22. 狩りの季節
シンはだいぶ落ち着いて考えられるようになった。兄弟のことは考えても仕方がないのだ。勿論恋しい気持ちはすぐには忘れられないし、何かの拍子に思い出して悲しくなることもあるが、今までのように始終考えていて、会えないからと言ってイライラしたりすることはなくなっていた。
それはガクがあの帽子に、自分のことではなくてシンのことを、シンの幸せを願っていたからだ。シンは自分のことばかり願っていたのに、ガクは違う。そういうガクと相棒として組めることで、シンは兄弟よりもガクに対して考えることも増えた。
そうして、大部屋の雰囲気も大幅に改善され、勿論シンが誰とでもベラベラとお喋りしまくるようなことはなかったが、少しずつみんなと話せるようにもなってきていた。言葉づかいに反して、意外と表情が険しくなることも多かったが、それはシンの性格なのだと受け入れられた。
◇◇◇
ところがここにきていきなり情緒不安定になった者がいた。
なんとそれは、ガクだった。
冬を前にして、秋の忙しい時期だ。
「シン、明日の見回り・・・ワタルたちと行ってきて」
夕食の席で、ガクが言った。見るとガクは食事をほとんど食べていない。
「どうしたんですか?具合悪いんですか?」
顔色も良くないし、食欲がないのなら、冬のお腹の風邪だろうか。シンは心配してガクの顔を覗いた。
「うん」
「ダメダメダメダメだ、シン信じるな!これは仮病だ!」
ワタルが横から口を出してきた。のっけから仮病だなんて人聞きの悪いことを言う。現にガクの顔色は悪いではないか。
「ワタル、頼むから」
「ダメだ。お前そろそろ慣れないとやってけないぞ!」
どうやらガクは、何か嫌な仕事があるのだろう。
「何にですか?」シンはワタルに聞いた。
「狩りだよ」ワタルが答えた。
「シン、お前のいたとこ、狩りはあるのか?」ヒロが聞いてきた。
「ありますよ、勿論。猪とかいますから」
「あっちの猪はデカいって言うからな」ヒロが言った。
「そうなの?どれくらい?」ゲンが聞いた。
「え、大きいのだと、2メートルくらい」
シンにはそれが大きいかどうかはわからない。それしか知らないのだから。
しかしどうやら大きいらしかった。ゲンがすごく驚いた顔をしている。
「2メートル~?どうやって狩るの?無理でしょ」
「さあ・・・」
シンにも詳しくはわからない。狩りは狩人の仕事だからだ。森守りは狩りの季節、森を見回ることはするが、森守り自ら狩りをすることはない。ただ、猪は見たことがあるので、大きさくらいは知っているというだけだ。
2メートルもある猪の話になると興味深そうにみんなの話に入ろうとしているガクだったが、話が狩猟のことに戻ると、また一人小さくなってしまった。
「まあ、コイツが動物大好きだから、気持ちはわかるけどな」ワタルが言った。
「狩猟犬に帰れって言っちまったことあったしな」
ヒロが笑いながら言った。
「罠をだいなしにしちゃったこともあるしな」ワタルも笑った。
「まあ、それは良いんだよ。そういう仕事だから」
ヒロがフォローしつつも、一緒になって笑っていた。
ちなみに、この国では罠の使用は禁止されている。動物を狩るからには、基本一対一、命と命の戦いだ。狩猟犬も使うが、犬が狩るわけではなくて、あくまでも追い詰めるだけに留める。それから、獲物と狩人の戦いというわけだ。
罠は色んな意味で森に良くないので、使われない。しかし、罠を張って手軽に猟を楽しむ、密猟者がいることも確かだ。ひどい場合には、罠を張った場所や、罠を張ったこと自体を忘れていて、罠にかかった動物をいたずらに傷つけ殺すだけになることもあるのだ。かかった罠から逃れようと、自分の足を食いちぎって逃げた猪もいる。ガクは何度か3本足の猪に会ったことがあった。
そういうわけで、罠は見つけ次第撤去ということになっている。この時期の森守りの重要な仕事だ。
