのない音が聞こえてきました。赤ん坊の泣き声と、子どもの声。それにたくさんの重たい足音と思われる音。それから耳障りな人の声でした。乱暴に物がぶつかるような音や壊れる音もしました。
私の心は警告を発していました。何か危険が迫っていると。
私は夫を心配し、森を見るつもりで縁側に出て外を眺めました。
その時、私の家の周りではまるで嵐が通り過ぎたかのようになっていました。
近所の家の扉が壊れているのが目に入りました。それに垣根や庭の木々や花が無残に折れているのです。近所だけではありません。
私の家の庭も、いつも綺麗に手入れをしている花壇が踏みつけられたようになっていました。
どうしてこんなことが!
信じられませんでした。何かが起こったのです。これは異常事態でした。
私はシンを家に入れなければと思いました。
「シン!」
シンは縁側か、庭にいるはずでした。
「シン!?」
しかし庭は踏み荒らされたようになっていて、縁側にもシンはいません。
「シン!」
私の声は大きくなりました。シンがいないのです。部屋へ戻り、シンの部屋を開けてもシンはいません。家じゅうを探し回りましたが、シンの姿どころか声もしません。
「シン!どこなの!」
私は狂ったように叫び、シンを探しました。
でも家の中にはいないのです。
縁側から外の様子を見ると、北側の空が赤く光っていました。森の火事のような色が村の中にあるのです。そこから異様なざわめきが聞こえてきました。
私はジワジワとした嫌な感覚に追い立てられるようにして、わけもわからずに、その赤い空を追いかけました。そこにシンがいるような、何かの事件に巻き込まれているようなそんな気がしたからです。
「シン!」
声が枯れるほど叫びながら、その赤い空を目指しました。
「シン!」
一生懸命に走りましたが、その赤い光りはほとんど見えなくなっていました。ものすごい勢いで森に戻って行くように見えました。そしてすぐに見えなくなってしまったのです。それでも長い間追いかけました。それしかできなかったのです。
時間が経ち空は暗くなりました。追いかけようにも追いかけられず、私は途方にくれました。
その時、私の前からトボトボと子どもが歩いてくるのが見えました。
「テト君」
ウチの隣の子です。テトは素足でした。
「テト君、どうしたの」
私が声をかけると、テトは私に気づきました。そして走ってきました。
「おばちゃん、俺の弟が、弟が!うわー」
テトの話によると、テトと生まれたばかりの弟が家にいると、家の中に大きな鬼が入ってきて、弟だけをさらって行ったというのです。
大きな袋に弟を詰め込んで、持っていったと言うのです。
テトはその鬼に蹴り飛ばされ、それでも鬼たちを追いかけたのだそうです。でも、追いつけなかったのだそうです。
それで戻ってきたところで私に会ったのでした。
テトを家に送り届け、私も家に戻りました。家に戻ってもう一度シンを探しました。どこかに隠れているかもしれないと思ったからです。
でもシンはいませんでした。
次の朝になると、村は大騒ぎでした。
村の赤ん坊がいなくなっていたのです。母親から引き離された子、寝ているところをさらわれた子、みんないなくなったのです。
ただ、いなくなったのは赤ん坊ばかりでした。ウチのシンのように4歳にもなっている子は他にはいませんでした。シンは身体は小さいものの、赤ん坊には見えません。いくらなんでも4歳の子を赤ん坊とは間違えないでしょう。それでもシンも一緒にいなくなったのでした。
これがこの村の、神隠しの事件でした。後にも先にも、こんなひどい事件は聞いたことがありません。村の赤ん坊がみんなさらわれたのです。でも、神隠しではありません。テトが見ていたのですから。とても恐ろしい顔をした大きな鬼が、集団で村を襲ったのです。
この日を境に、私は庭に出なくなりました。縁側もほとんど開けなくなりました。当然庭は荒れ、シンの楽しみにしていた花も、咲くこともなく枯れました。シンがいないのですから、5歳にならないのですから、花など咲いても悲しくなるだけです。私は庭を見ませんでした。




