97 那智突撃
「全艦、突撃せよ!」
ベロルシアの右舷が完全に無防備になった瞬間、那智艦上で志摩清英中将は叫んでいた。
ベロルシアを護衛する二隻の駆逐艦が、伊勢・日向との間に煙幕を展開しようとした結果、彼女の右舷側を守る存在はなかった。
これを好機と、志摩中将は突撃を命じたのである。
彼も海軍軍人である。機会があれば、目の前で行われている砲戦に参加したいという欲求は当然にあった。
那智には護衛の敵駆逐艦が逃走を開始した場合の阻止を担わせるつもりであったが、どうやら敵の二隻の駆逐艦は、なおも旗艦の護衛の任を全うしようとしているようであった。
そうした敵の決断に敬意を払いつつも、志摩は訪れた好機を逃すつもりはなかった。今は、無防備となったベロルシアの右舷に魚雷を叩き込む絶好の機会なのだ。
昨夜、彼女に向けて魚雷を放った那智であったが、すでに魚雷の再装填は完了していた。遠距離での雷撃に失敗していたから、今度は接近しての雷撃を敢行する肚である。
もちろん、接近すればベロルシアは残った副砲や高角砲で反撃してくるかもしれない。
しかし、伊勢と日向が搭載しているのは三十六センチ砲である。いかにベロルシアが手負いとはいえ、このままでは決定打に欠けるのではないかと志摩は危惧していた。
だからこそ、第五艦隊の魚雷でベロルシアの介錯を担おうとしたのである。
「右魚雷戦用意! 反航! 目標、敵戦艦ベロルシア!」
一方、目標が煙幕の向こうに隠れつつも、伊勢と日向は主砲射撃を続行していた。
降伏勧告を行ったにもかかわらず敵は煙幕を展開しているのだから、これは逃走の意思ありと見做さざるを得ない。
光学装置での弾着観測は困難となったが、射撃用電探である三一号電探のPPIスコープ上に映る水柱を頼りにして、射撃を継続することは可能であった。また、すでに伊勢と日向は命中弾を出しており、電探で捉えたベロルシアの針路にも特段の変化はないことから、当初の射撃諸元での砲撃が行えた。
そして、伊勢、日向とベロルシアとの間に割り込んできた敵駆逐艦に対しては、雷撃の恐れもあったために副砲による射撃も開始している。
「第五艦隊旗艦那智より入電。我、敵艦ニ雷撃ヲ敢行セントス。以上です」
ベロルシアを挟んで三万メートルほど北側に位置する重巡那智の存在は、伊勢の二二号電探でも捉えられていた。ただし、艦隊が違うために周波数の調整が出来ていないため、無線電話は使えない。
そのため、電文によって互いの位置を報せ合っている状況である。
現状、距離が離れているため誤射の危険性は少なかった。このまま那智がベロルシアに接近したとしても、敵味方の識別を誤ることはないだろう。
「美味しいところを持っていかれましたな」
いささか残念そうに、岩淵参謀長が言った。舞鶴から急行してようやく捉えた敵戦艦に止めを刺すという役割を、那智に奪われたと感じているのだろう。
「まあ、そう言うな。第五艦隊は昨夜からずっとベロルシアを追跡し続けていたのだ。志摩中将と第五艦隊の将兵には、そのくらいの役得があっても良かろうて」
自らの参謀長に苦笑を見せつつ、五藤は宥めた。五藤にとって、志摩は海兵一期後輩である。後輩に花を持たせてやるのも、先輩の努めだろう。
ソビエツカヤ・ベロルシアの艦内では、自沈に向けた準備が進められていた。
度重なる被弾によってすでに甲板上は廃墟といっていい有り様であり、煙幕を突き破ってなおも降り注ぐ砲弾がさらにベロルシアの船体を破壊していく。
艦首の沈下はいよいよ深まってきており、第一主砲塔もすでに波に洗われ始めていた。
右舷への傾斜も、すでに十度を超えている。主砲や副砲の揚弾機も傾斜によって使用不能となっており、最早ベロルシアには戦艦としての砲戦能力も、船としての航行能力も残されていなかった。
「同志提督、あなたの反革命的無能さがこの事態を生んだことを、党に告発させていただく」
今まで司令塔という最も安全な場所に籠っていた政治将校のザイツェフ少将が、顔面を蒼白にしながらそう言ってきた。