人間の匂いに敏感で、警戒心の強い動物がかかるほど巧妙にできている罠は、森を歩き回る森守りにだって危険だ。無傷で捕えようとする罠ばかりでなく、そういう密猟者の罠は、まずは動物を傷つけて動けなくする目的のものも多い。一つ間違えば人間だって殺してしまう。
だからこそ重要なこの仕事を「やりたくない」というわけにはいかない。
「なるたけ近場にしてやるから、とにかく行ってこい」
「具合悪くなったら、すぐ休めば良いから」
「まだ始まったばかりだから明日は大丈夫だ」
「ほんのひと月だけじゃないか」
「シン、頼んだぞ」
ヒロとワタルに言いくるめられて、逃げ場もなく、ガクは見回りに出なければならないのだった。
朝になり、いつもよりもずっと寝坊をしているガクを叩き起こし、無理やり食事をとらせ、ワタルは行ってしまった。
残されたシンは、抜け殻のようになっているガクを、本当に連れて行って良いものか考えあぐねてはいたが、行かなくてはならない。心を鬼にして、ガクの支度を手伝い、出発することにした。
「ガクさん、ほら、コレ着てください」
シンは、ガクに真っ赤な肩掛けをかけた。狩りの時期は明るい色の服を着なければならない。動物と間違われて撃ち殺されたなんてシャレにならないからだ。しかし、何だこの肩掛けは?
肩掛けというよりは、外套に近いほど長く、色もところどころ反射して光っている。変な素材の布だ。その反射する何かが小さくシャラシャラと音を出している。
シンはさらに、木鈴をガクの帯に結びつけた。
「あ、コレ」
見覚えのある可愛らしい木鈴。これはカラクリ師なぎが、熊よけに腰につけていたものと同じではないか。
「そうです。なぎさんが、ガクさんのために送ってくれたんです」
わざわざガクのために・・・確かに、シンはいつもの森守りの狩猟時期の格好をしていた。肩掛けは、桃色の布を斜め掛けにしているだけだ。
ガクは思わず吹き出してしまった。自分だけこんな珍妙な恰好をさせられるとは、なぎの好意は気持ちだけにしてほしい。とはいえ、嬉しかった。
「なぎさんの気持ちですから、使ってあげてください」
シンは裾を持ち上げ、ガクの腰に巻きつけはじめた。
仕方がない。さっきよりさらに奇妙な恰好になってしまったが、今日だけは使おう。これで少し落ち着いたのだし、なぎには感謝しているのだ。
その日は、なぎのおかげでガクも少し元気になったので、見回りはそんなに大変ではなかった。まだ狩猟時期に入ったばかりということもあり、ガクは狩りの音を聞かなかったし、密猟者の罠も見かけなかった。
しかし狩りの時期はひと月続く。今日は大丈夫だったが、これからのひと月を考えると、ガクはまた具合が悪くなるのだった。
次の日もガクとシンは近場を見回った。遠くで銃声が一度だけ聞こえた。
その次の日は、犬たちが駆け抜けるのが見られた。猟場はこの辺ではないらしい。もっと北の奥の方へと消えて行った。
そうして毎日、何かしら猟がおこなわれる日々となった。ガクにはシンの聞こえない音が聞こえるのだろう。日に日に顔色が悪くなっていく。時折耳をふさいだり空を仰いだりしている様子は、見ていられないほどだった。
「ガクさん、今日はもう戻りますか?」
見かねてシンが声をかけたとき、ガクはピクリと動いた。具合が悪くても、見たくない聞きたくないと思っていても、ガクは森守りなのだ。見逃すことのできない森の異変を誰よりも早く感じ取る。
「あっちだ!」
ガクはいきなり走り出した。なぎの肩掛け(結局毎日使っている)のせいで走りにくいが、出来るかぎりの速さで走った。
少し走るとシンにもわかった。犬の声がする。それもキュンという鳴き声だ。
茂みをかき分けると、その犬が現れた。罠にかかってもがいている。地面が擦れ、犬がもがけばもがくほど、首に絡まった針金がきつくなる。しかも前足の皮がべろりと剥けている。腹と尻の間に小さな槍のようなものが刺さって血を流しているのが見えた。
こんな卑劣な罠を仕掛ける必要があるだろうか。しかも、かかった獲物は、森の動物ではなく、狩りを手伝う狩猟犬だ。
シンは密猟者に怒りを覚えた。
