26. キツネ火
ガクとシンは毎日、雪の中を見回りに行っていた。
「ワタルさん!」
シンが玄関からワタルを呼んだ。珍しいことだが、こういう時は何かが起こっているということだ。
「どうした」
ワタルもそれに気づいて急いで出てきた。
「すみません、手伝ってください」
そう言って、家の階段の下にワタルを連れて行った。階段の一番下の段にガクが座っている。
「どうしたんだよ」
「頭動かせないので、ここまで背負ってきたんですけど、階段だと揺れてしまうので」
「頭動かせないって、どうした。落ちたのか?」
ワタルはよく分かっている。とりあえずはそれ以上聞かず、頭を抱えるように持ってやり、足の方をシンが持って、ガクを家に連れて行った。
囲炉裏のそばの引きっぱなしの布団に寝かせると、ワタルが聞いた。
「で?どこから落ちて、どうしたって?」
「雪庇踏み抜いた」
寝たままガクが答えた。口は元気なようだ。
「あほ!それで?」
「落ちたとき、一瞬気を失って見えたんです」
「マジか?どれくらいだかわかるか?」
「結構長かったと思います。2~30秒くらいだと思いますが」
「意識失ってないよ」
「と言い張っていますが、多分ヤってます。そのあとちょっと千鳥足だったので」
「それで、背負ってきたのか。しばらく寝かせておいたか?」
「はい。30分くらいは。でも、冷えてきたので帰った方が良いと思って」
「よし、それで良い。シン、お前詳しいな」
「はい」
多くは語らないが、頼りになるシンだ。
ワタルはガクのおでこに、右手の人差し指と中指を当てて節を口ずさんだ。それからワタルはホッとしたようにいった。
「脳震盪軽い方だな。多分問題ないはずだ」
シンもホッとした顔をした。
「でも、1週間は安静。外出禁止」
「1週間も?」
「当たり前だ。もし6時間以内に違う症状が出たら、この雪の中医者をよばにゃならん」
「げ」
「まあ、多分大丈夫だけどな。で、どこの雪庇よ」
「北東の川上の棚。ウサギがいたもんだから」
「おま!川に落ちたら死んでるぞ」
どうやら脳震盪で済んで幸運だったようだ。
ところが、夜になりガクの症状が変わった。夕食を食べ終わってシンが何気なくガクを見ると、顔が赤く見える。
「ガクさん?」
シンが覗き込むとガクは赤い目をしていた。涙がたまっている。
「頭、痛い」
「おい!」ワタルがすっ飛んできた。「吐き気は?」
「ない・・・と思う」
「思うって、お前。ウサギがいたのは覚えてるか?」
「ウサギ?いつ?」
ワタルが真剣な顔になる。記憶が飛んでいるのか、ちゃんと考えられないのか。これは危険な兆候だ。脳に何かあれば後遺症が残ってしまう。シンが心配そうに二人を見守っている。
「ただいま~」
玄関からヒロの声が聞こえた。(ヒロは町から帰ってきたところだ。)
「あ、ヒロ」「ヒロさん」
ワタルとシンが一緒に振り向いた。その二人の間にはガクが赤い顔をして寝ている。
「ただいま、どうした?」
「こいつ頭痛いって言うんだ」ワタルが言った。
「昼間落ちたんです」シンが言った。
「?そうか?ワタル、アレやってみたか?」
「あ、そうか」
ワタルはガクのおでこに、指を2本当てて節を歌った。そう言えば帰ってきた時もやっていたが、それで何かがわかるらしい。しばらくすると、ワタルはホッとした様子で顔をあげた。
「脳じゃない。大丈夫だ」
「良かった」シンもホッとした。
「で、落ちたって?」ヒロが聞いた。
ヒロに説明をしないで、ガクは眠ってしまった。ヒロにはワタルとシンから教えてあげた。
◇◇◇
それから一週間、本当にガクは寝かされていた。シンは、見回りの仕事をヒロとワタルに、梵天丸と一緒に連れて行ってもらった。
二人の見回りの仕方は、ガクとは全然違った。何というか、何ともさっぱりとしている。一度ざーっと走って行って、それからザーっと(木から木へと)飛んで帰ってくる。そんな感じだ。ガクのやり方がかなり丁寧だということが分かる。
シンが帰ってくると、ガクは布団の中でふてくされていた。眠くもないのに寝ていなければならないのだ。さすがに3日も経つと耐えられないらしい。ゴロゴロと転がったりしている。
「こら、転がるな」
「だって~!人間退屈だと死んじゃうって言うじゃん」
「言わん、いいから早く良くなれ」
「もうなったよー」
そう言うとまたワタルはガクの額に指を当てる。
「あと3日」
「うわーん」
そうして、とにかく1週間頑張った。
