24. そり犬とオオカミ
シンはガクに連れられて砂糖畑まで行くことになった。
「砂糖畑まで行って、一泊してくるよ」
ガクがワタルに声をかけた。
「おーう、了解。今年初めてか?」
「うん」
出かける前にワタルがソリの準備を見に来た。
「おい、シンの靴それじゃダメだろ」
「わすれてた!」ガクが気づき、急いで家に戻る。
シンには先ほどからの二人の会話についていけず、緊張するばかりだ。
「シン、これ履くんだよ」
ガクが持って来たのは、藁沓とかんじきだった。
「これは雪沓、おっと、革足袋の上から履いて。足が濡れると大変だから」
本来は、革足袋は脱ぐのだが、大雪なのでなるべく足を冷やさないようにしなければならない。森守りの知恵だ。
「こっちはいつものと違うからな?俺のと同じ、森守り仕様だぞ」
かんじきは足の裏のつま先部分にツルツルした素材のものが付いている。ガクはよく雪の上を滑るように進んだが、どうやらこれのおかげらしい。
「ソリに片足を乗せて、反対の足はこれで滑らせて、足で上体を支えるんだ」
「え?」
いつもは「はい」と返事をするシンが聞き直した。
「まあ、やってみたらわかるよ」
ガクが気軽に言ったが、ワタルはちょっと苦い顔をしている。シンは心配になった。
「シン、犬ぞりを操るのはガクの右に出るやつはいない。大丈夫だ」
確かにガクならば犬ぞりの扱いはうまいだろうが、素人のシンが乗って大丈夫なのだろうか。しかも犬は大きいとはいえ3匹しかいない。
「犬はこれで大丈夫なんですか?」
「大丈夫。みんな俺の体重くらいはあるんだよ。力持ちだから平気。じゃ、行こうか」
1頭が前に立ち、2頭がそのあとを追うように繋がれ、その後ろにソリが来る。ソリには少しの荷物が乗っていてその後ろに人間が立てる場所がある。ソリの横を支える棒に掴まって、シンは右側に立った。
「右足は雪面に付くように。そう。走り出して無理そうだったら、両足乗せても大丈夫だから」
シンはガチガチに緊張してガクが指定したところに乗り、指定されたものを掴んだ。このまま体勢が変えられない。首を痛めそうなくらい力んでいる。
その左側にガクが乗り、左手でソリの棒を掴み、右手に犬たちと繋がる縄を持っていた。
「ワタル、行ってくるね」
「気を付けてな。あっち、頼んだぞ」
「おう!」
ガクとワタルは元気に挨拶を交わし、シンは無言で、出発した。
「シン、かかとつけないで」
「はい」
「そうそう、膝もう少しやわらかくね」
「・・・」
初めのうちはゆっくり進んだ。しかし犬はわりとどこでも平気で進む。ソリは縦にも横にも揺れまくった。首もそうだが膝もやわらかく構えていないと、どこかを痛めそうだ。
ゆっくり進むとはいえ、さすがに4本足の動物は速い。少し進んだだけで、半日がかりでシンが歩いたところを越して行った。
そこは針葉樹の密集した地域を抜けて、少し広葉樹が生えているところだ。葉を落とした木の下は明るく見える。曇っていても眩しくてたまらない。シンは目を細めながら懸命に前を見た。先ほどよりも地面が開けているせいか、どうも速度が上がっているように思う。
「あ」
と思った時にはシンは足を取られソリから離れて飛んで行った。
すぐにガクがソリを止めて、シンに走り寄ってきた。
「大丈夫?」
クスクス笑っている。よっぽど豪快な飛び方をしたのだろう。しかし雪が柔らかいので、あまり痛くはなかった。
ソリに戻りながらガクが言った。
「ここから開けてくるからもっと速度上げるけど、無理そうなら俺の前に立つか」
「前に?」
ガクはソリの足場の前側にシンを乗せて、前に出ている棒を掴ませた。そして、その足をまたぐようにして、ガクがシンの後ろに立つ。ちょっと狭い。
「ちょっと前かがみ気味に、あ、ここに膝を乗せて」
シンは前傾姿勢に屈みこんだ。しかしそんなに体勢としてはキツくない。寄り掛かるところがあるので、むしろ安定する。