首に食い込む針金をバチンと切ってやり、飼い主のところへ帰れとガクが犬に言うと、犬は尾をたらして歩き出した。一度だけガクに振り向いた。
犬がいなくなると、ガクは手近にあった木の棒を持ち、罠をめちゃめちゃに撲りつけた。獲物が罠にかかると槍が発射される仕組みの精巧なカラクリを、原型が分からないほどにしてしまった。
罠は、出来るものはそのまま持ち帰ることになっている。大きいものは使用できないようにして、持ち主を待つ。めちゃめちゃに壊して良いことはないのだ。
シンはワタルの言葉を思い出していた。
ガクは撲り疲れてもまだ機械を壊そうとしていた。シンがそっとガクに声をかけた。
「ガクさん、帰ろう」
そう言って、ガクの持っていた木の棒を取ろうとすると、棒はすんなりとガクの手から離れた。
ガクは表情もなく、ふらふらと家の方へ歩き出した。シンは罠を持ってガクの後を追った。
それからもガクは相変わらず死にそうな顔をしながら、森を見回っていたが、異変があればすぐに急行した。
今度の異変はシンにもすぐにわかった。大きな音が聞こえてきたからだ。
二人がいたところから、どんどん北へ走って行く。音はさらに北から聞こえてきた。狩りの季節、あまりやみくもに走り回るのは危険だが、そうも言っていられない。
少し走るとぶつかるような音や、木がなぎ倒されるような、異様な音が聞こえてきた。その正体はすぐにわかった。
空渡で家へ向かうワタルとゲンに会ったのだ。
「ガク、シン!気をつけろ、今火縄持ってくるから」
「どうしたんですか」シンが聞いた。
「熊だ!」もう去って行ったワタルの声が聞こえた。
ガクにはわかっていたようだ。
音の出どころは、中型の動物用の罠にかかってしまった熊が、腕に絡みついた針金を何とかしようと暴れまわっている音だった。痛みで正気を失っているのだろう。罠をとめてあった木を引きずっている。それで大きな音がしていたのだ。
熊が大暴れしているところに、ガクは戸惑いもせず近づいて行った。
ガクは熊に向かって両手を下げ、小さく低い声で熊に語りかけている。しかし熊はガクの言うことを聞かないで、暴れ続けていた。
シンは居てもたってもいられず、腰に着けた小刀を握りしめ、ガクのそばに来た。
「ガクさん、いくらなんでも危険です」
ガクをかばうように立とうとするシンを、ガクは制した。小刀をしまうように目で合図する。しかし、こんな小さな刀でもないと、危険すぎる。
ガクはなおも低い声で熊に語り続けた。強くはないが意志のある声が熊に届く。奇跡的に熊はガクの声を聞いた。
腕を振り回すのをやめ、その傷ついた腕をガクの方に伸ばしたのだ。ガクはその腕から針金を取ってやろうとした。
ところがそこに、思いもよらず人がやってきた。この罠を仕掛けた密猟者だろう。狩人の服装ではない男が銃を構えていたのだ。
「まさか、熊がかかるとはな!」
銃を持った男は、迷わずに熊に狙いを定めた。そこにガクがいるというのに。打ち損じたらガクに当たってしまうことも分からないような素人だ。
「やめてください、人がいるのが見えないんですか」
シンが叫んだ。その声にまた熊が暴れようとした。ガクは一歩下がった。
「銃を下ろしてください。危険です」
ガクが男に言った。
「何を言うか、俺の獲物だ」
「ダメです。森では森守りの言うことを聞いてください」シンが言った。
熊はゆっくりと男の方へ近づこうとしている。
ガクが男を横目に見ながら、熊に声をかけ続けていた。熊はガクの声を聞きたいが、そこで銃を構えている人間を警戒している。
こういう時の素人は危険だ。なぎの時のことを思い出し、シンは小刀を構え直した。
空気が異様に張りつめていた。
それから一瞬のことだった。
その男が躊躇せず熊を撃とうとしたのと同時に、熊は男を威嚇した。グワっと襲い掛かるようなものすごい威圧感の熊を前に、驚いた男は思わず銃を下ろしてしまった。
「ひ!」と恐怖の顔をした男は、さらに表情を変えた。
―― ガウーン!
