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28. シンの記憶



 二人が家に戻ってくると、外は明るくなっていた。ちょうど朝ごはんの時間だった。すっかり身体が冷え切ってしまったので、まずはお風呂に入りたいところだが、家に戻るとすぐにシンはガクに言った。

「ガクさん」

 いつになく真剣な様子に、ガクは「風呂」とは言えなくなった。

「はい」

「すみませんでした。あの、ちょっと今、話を聞いてもらいたいんです」

 そう言って囲炉裏の前に座った。ガクもその横に座った。

「うん。それで?」

「まず、勝手に夜中に抜け出してしまってすみませんでした。どうしてもキツネ火に会いたくて行ってしまったんです」

 そうだった。それがどうして、あんなところでボンヤリ座り込んでいたのだろうか。

「結局川を越せなくて、それで光るものがあったので、それを探したんです。そしたら、あそこに出ました」

 それがあの、地熱で温かいところだったのだろう。

「そうなの」

「その時、人、人じゃないかな、キノコかな」

「は?」

「まあいいや。人に会いました」

 どんな人なんだ、とガクは思ったがシンの話を優先して口を挟まなかった。

「その人に言われて、僕、考えなしだったとわかりました。心配かけてすみませんでした」

 さっぱりわからなかったが、シンが何かに気づいて、あの暗い目をしていないのなら、ガクはそれでよかった。

「僕、昔の記憶があんまりなくて、ガクさんに言えることがないんだけど、ベイブレードっていう人がいて、人じゃないかな、まあいいや、僕はその人に会いたかったんです。だけど、会っても無駄というか、会わない方が良いということがわかりました」

「でも会いたいんだろう?」

 ガクはシンがあれほど叫んでいたのを思い出した。それにずっと寝言でも言っていたのだし、きっと今だって本当はすごく会いたいはずだ。

「会いたい、というか」

 シンは少し言葉を選んでいた。

「僕は、その頃のことを少し思い出したら、あんまり会いたくないというか、でも、なんていうか、僕が一体何なのか、とか、本当はどうだったんだろうってことは知りたいんです」

「じゃあ、自分のことを知りたいから、会って確かめたいってことかな」

 シンがうまく言えなかったことを、ガクがまとめてくれた。まさにその通り。知らない過去が自分を苦しめるのだから、真実を知りたい、そんな感じだ。



 ガクは棚からあの魔法の帽子を持ってきて、二人の間に置いた。

「聞いてみようか」

「帽子にですか?」

「うん。何か手がかりがあるかもしれない」

 ガクがそう言った時に、シンはホウ爺さんの言葉を思い出した。「今まさにその時がきた」と。今なら帽子も何かを応えてくれるかもしれない。

 シンは帽子に何と言ったらよいのかわからなかった。

「ベイブレードに会いたいです」

 そう言って帽子に手を入れた。ガクは少し笑った。

「それじゃあ、帽子から人が出てきそうだね。って、出てきちゃ困るけど」

 案の定シンが手を入れても何も出てこなかった。言い方が悪いのかと思いシンは他にも色々考えてみた。しかし、なかなか良い言い方というものがない。

「僕の本当のことを教えてください」

 シンはだんだん真剣になってきた。本当に知りたいのだ。どうしてあんなにひどい兄弟のことをずっと慕ってしまうくらい会いたいのか。それくらい何も覚えていないのだ。

 帽子をかきまぜる手には何も当たらなかった。

「何もありません。やっぱりダメなんでしょうか」

 シンがしょんぼりと言った。

「あの人は、真実を確かめろって言ってくれたのに」

「あの人って?ベイ・・?」

「いえ、あの空地で会った人です」

「ああ」ガクは頷いた。「その人、すごいね。真実を確かめろって言ったんだ。シンのこと実は知ってるんじゃないの?」

「そう言っていました」

 そう言いながらも、シンはとてもしょんぼりしてしまった。今度こそ何かがわかると思ったのに、期待外れだったのだ。だけど、こんなことは今までもあったのだ。今更そんなに落ち込むこともない。