振り向くとガクは鼻と口を隠すような覆面をしている。目だけが前を向いていて、いつもより凛々しく見えた。
「よし行くぞ!」
気を取り直して二人は再出発した。シンは前を向いて、犬の動きや雪の状態を見ながら、身体を傾けられるようになってきた。ただし、ものすごく速いので、顔が凍りそうだった。
雪の間は、森に慣れている森守りでも、北の砂糖畑まで行くのに半日以上かかる。
その日は、朝食を食べてから出発して、途中2回ほど休憩をとり、犬(と、シン)の様子を見ながら、ややゆっくり進んだが、さすがに犬ぞりは速い。昼を食べる前には砂糖畑に到着した。
そこから仮小屋の木までもすぐだ。仮小屋の木に到着すると、ガクはすぐに犬を休ませた。長めに縄を付けた状態でなるべく動きやすくしておく。犬たちは休んだり遊んだり楽しそうだった。
ガクは次に、雪かき用の円匙を持ってシンと一緒に歩き出した。広い砂糖畑の真ん中くらいのところに、普通の平屋の小屋がある。深い雪のせいで、戸口がわからない状態だった。
「屋根だけ痛めないように、雪おろしをするんだ。そこ扉だから、そこだけは雪を落とさないで」
なるほど、と思いながらシンは雪おろしをした。ガクも一緒に屋根に上がったが、ガクは遠くを見渡してばかりであまり雪おろしをしていなかった。
「どうかしたんですか?」
「うーん、いやぁ、なんか、変な感じが」
歯切れの悪いガクの返事であった。
それから砂糖畑の林を見回り、木が折れていないかを確認した。ガクはかんじきでスイスイ滑るようにしながら遠くの方まで見回りに行っていた。
夕方になりまた仮小屋の木に行き、防寒を探した。寝袋や外套など、この寒い北の地の夜をすごせる装備がちゃんと整っていた。
木の下で火を熾し、温まりながら夕飯をとった。犬たちは火を怖がらずに、二人のそばでゆっくりしていた。1匹だけ元気が有り余っているらしく、しきりとガクやシンに「遊んで」とじゃれついていた。
「よしよし、梵天丸、取って来い!」
ガクが棒切れを投げてやると大喜びで取に行く姿は、初めて雪を見て手をあげて喜ぶシンみたいだなぁとガクは目を細めた。
◇◇◇
「さて、じゃあ休もうか。犬たちはそのままで大丈夫だから、火を消して上に行こう」
そう言われたが、シンは火を消したくなかった。とにかく寒いのだ。
「僕、ここにいたいです」
「え、寝ないの?」ガクが驚いた。
「はい。多分寒くて眠れないので、火のそばにいたいんです」
ガクは少し考えた。確かに、眠れないのなら木の上で凍えて長い夜を耐えるよりも、温かい火のそばにいた方がよさそうだ。
「じゃあ、火の番をしてもらうかな。寒くならないように気を付けろよ」
「はい」
「おやすみ」
そう言い残して、ガクは木に登って眠りに行った。シンは火の番をしながら辺りを観察していた。
今夜は曇りだ。雪は降っていないが雲が少し厚い。風は穏やかであまり寒く感じない。もちろん地面からしんしんと冷たさが登ってくる。しかし、たき火の前でシンは寒くはなかった。外套を首まできちんと巻いているから、気にならない。
ガクが眠る仮小屋の木の葉が時折ザワザワという他はほとんど音がない。寒いところだし、今夜は暗い。
いつしか犬たちもみんな眠ってしまった。
長い暗い夜の時間がゆっくりと過ぎていく。
と思っている時だった。
「シン、大変だ」
そう言って、ガクがストンとシンの横に飛び降りてきた。
「どうしたんですか?」
シンは思わず立ち上がった。ガクの顔が緊張している。
「オオカミが来る!」
「え?」
シンは耳を傾けたが、オオカミの声など聞こえない。しかし、ガクには聞こえるのだ。
「まだもう少し時間があるけど、どうしよう、シン」
「犬を起こしますか」
犬たちは3頭とも目を覚まして、もうガクの隣にやってきていた。
