最終話 仕方のないやつ
都内のオフィスビルの一室。
扉の前に立つ。
この中に入れば、かつて矢井田が勤めていた職場がある。
そして、あの憎きクソ上司がいる。
(懐かしいな)
昔の思い出が蘇ってくる。
良い記憶はほとんどない。
事務所が近づくにつれて憂鬱になっていき、入り口の扉を開ける頃には完全に感情が死んでいたように思う。
扉の向こう側はかつて地獄だった。
でも今は違う。
自分とは関係のない仕事を行っているただの事務所であり、そして今から戦うための舞台だ。
覚悟を決めて扉を開けた。
懐かしい事務所の光景。
矢井田が座っていた席には、知らない誰かが座っている。
ここに矢井田の居場所はない。
居座るつもりもない。
(散らかっているなぁ)
矢井田が働いていた頃よりも事務所は散らかっている。
ゴミ屋敷という訳ではないが、明らかに整理整頓されていない。
(誰も掃除していないのか)
矢井田は率先して、事務所内の整理整頓を行っていた。
自分の仕事スピードが余り早くないことは自覚している。だから他の部分で会社に貢献したいと思って、普段から率先して整理整頓や清掃を行っていた。
事務所が綺麗であることは、客が来たときの印象にも影響するし、どこに何があるか分かりやすくなって仕事の効率もアップする。
クソ上司には余計なことをしている暇があればもっと働け、と怒られていたが。
「矢井田じゃねーか!」
奥の席で偉そうに座っていたクソ上司がこっちにやって来る。
普通に笑顔だ。
悪びれた様子は一切ない。
(自分が原因で辞めた……なんて思ったこともないんだろうなぁ)
クソ上司は自分が正しいと思い込んでいる。
矢井田を追い詰めた言葉の数々も、適切な指導だと考えているのだろう。
かつての職場でクソ上司を見て、改めてこの人は好きになれないと確信した。
(イコとは何が違うんだろうか)
彼女もいつも自信満々で、自分を省みない少女だ。
中年のおっさんと美少女の違いか。
仕事と私生活の違いか。
それとも、嫌いな相手と好きな相手の違いか。
「おーい、みんな注目ー!」
クソ上司が手を叩いてみんなの作業を止める。
懐かしい。
彼は事あるごとに、こうやってみんなの作業を止めるのが好きなのだ。
「知っているやつもいると思うが、こいつは矢井田だ。以前ウチで働いていたが、また戻って来てくれることになった。どんくさいところはあるが、デバッグ作業が得意だから、今のウチにとって重要な戦力になるはずだ。みんな、よろしくしてやってくれ」
ぱちぱちと拍手が起こる。
使えるコマが増えたと喜んでいる様子の要領の良さそうな者や、ようやく楽になるかもしれないとホッとした様子の真面目そうな者。
反応や理由はそれぞれだろうが、みんな矢井田の存在を歓迎してくれているらしい。
「よろしくするつもりはありません」
宣言する。
拍手が止まり、事務所の中に静寂が広がる。
少しして、クソ上司がようやく反応した。
「……は?」
「ここに働きに来た訳ではありません。断りに来ました」
「な、なっ!?」
矢井田に反抗されると思っていなかったのか、目を大きく開けて驚いている。
「育ててやった恩を忘れたのか?」
「あなたに育ててもらった覚えはありませんよ。むしろその逆です」
クソ上司は怒りでわなわなと震えている。
「目先の効率に囚われて、そのしっぺ返しをうけている。それはあなたの責任です。だから、あなた自身でケツを拭いてください。少なくとも、私がフォローする気はありません。私があなたの元で働くことは二度とありません。今日はそれを告げに来ただけです」
何が起きているのかと呆然としている人たちに、「失礼します」と頭を下げて事務所を去る。
「おい、待て!」
クソ上司が引き止める。
彼に背中を向けながら立ち止った。
「俺をコケにしやがって……訴えるぞ!」
振り返って、彼の目を真っすぐに見つめる。
「どういう名目で訴えるつもりですか?」
「いや、それは……これから考える!」
訴えると言えば怖気づくと思ったのだろう。
昔ならそうだったかもしれない。
でも今は違う。
「あなたがそのつもりなら、これを渡しておきます」
「あ? なんだこれ」
「今後私に伝えたいことがあれば、そこに書かれた弁護士を通してください」
クソ上司に弁護士の連絡先を伝えた。
「……えっ?」
まさか弁護士を出してくるとは思いもしなかったのだろう。
ヤロリに対する誹謗中傷について争うために、イコが親のコネを使って紹介してくれた弁護士だ。
非常に優秀な弁護士だそうで、顔出ししないVtuberが被害者である前代未聞な裁判がたぎると燃えている。
クソ上司の件についても何かあったら自分を使ってくれていいと、彼からは了承を貰っている。
「あ、いや、別に、ただの冗談だって……なぁ?」
弁護士という肩書は、相手によっては非常に有効な武器となる。
威勢のよかったクソ上司は、弁護士をちらつかせるだけで顔を青くして震えていた。
「もちろん、分かっています。だから私から何かをするつもりはありません。もう私たちは二度と関わることはない。それでいいですね?」
「あ、あぁ! 俺はもうお前とは関わらない」
ずっと逆らえなかった相手が情けない姿を晒している。
スカッとするかと思っていたが、別にそんなこともない。
面倒ごとが一つ片付いた。その程度の感想しか抱けなかった。
◆
ビルを出る。
外で待っていたイコと合流して、横に並んで歩く。
「いやー、怖かった」
終始優位な立場で戦うことができたし、思い通りの結果を得られた。
それでも、かつてのトラウマだった相手との対峙だ。
精神的なストレスは計り知れない。
「手も汗でびっしょりだ」
右手の手のひらを見る。
目で見て分かるほどに汗で濡れていた。
その手を――イコが掴んだ。
「うわー、ほんとにべちゃべちゃだ」
そして、そのまま手を繋ぎながら歩く。
矢井田の右手とイコの左手。
恋人繋ぎと呼ばれる、指と指をクロスさせるような繋ぎ方だ。
周囲にいる人たちが2人を見ている。
おっさんと美少女女子高生。
怪しい組み合わせだ。
どんな関係なのか邪推しているのだろう。
「みんなに変な目で見られているぞ」
「そんなの関係ないよ。だってヤイダには手を繋がないといけない理由があるし」
「なんのことだ?」
矢井田に覚えはない。
イコは自信満々に言った。
「私がヤイダと手を繋ぎたいから」
「……ぷっ」
その予想外の答えに思わず笑ってしまう。
「はぁ? 何で笑うの?」
笑われる理由が分からないと言いたげだ。
イコが手を繋ぎたいと思っているから。本気でそれが矢井田の手を繋ぐ理由になると思っているらしい。
相変わらずの自信に呆れてしまうが、困ったことに彼女の考えは的を得ていた。
矢井田は苦笑交じりに零す。
「仕方のないやつだなぁ」
手を繋いで2人で歩く。
何が嬉しいのか、イコは身体を寄せてきた。