 それでも、そんなシンの様子に、ガクは心を痛めた。なによりあのキツネ火を見たときのシンのことが忘れられない。自分にできることは何もないと思うと、ガクの心が苦しくなる。何とかしてあげたい。あんなに辛そうなシンを見続けるのはガクには辛いのだ。



「俺もやってみても良い?」

 誰がやっても同じだとは思うが、ガクもダメ元でやってみたくなった。

「勿論、どうぞ」

 シンがそう言ってくれたので、ガクも帽子に頼むことにした。ガクは真剣だった。シンに真実がわかって幸せになれるなら、協力したい。ガクには何もできないけれど、その気持ちだけは人一倍だ。

 ガクは目を閉じて、何かを言い始めた。シンにはわからない言葉に聞こえた。そう、まるで熊にでも話しているかのような、いつものガクからは想像もつかないような低い声で、少し歌うような、言葉のわからないあの何かだ。ガクは本当に真剣に、祈っていた。

 そしてガクは帽子に手を入れた。

「ん?」

 何かが手に当たったのだろう。シンには何も出せなかったのに、ガクの手に何かが当たった。

 ガクはそれを引き出した。掌にちょうど収まるくらいのあまり大きくないものだ。帽子からひきぬき手を開いた。

「筆?」

 ガクの手にあったのは、赤茶色い毛の筆の先、穂のようなものだ。毛をまとめてある部分は見た事もないような針金のような素材だ。

 シンにはそれが何かがわかった。

「墓髪だ!」

「ぼはつ?」

「見せてください」

 ガクはシンにそれを渡してやった。シンの手が震えている。

 シンはそれを大事そうに両手のひらの上に乗せると、まじまじと見つめた。

 その時に、シンの心に記憶がものすごい勢いで戻ってきた。恐ろしい種族が村の子どもを襲いに来たあの4歳の時のことから、9歳になったシンが北の大きな人たちに助けられツカサの元に戻されたことまで。今まで全く思い出せなかった記憶だ。

 その中で幾度か見た“墓髪”は、彼ら恐ろしい人たちの風習で、死ぬと髪の毛をその針金のようなもので巻いて、それを墓とするというものだ。彼らはなぜか死ぬと塵のようにくだけてしまう。その特徴的な紅い髪の毛だけが残るのだ。それで死んだ証しとして髪の毛を束ねるらしい。



 長い間シンはそうして、いきなり襲ってきた記憶の渦の中にいた。

 そしてあの4歳の日からずっとこらえていた感情が今、どっと溢れてきた。それは“怖い”という感情だ。

 さらわれた4歳のシンが見たものは、自分と一緒にさらわれた幼児たちが、彼ら恐ろしい人たちによって火で焼かれ食べられたことだった。その中でなぜかシンは焼かれなかった。

 恐ろしい思いをしているのに、泣くことも話すこともできず、シンはひたすらに感情を殺して耐えた。生きるためには自分を引っ張って歩く兄の言うことを聞かなければならない。まさに地獄のようだった。

 彼らは火を持って殺戮の限りを繰り返す。それを目の当たりにしながらも、生きるために付いて行った。木も生えないような岩山で放り出されてもシンに生きていくことができようか。彼らはやがて焼き殺すためにシンを“飼って”いるというのに、シンは付いていくしかなかったのだ。

 村々を襲っては子どもを焼き食べる鬼たち。シンは恐怖の中で9歳まで過ごした。

 9歳になったあの日、北の国の大きな人たちが、彼ら恐ろしい人たちを襲った。その大きな人たちに攻撃をさせないために、シンは恐ろしい人たちの前に立たされたのだ。飛んでくる矢や石や鉄砲の弾の楯にされた。顔が引きつるほど恐ろしいのに、声も出せなかった。

 そしてその時、後ろを振り向いた瞬間に、兄と思っていたベイブレードに火を放たれた。シンは背中に兄の放った火を受けて倒れた。それが記憶だ。



 シンはその墓髪を握りしめた。体中が震えている。そして、今まで押し殺していた感情“恐怖”に包まれて、言葉にならない声を発していた。

「ううううううううう~!」

 涙などいつから出ていないだろう。それが今、体中の水分が頭に集まったかのように感じるほど、目からあふれ出てくる。

「あああ~!うわ~」

 シンは子どものように泣いた。シンに最後にもたらされた記憶は“泣く”という感情なのかもしれない。とにかくシンは今までどんなに恐怖を覚えても泣きもわめきもしなかったのに、今ここで真実を知って、まず泣いたのだ。