この政治将校は艦内各部署に配置されていた他の政治将校たちを引き連れて、いの一番で退艦しようとしていたのである。
だが、ザイツェフ少将の言葉に、政治将校としての傲慢さや凄みはすでになかった。ただ帰還後の粛清に怯え、何とか責任をアンドレーエフに押し付けようとすることに汲々とした、追い詰められた者特有の余裕のなさが見て取れるだけだ。
そんな政治将校を、アンドレーエフやベロルシアの艦長は冷めた目で見つめていた。水兵たちに至っては、自分たちだけ真っ先に逃げ出そうとする政治将校たちに憎しみと侮蔑の視線すら送っている。
そんな無数の視線に気付いた彼らは、まるで追い立てられるようにして艦橋を後にしていった。
「……この状況で、無事にウラジオストクなりソヴィエツカヤ・ガヴァニなりに辿り着けると思っているのでしょうかね?」
呆れと哀れみの混じった声で、ベロルシア艦長は言った。
ベロルシアを護衛するストレミーテリヌイとソクルシーテリヌイにはソヴィエツカヤ・ガヴァニへの退避を命じたものの、結局はベロルシアの政治将校たちを移乗させるために接舷させざるを得なくなっていた。
ベロルシアにはストレミーテリヌイを接舷させ、残るソクルシーテリヌイはなおも煙幕でベロルシアの姿を敵戦艦から覆い隠そうとしている。そんなソクルシーテリヌイには、敵戦艦からの副砲射撃が降り注いでいるという。
最早完全に、三隻は脱出の時機を逸していた。
北側から接近するヤポンスキーの巡洋艦に対抗する手段も、失われている。政治将校の移乗作業がなければ、もしかしたら二隻の駆逐艦は日本艦隊を振り切って逃走することに成功したかもしれない。
もっとも、アンドレーエフ自身も二隻の駆逐艦に退避命令を出す時機が遅かったと思っているので、逃走に成功する確率については懐疑的ではあった。
不意に、艦橋を揺るがす大きな爆発が発生した。
艦橋要員の何名かが転倒し、天井から機材や配管などが落下する。今まで偶然にも被弾を免れていた艦橋が、ついに被弾したのだと誰もが感じていた。
「被害報せ!」
即座に立ち上がった艦長が叫んだが、被弾したのが艦橋ではないことはすぐに判明した。
艦橋から、ベロルシアに横付けし政治将校の移乗を行おうとしていた駆逐艦ストレミーテリヌイが大爆発を起こし、真っ二つに折れていく姿が見えたのである。
「本艦に当たるはずだった敵の砲弾が、命中したのか……」
唖然と呟いたアンドレーエフは、次いで乾いた笑い声を漏らした。ベロルシア乗員たちを見捨てて逃げ出そうとした政治将校たちが、真っ先に全滅の憂き目に遭うとは。
もちろん、真横で爆沈したストレミーテリヌイによって、何とか上甲板に辿り着いたベロルシア乗員たちも多数が吹き飛ばされ、死傷しているだろう。そして、ストレミーテリヌイの乗員には、脱出の暇も与えられなかったはずだ。
それでも、アンドレーエフは嗤わずにはいられなかった。
「北側より接近の巡洋艦! 距離八〇〇〇!」
そして、自分たちが政治将校の移乗作業にうつつを抜かすという愚行を行っている間に、例の巡洋艦が接近を続けていたらしい。
ヤポンスキーの巡洋艦には、魚雷が搭載されている。恐らくはこのまま接近して、雷撃を敢行するつもりだろう。
ベロルシアが傾斜を深めているのは右舷。そして、その右舷側から敵巡洋艦は接近している。右舷に魚雷を喰らえば、この艦は一気に転覆するかもしれない。
「艦長、乗員の脱出を急がせろ」
この荒れた海に脱出して、どれほどの乗員が助かるのかは判らない。しかし、全乗員に艦と運命を共にせよと命じることも出来ない。それは、指揮官としてあまりに無責任な態度だろう。
アンドレーエフは、自分が政治将校と同じ振る舞いをするつもりはなかった。
運の良い者たちは、日本艦艇に救助されるだろう。
暴虐な帝国主義者と教え込まれてきた相手ではあるが、少なくとも敗北を理由に乗員たちを逮捕し、その家族まで反革命の容疑で収容所送りにしているとの噂が広まっている我が海軍よりは船乗りとしての精神を失っていないはずだ。
いつの間にか、敵戦艦からの砲撃は止んでいた。