「犬を・・・あの小屋に隠すのは、無理か」
そうか、自分よりも犬が襲われることが困るのだ。
「犬はオオカミに襲われるんですか?」
同じイヌ科だし、襲わないかもしれない。
「こいつらも大きい犬だけど、この辺りのオオカミはかなり凶暴だ。それに、腹を空かせている声が聞こえた。獲物は何でも良いはずだ。ここに人間と犬がいるのがバレてる」
ガクは言いながらも、火に薪をくべていた。とりあえず、オオカミは火を怖がるから、火は頼りになる。
「なんとか・・・早くしないと」
珍しくガクが取り乱している。
「いつもみたいに、説得できないんですか?」
「オオカミに?」ガクがきょとんとしてシンを見た。「ご馳走を目の前に、オオカミを説得するのは無理だなあ」
なるほど。相手は腹を空かせているのだ。
「じゃあ、あ、木に乗せましょう!」
シンが仮小屋の木を指した。犬もオオカミも木には登れない。こんなデカい犬が木に登れるはずがないのだが、今はそれが一番いい方法に思えた。
「よし、やろう」
そうと決まったら話は早い。急がなければオオカミがやってきてしまう。
「シン、あの枝で犬を受け取れ。重いから気をつけろ」
「はい」シンは素早く枝に飛び乗った。
「牛若丸、来い!」
『呼んだか!』
ガクの呼びかけに一番聡明そうな犬がすぐに従った。ガクが犬に低い声で話しかけると犬はすぐに走り出した。
そり犬は足腰が丈夫だ。助走をつけて地面を蹴ると、仮小屋の木をほんの数歩駆け上った。
枝の上からシンが手を伸ばして牛若丸の前足を掴もうとしたが、まだ下すぎた。木の幹に爪痕を付けながら犬が落ちてゆく。
ガクは牛若丸にもう一度話しかけた。犬は少し離れたところまで走って行き、すごい勢いで戻ってきた。そして今度は一度ガクの肩に飛び乗り、そこから木に飛び移った。今度は高さも充分だ。
シンは枝の上に立ったまま、牛若丸を枝に乗せることができた。
「やりました!」
下を見るとガクが転がっている。犬に蹴られて反動でコケたのだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、上の箱に入れられる?」
「はい―― 入れました!」
枝に乗せるのも大変だが、小さな穴からその上の箱部屋に入れるのもかなり大変だ。
「よし、多門丸!」
『わかったぞ!』
その時、オオカミの声がシンの耳にも聞こえた。
もうだいぶ近くにオオカミがいる気配がしてきた。犬たちにもわかるのだろう。犬たちも興奮している。
多門丸が走り出して、ガクの背中に飛び乗った。ガクが膝を使ってなるべく上にほうり上げるようにすると、犬はシンのいる枝に飛び乗った。
「うわー!」
ただ、その犬の勢いが強すぎて、受け止めたシンが落ちてきた。
「ごめん、シン」
「大丈夫です」
もうシンにもオオカミの吠える声が聞こえる。すぐに上って、3頭目を受け取らなければ。
シンはツツを放って、枝の上に上り、多門丸を木の上の箱(部屋)に押し込める。
「斥候だ!シン急いで!」
下からガクの焦り声が聞こえてきた。多門丸を上の箱に押し込むのももどかしい。
木の下ではガクが、シンが顔を出すのが早いか、オオカミたちがやってくるのが早いか、気を揉んでいた。
「梵天丸、来い」
そう言った時に、オオカミたちがたき火を目指して今ガクの目の前にやってきた。
オオカミの動きは素早かった。茂みから現れてガクと目を合わせた瞬間に、とびかかってきたのだ。しかも、犬とガク両方に襲い掛かった。
ガクは瞬間的にたき火から一本抜き取り、飛びかかってきたオオカミを殴った。一番前を飛んできたオオカミの鼻っぱしらに見事に当たると、オオカミはすっ飛んだ。他のオオカミも一瞬ひるむ。
その隙にガクは驚愕で動けなくなっている犬に語りかけながら、首輪に縄を滑り込ませた。そしてひと言「行け!」と言うと、梵天丸は急に目を覚ましたかのように走り出した。