 ガクはシンの恐怖を感じ取った。どんなに恐ろしい記憶が彼にもたらされたのか、想像もつかない。それでもシンが恐怖を感じていることは分かった。

 ガクはシンを子どものように抱きしめてやった。頭を撫でて声をかける。

「大丈夫だ、シン。シンは帰ってきたよ」

 何度も何度もガクは、大声で震えながら泣くシンに優しい言葉をかけてやった。シンは本当にまだ4歳ほどの子どもに戻ってしまったのではないかというような泣き方をした。身体は大きいのに時々「怖いよぉ」「おかあさぁん」と言葉に出てきた。そのたびにガクはまた声をかけてやった。

「怖かったねぇ、怖かったねぇ」

 怖かった・・・

 長い間シンは泣き続けた。そのうち疲れてしまったのだろう。泣き声が小さくなり、いつの間にか眠ってしまった。

 ガクはシンを布団に運んでやり、寝かせてやった。その顔は幼い子どものようだった。

 涙でぬれた顔を拭いてやっても起きなかった。手の中に握りしめている赤い墓髪も濡れていた。



 小一時間ほどしてシンは目を覚ました。隣にガクが寝ている。昨日の夜シンを探しに行っていたのもあり、ガクも眠いのだ。

 シンは手の中の墓髪を見つめた。

 ベイブレードは死んだのだ。

 あんなに恐ろしかったのに、そう思うと今度は違う感情で涙が出た。

 シンが起き上がって静かに泣いていると、ガクが気づいた。

「シン」

 ガクはシンの顔を覗き込んだ。もう恐怖の色は目の中にはない。あるのは悲しみの色だ。

「ベイブレード、死んじゃった。僕、悲しい」

 シンは子どものようにたどたどしく言った。ガクは何も言えないでいた。

「ガク、ありがとう」

 シンの目は落ち着いていた。今までのような訳の分からないうっすらとした記憶に惑わされず、全てを受け入れている。全てを受け入れるには記憶が恐ろしすぎたが。それでもシンの準備はできていた。長い時をかけてその準備ができるのを待っていたのだから。

 森に戻り、ガクと組み、ともに達成する喜びを共有したり、相手のために幸せを望んだり、そんな普通のことをガクと一緒にしたことを通して、シンが辛い記憶を受け入れられるようになったのだ。時間がかかったが、記憶はどんなにつらくとも苦くとも必要なものなのだ。

「僕、まだ、ごちゃごちゃ、混乱していて、うまく言えないけど、きっとそのうち、ちゃんと言う。言います」

 最後に敬語に直したシンを見て、ガクは思わず笑った。いつものシンが帰ってきたのだ。

「他の人はみんなゴワゴワだけど、ベイブレードの髪は真っ直ぐ。だからこれはベイブレードの墓髪。ベイブレードは多分大きな人に殺されたんだろうけど、墓髪を誰かが作ってくれたんだ」

 シンは独り言のように言った。でもそれは、少しでもガクに何かを説明したくて一生懸命に話したことだった。

 今までこんなことがあっただろうか。シンは無駄なお喋りはしない、無口で無表情なヤツではなかったか。それが今、こうやって色んなことを話そうとしている。まるで、子どもがお母さんに「聞いて」とねだっているように、話し続けた。

「ベイブレードは僕より一つお兄さん。だけど、ずっと背が高い。僕が8歳の時には、お父さんみたいだった」

 成長が速いということだろうか。興味深い話だが、その人は一体何なのだろう。

「ベイブレードって、人間なの?」

 ガクが聞いた。

「うーんと」シンは少し考えた。「目は橙色、髪の毛は赤。夜になると身体は鱗みたいになる」

「人間じゃないじゃん!」

「でも人間だよ?きっと」

 そんな会話ができるようになった。



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