ガクはやっとのことで起きて外出できることになった。布団から起き出したガクに、ワタルが言った。
「シンが、ガクのために良いものくれるぞ」
「良いもの?」ガクがシンに聞いた。
シンは答えず、ガクに手紙を渡した。
「ガクが退屈で可哀想だから、気分転換になるものを、帽子に頼んだんだよ」
シンの代わりにワタルが答えた。とにかく、帽子からその手紙が出てきたらしい。
「そうなの?シン、ありがとう。読んでいい?」
ガクは手紙を読みだした。
「俺たちはもう読んだけどな」
ワタルが言った。どうやら、ガクが寝ている時に、みんなで読んだらしい。そうしたらガク宛ての手紙だと分かったのだろう。
ガクは手紙を読みながら顔が嬉しそうにニコニコし始めた。
「5年会だ!やった!」
「来週だろ?頭、治ってて良かったな」ワタルが言った。
「うん!やった~、嬉しいな。あ、シン、俺来週町へ行ってくる。ちょっとだけ休暇。一緒に行く?」
「え」
シンには5年会というのが何かもわからないのに、一緒に行って良いのだろうか?戸惑っていると、ワタルが口を挟んだ。
「ダメダメ、内輪の会なんだから、俺が一緒にいってやるよ」
シンの顔が固まった。「内輪の会」にダメと言われてしまったのだ。シンはガクの相棒なのに、内輪と認められていないみたいじゃないか。
「ええ~、ワタルがくんの?」
「良いだろ?俺もアイツら会いたいし」
「まあ、そっか」
シンには何も言う間がなく、ワタルが行くことが決まってしまった。
そうして、次の週に、ガクとワタルは町へ行ってしまった。シンはヒロとお留守番というわけだ。
「ヒロさん、5年会ってなんですか?」
今更その話題?というような遅さで、シンが聞いた。
「5年会?西の方はないのか?要は同期会だよ。5年目は色々重要だから、この時期集まることが多いんだよな。お前も多分5年目に声がかかるよ」
ヒロは、シンが寂しそうだと思って優しく言った。しかしシンは漠然と思っていた。5年目になっても、自分には声はかからないだろう。同期と仲が悪いわけではなないが、仲が良いとは言い難い。ワタルの言う「内輪の会」と言うものだったらなおさら、シンのような者はいないほうが楽しめるというものだ。シンは余計に寂しくなってしまい、ガクが帰ってくるまでため息ばかりついていて、ヒロを心配させた。
5年会。一人前5年目の同じ年の若者たちの中でも、仲の良いものだけで集まる会。子どもの頃からの仲良しもいれば、学校で仲が良かったものもいるだろう。本当に内輪で楽しくやる会だ。
シンはその会のことを考えていた。シンは9歳になるまで森守りの友だちはいない。9歳になってテトに森のことを習う間も、あまり同じ年の子どもと接する機会はなかった。
同じ学校の友だちも、表面上はいさかいもなかったが、シンの火の魔法のことを知っていて恐れていたので、陰では何と言われていたか知れたものではない。
シンの子どもの頃の記憶は、そんなものだ。
9歳までの記憶はほとんどない。シンに火の魔法を教えた兄弟、ベイのことも、顔も覚えていないのだ。
ただ、ベイという兄がいて、シンはその人についていくしかなかったということはやっと思い出した。だから、ベイは自分を育ててくれた大切な人だと思っているのだが、ベイが自分に優しかった記憶は全くなかった。
それでもシンは、森で暮らしていて寂しさを感じると、ベイに会いたいと思うのだった。もう会うことはないと分かっているのに、会いたいと思ってしまうのだ。会えないと思えば思うほど、会いたいと思う。会ったところで、絶望しかないような気もするのに、なぜか希望をもってしまうのだ。それしか幼いころの記憶がないのだから頼ってしまうのも無理はない。
ガクと出会ったことで、シンの寂しさはかなりなくなっていた。だけどその分、ガクがいないときには、今まで以上に、寂しさを感じるようになった。それで、どうしても兄弟のことを思い出してしまうのだ。
ガクと出会って、少しずつ自己を確立していく上で、ベイのことを思い出すことは、不毛だということもわかるようになってきた。だから思い出したくない。それでも、寂しさやイライラを感じると、どうしても思い出してしまう。自分の心のことなのに、自分でどうにもできないのだ。不思議なことだと、どこかで冷静な自分が思っていた。
5年会。そんなものが自分にあるとしたら、それは懐かしい兄弟に会う時だ。シンはそう思わずにはいられなかった。
◇◇◇