男の銃は男の足を撃ったのだ。
「ギャー!」
痛みで転げまわる男を、シンは冷たい目で見降ろした。
ガクはまだ熊と対峙していた。熊は男に襲い掛からなかった。それはガクのおかげなのだ。熊はそれだけ冷静になっていたということだ。
ガクは額に汗をかくほど緊張していた。そしてずっと歌うように低い声で熊に語りかけていた。
熊は少し落ち着いた。
その時を見逃さず、ガクは熊に触り、熊の腕に絡まったものをとってあげた。熊はその間じっとしていた。
そして熊は森へ帰って行った。
その後ろ姿を見ながらガクがボソっと言った。
「熊だって言葉が通じるのに、人間は通じない人がいるんだよ」
シンは無言で頷いた。
銃を持った密猟者はヒロとワタルに捕えられた。森の恐ろしさを実感したことだろう。
◇◇◇
狩猟の季節になり、ガクの眠りは落ちつかなくなった。真夜中に何度もうなされた。罠にかかって苦しむ動物の声が耳について離れない。
「うぅ」
とガクがうなされると、すぐにシンが目を覚ました。
「ガクさん、大丈夫、夢ですよ」
ひと晩に何度もそう言ってあげた。そのたびにガクは、シンの声を感じて再び眠りについた。
それでも何度も同じ夢を見ると、その夢から抜け出せなくなる。そうすると、シンは一度ガクをちゃんと起こさなければならなかった。
「ガクさん、夢ですよ」ガクが目をさますとすぐに「大丈夫ですか?お茶を淹れてあげますから、あっちの部屋へ行きましょう」
そう言って、きちんと夢から覚ましてあげた。
「シン、ゴメン」
お茶を飲みながら、よくガクは謝った。
「大丈夫です。僕夜はあんまり寝ないんです」
それは本当のことだ。シンはなぜかあまり眠らない。眠らなくても平気なのだ。それより昼間の方が眠くなることがある。そういう時はどこでも昼寝をしてしまう。ほんのちょっと眠るとそれですっきりしてしまって、もう大丈夫になる。そして、夜はあまり眠らない。だから、真夜中にお茶を淹れるのもガクの相手をするのも全く苦にならないのだ。
浅い眠りの中に、もう会えない兄弟の夢を見続けるのなら、ガクの声に目をさまし、ガクのために起きている方がずっとラクなのだ。
こうして、狩りの季節が終わるまで、ガクはシンによって、辛い日々を乗り越えることができた。眠らないシンが思わぬところで役に立った。
「シンがいて良かった。ありがとう」
ガクに礼を言われてシンは戸惑った。今まで一度だって、人の役に立ったことがあるだろうか。勿論仕事上での役に立ったことはあるが、役に立とうと思ったこともなければ、これが役に立つと自分のことを考えた事もない。
いつも、人に何かをしてもらっている立場だったのだ。テトですら、シンを頼りにはしていなかっただろう。テトはシンのために一生懸命何かをしてくれたが、シンはテトのために何かをしてあげようと思ったことはないし、役に立ったと感謝されたこともない。
ところが、ひょんなことでシンはガクに非常に感謝されたのだ。それどころか、シンがいてよかったとまで言われた。それは、シンにしかできないことをガクが認めてくれて、喜んでくれたのだ。
シンはとても嬉しかった。こんなことは初めてだ。自分は何者だろう、兄弟にまた会えなければ、自己が確立できない、とさえ思っていたのに、それが違うのだとわかった。自己が確立されるのは、自分の存在価値が見えたとき。ガクが「シンがいて良かった」と言ってくれたことが存在価値なのだ。
真夜中に起きていることが苦痛だったシンにとって、こんなことが役に立つとは、思いもよらなかった。
勿論、ガクも、うなされるたびに起こしてくれて、少しでも安眠を作ってくれたシンがいなければ、狩猟の季節は越せないほどだったのだ。言葉に言い表せないほどに感謝していた。だから、その気持ちがシンに伝わったのだ。