ガクはソリもついていないのに、犬について滑って行く。逃げる犬とガクを、オオカミたちが追った。
ガクは追われながらも冷静に判断しながら、梵天丸の舵を取る。梵天丸はガクを引っ張っているとは思えないほど速く森の中を駆け抜けて行った。
ガクが松明を持っているので、森のどのあたりにいるのか、シンにも見えた。その後ろを6頭ほどのオオカミがものすごい吠え声と共に追いかけてゆく。
シンは自分も降りようかと考えた。しかし力にはなれない。それに、上の部屋に入れた犬たちも興奮して暴れ出しそうだ。ガクとオオカミを枝の上から眺めるしかない。
一度西側の方に大きく回り、犬とガクはオオカミをひきつれて仮小屋の木の下に戻ってきた。止まるに止まれず、木の周りを犬が回る。オオカミはたき火を迂回するように回りながら、犬を追いかけている。
後ろからのオオカミに気を取られていたガクは、ふいに右側から襲い掛かってきたオオカミに一瞬遅れをとった。寸でのところで身をかがめる。ガクの頭巾がオオカミに引きちぎられた。
黒い髪の毛が風になびく。頭巾があってよかったが、この次はない。
ガクはもう一度西の方へ逃げて行った。
なんとか、犬だけでも木の上に上げたい。だがそのためには、一度ガクは犬から離れて、犬の助走を手伝わなければならない。そんな余裕があるだろうか。
ガクは松明を口に咥え、ツツを取り出した。ツツにはいつでも紐が付いている。
後ろを見ると、また半分のオオカミがいない。回り込んでくるはずだ。ガクは今度こそ見損なわないように、風のように走りながらも気配を読んだ。
また右から来る。松明を右手に持ち、速度を速めた。梵天丸は疲れを知らない。足の速さも天下一品だ。オオカミにだって負けない。
右後方からのオオカミに気づく。
「来た」
ガクは、オオカミの方を見もせずに松明を振り回した。賢いオオカミは、それでガクが全方向に対応できることを悟ったのだろう。攻撃の仕方を変えるべく一度群れに戻った。
木の下に戻ってきて、ガクは木の低いところにツツを放った。それから近くの木を一周する。そして、そのツツの反対側をシンに放った。
「シン、取って!」
反対側はツツが付いていない。手が離れにくいように紐に結び目があるのだが、ツツほどはよく飛ばない。シンは枝に足をからませて、精いっぱい身体を伸ばしてガクの放った紐を受け取った。
「もう一度通ったら・・・」
と言いながらガクが去っていく。その後ろをオオカミたちが大きな声で吠えながら付いていくので、ガクが何を言ったのか聞き取れなかった。
シンはその紐が何を意味するのかを考えた。早く正しい答えにたどり着かないと、ガクが戻ってきてしまう。
ガクは今までの西側の森ではなく、少し南よりの方へ行ったようだ。何度も同じところを通らないようにしているのだろう。
シンはガクの紐をよく観察した。そうだ、ガクが通ったあとに紐を引くのだ。それでオオカミがひっかかるという算段だろう。
しかしオオカミは6頭はいる。最初の数匹が倒れたら残りは迂回をするはずだ。
それでシンは、一度木を降り、自分のツツと紐で違うところにも同じものを作った。それでシンは自分が木に登るためのツツがなくなってしまった。これは自力で上がらなければならない。
森守りならば難しいことではないが、この雪で足場が悪いため簡単とは言い難い。しかももうガクが戻ってきてしまいそうだ。急いでシンは木を駆け上った。寒さを感じていないとはいえ、手先はかじかんでいる。枝を掴みそこなったら間に合わない。
シンは必死で枝に食らいついた。もうガクの姿と吠えるオオカミの声が近づいている。なんとか体勢を立て直し、紐を持ち直す。
うまくこの下を通ってくれ。そして、あっち側も通ってくれ。紐を持つ手が、寒くてかじかんでいるのに、汗ばむ気がした。