それから一週間して、ガクが森に帰ってきて、冬の森の生活は続いていた。鷲頭の森の家には6人だけしかおらず、交代で(二人一組で)砂糖畑に見回りに行くようにしていた。週に一度だけ、砂糖畑で一泊だ。
その週は、ヒロとワタルが砂糖畑の見回りの当番だった。それにあとの二人は珍しく案内の仕事に出ていたので、家にはガクとシンだけだった。雪解けまでは、この家はいつもこんな感じだ。
ガクの5年会の話があってから、シンは明らかにおかしかった。おかしいというよりは、元に戻ってしまったような感じか。皆伐に行った後に不安定になっていたのと同じだ。いつも通り真面目で仕事もちゃんとこなすが、無表情で無口。ガクにすら頼る姿を見せないような雰囲気。そして何より、ため息が多かった。
ガクは少し分かっていた。5年会に連れて行けなかったので、寂しがっているのだと。その通りではあるが、それを認めたら子どもっぽすぎる。
それに、シンが寂しがるのは、他になにか理由があるのだ。誰か会いたい人がいるとか、何か欲しいものがあるとか、そういう欲求が満たされていないのが大元の理由なのだ。ただそれは、ガクにはどうしようもなかった。
帽子に聞いてみたこともあったが、帽子は何も答えてはくれなかった。
そんな居心地の悪さから、ガクは寝る前に一人で外に出ていた。
冬の間は河童の来ない、家の裏手の湖まで来て、一人で遠くを見ていた。この辺りは少し高いところにあるので、周りを見渡しやすい。
ふと、南西の山を見ると、珍しいものが見えた。ガクはシンにコレを見せてやろうと、家に戻った。
「シン!面白いものが見えるよ。おいでよ」
シンは何も言わずに出てきて雪駄を履き、一緒に湖までやってきた。
「見える?あっちの山。エノキの林のある辺りだよ」
ガクが指した先に、シンもすぐに見つけた。火が灯っているのだ。一列にかなりの長さでポツポツと提灯でもあるかのように、火が灯っている。
シンは目を見開いていたかと思うと、急に走り出した。
「ベイ!ここだ、ベイ!」
雪駄のまま雪の中を走って行く。なかなか進めないが、あそこまで行こうと言うのだろうか。しかしシンは必死だった。
「ベイ!ベイブレード!待って、待って!」
信じられないくらい大声で叫びながら、シンは深い雪をかき分けるようにして進んでいく。
ガクは驚いて、シンを追った。ガクはかんじきを履いているので、シンまですぐに追いついた。
シンの腕を掴んで引き留める。
「シン、落ち着いて。アレは人じゃない。キツネ火だよ」
興奮して、それでも困ったような顔をしてシンが振り向いた。
「キツネ火?」
「そう、知らない?自然現象だよ」
「違う、アレはベイたちだ。僕を迎えに来た!ベイ!」
そう言うと、シンはまたキツネ火の方へと行こうとする。その必死さにガクはシンが可哀想になった。シンには待っているものがあるのだ。シンは迎えに来て欲しいのだ。だがアレは違う。
火はポツポツとついたり消えたりしている。それだけを見ていると美しいのだが、シンにはその火が消えることは耐えられないらしい。
「置いて行かないで!待って!」
必死に叫び続けている。しかし、あの山まではそう簡単には行けない。
シンはどこかへ行きたいのか。シンは誰かを待っているのか。
ガクは考えた。
シンは、ここにいるべき人だ。シンは俺の相棒だ。
「シン」ガクが呼んだ。
「ベーイ!」シンはベイを呼んだ。
ガクは何とかしてシンを引き留めなければならなくなった。そうしなければ、シンは行ってしまう。何もないあのキツネ火の山へ。ガクは心を鬼にして、シンを振り向かせた。
「シン!聞け!」
ガクのその迫力に、さすがにシンはガクを見た。それでも、足はまだ山へ行こうとしている。
「シン、シンの家はここだ。行くな」
シンは何かを言おうとしている。しかしガクは言わせなかった。
「シンの相棒は俺だ」
それを聞いて、シンはハッとした。やっと気づいたのだ。あそこに行っても何もならないと。たとえ、あれが本当にベイだったとしても、シンの相棒はガクなのだ。
シンは、肺がどうにかなってしまったかのように大きく呼吸を続けていた。
「う、う、う」
言葉にならない声が出ている。顔を山のキツネ火に向けて、荒い息をしたまま止まってしまった。
シンにはわかっているのだ。あそこに行けないことを。
でも、会いたいのだ。兄弟に。
どうしようもない感情が湧き上がってきた。
「うわあああ―――!」
シンは叫んだ。
声が途切れた時、その場に突っ伏してしまった。自分をどうしてよいかわからないのだ。突っ伏して、また叫んだ。




